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PINGゴルフジャパン20年の歴史 “大きな決断”を支えた「転換期」の裏側【岡田健二社長・単独インタビュー】

PINGゴルフジャパン20年の歴史 “大きな決断”を支えた「転換期」の裏側【岡田健二社長・単独インタビュー】

PINGゴルフジャパンが創立されたのは2004年。17、19年で賞金女王に輝いた鈴木愛や、19年に「全英女子オープン」で優勝した渋野日向子、24年の賞金王に輝いて今季米国男子ツアーを主戦場に戦う金谷拓実ら多くのプロゴルファーを支えている。昨年、創立20周年を迎えた同社の代表取締役社長の岡田健二氏にこれまでの歴史を振り返ってもらった。

所属 ALBA Net編集部
高木 彩音 / Ayane Takagi

配信日時:2025年2月4日 23時00分

PINGゴルフジャパン代表取締役社長の岡田健二氏
PINGゴルフジャパン代表取締役社長の岡田健二氏 (撮影:ALBA)

昨年、『G430』のドライバーが大ヒットしたPINGゴルフジャパン。さらに今年の1月に発表された新しいシリーズの『G440』も大注目が期待されている。日本市場で高く評価されている同社の要因を代表取締役社長の岡田健二氏にインタビュー。今回はPINGが日本で迎えた“転換期”について話を聞いた。

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創立されたのは2004年。17、19年で賞金女王に輝いた鈴木愛や、24年の賞金王に輝き今季米国男子ツアーを主戦場に戦う金谷拓実ら多くのプロゴルファーを支えている。昨年に創立20周年を迎え、これまでの歴史を振り返る。

■PINGゴルフのはじまり

PINGゴルフは1959年にエンジニアだったカーステン・ソルハイム氏が自宅のガレージでクラブづくりをスタートしたことから始まった。とくにソルハイム氏が苦手としていたパターづくりを注力し、試行錯誤を続けた結果として完成したのが“名器”ともいわれる『1-A』パターが誕生。そこからは、ソルハイム氏が生み出すクラブはプロゴルファーの間でも高い評価となった。

67年には、現在の母体である「KARSTEN MANUFACTURING CORPORATION」が設立された。そこからは『ANSER』パター、初代アイアンの『69』、さらに『ANSER』アイアンが発表され大きな話題となった。

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(撮影:ALBA)

■3人でスタートしたPINGゴルフジャパン

「2004年に会社を設立して、最初は3人の日本人採用で入社しました。そして、最初はツアー部門で始まりました。私はそのうちの一人だったのですが、翌年から販売が始まるのでそれに向けて営業、製造など、そういった環境の整備もやっていきました」(岡田氏)

PINGゴルフジャパン代表取締役社長の岡田健二氏

PINGゴルフジャパン代表取締役社長の岡田健二氏 (撮影:ALBA)

■大きな決断と、塚田好宣の存在

ツアー部門では、日本人の男子プロを何人かサポート。やがて“転換期”のカギとなる塚田好宣が契約プロの一人になった。(当時、男子の契約プロは塚田を含めて3名)「そこから2年ぐらい経った2009年頃に、日本の女子ツアーが盛り上がったんですよね」と、1990年代から2000年の序盤はAON時代ともいわれるほど国内男子ツアーの盛り上がりがあったが、宮里藍や横峯さくららの活躍により国内女子ツアーが奮闘。女子ゴルフの“ブーム”がやってきた。

このとき、岡田氏は大きな決断をした。「基本的に男子ツアーから始めていたのですが、少しずつ女子ツアーも行くようになりました。この当時、あまりピンゴルフのブランドが日本で露出できていないこともあり、会社としては女子ツアー人気をもう少し生かしたいという考えがありまして、どういうふうに変えるか…というなかで2009年にツアーの持っている全資源を女子ツアーに振る決断をしました」。

そうすると、男子ツアーへのサポートができなくなる。岡田社長は「当然怒られて、契約も今後はないだろう、男子のほうでは完全にピンゴルフが途切れるなという覚悟を持って、翌年の契約金などのことを準備せずに塚田プロにお話しに行きました」と心を痛ませながら塚田に相談。

当時、その話に塚田は「わかった、わかったと聞いてくれて、また連絡するねと終わったんです」と特に意見などもせずに、ただただ話を聞いていたという。「そこから一週間ぐらいして『俺、ピンに残るよ』と言ってくれたんです。そのような想定もしていなかったので、こちらが慌てるような状況でしたね」と話す。

男子ツアーにクラブを調整するバス(ツアーバン)や、スタッフも行かない。「ゴルフクラブを調整するときは会社に来てもらわないといけない状況になるにも関わらず、塚田プロは『いい、俺、ピンが好きだから』と言ってくれたのです。そこから2年間ぐらい、ことあるごとに会社に帽子を取りに来てくれたり、ちょっとシャフトを試してみたいから取りに来たなど言って来てくれたんです」と当時の様子を語った。 

塚田の理解のおかげで「女子のほうに力を入れることができて、徐々に契約選手が増えてきて。それで初めて日本人契約選手が優勝する流れになり、どんどんそこから加速して、17、19年に鈴木愛プロが賞金女王になり、19年に全英女子オープンで契約プロが優勝するなど同年に爆発的なヒットとなりました。本当にいい選手に恵まれて、その波に乗っていくことができましたね」と日本でピンゴルフが大注目を受けることとなった。

ピンゴルフの認知度も安定し、「ツアーにもっと会社として投資しようとなり、男子ツアーも行こうとなったのが塚田プロに相談をしてから2年後。2011年から徐々に(男子ツアーに)復帰することができました」と男子ツアーのサポートが復活。

そして迎えた創立20周年。「どこが“転換期”だったのかを考えることが多かった年だったんですけど…」と振り返る。

「やっぱり女子ツアーに振り切ったことがすごく大きかったと思いますし、それで考えたときに、今は金谷拓実プロ、蝉川泰果プロなど若い選手がどんどん出てきていますけど、多分塚田プロが『ピンとの契約はおしまい』と言ったら、ブランドとして男子ツアーでは途切れるわけです。またそこに入って行き、信頼を勝ち取るのは時間もかかるだろうし、すごく遅れていたと思いますが、塚田プロが代表選手でいてくれたおかげです」

塚田が男子ゴルフ界でピンゴルフの看板を守り続けたおかげもあり、「クラブに興味を持っていたら連絡しておくよと言ってくれるわけです」とほかの契約選手も増えて行った。その行動によって「今の強い男子のチームが出来上がっているんだなと、とても強く思いました」と、ピンゴルフがツアープロのなかで信頼を置いているのは、製品の良さだけではなく塚田の存在が大きいと明かした。(文・高木彩音)

次回は、大ヒットとなった『G430』ドライバーの誕生についてを語る。

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