名勝負ものがたり
岡本綾子が振り返る1987年全米女子OP3人プレーオフでの惜敗「あれが勝負を決めたパットだった」【名勝負ものがたり】
歳月が流れても、語り継がれる戦いがある。役者や舞台、筋書きはもちろんのこと、芝や空の色、風の音に至るまで鮮やかな記憶。かたずをのんで見守る人々の息づかいや、その後の喝采まで含めた名勝負の数々の舞台裏が、関わった人の証言で、よみがえる。
配信日時:2023年7月4日 22時00分
1987年「全米女子オープン」。悪天候で最終日が1日延期され、さらに翌日、日米英3カ国の3人のプレーオフが行われた6日間の長丁場のメジャーとなった。
プレーオフに残ったのは、この年絶好調の岡本綾子36歳、米国のベテラン”ビッグママ“ことジョアン・カーナー48歳、英国の新鋭ローラ・デービース23歳。ほぼひと回りずつ年齢の違う個性豊かな主役のひとり、岡本の記憶はメジャータイトルがかかったプレーオフよりも、それ以前のほうが鮮明だったという。
■米国人以外で初めての賞金女王獲得がチラつき始めていた
「正直、ジョアン・カーナーがピリピリしてたことをすごく覚えてる。私の勝ち負けじゃなくて」。岡本がこう語るのには理由がある。この年すでに3勝を挙げ、米国人以外で初めての賞金女王タイトルがチラつき始めた岡本の注目度は極めて高かった。メジャーにもなれば、いつも以上にたくさんのメディアから日本から押し寄せる。
当時の米国女子ツアーは、通常の試合に限ると、実力こそ世界一の選手が集まっているものの、ギャラリーの数やメディアの注目度という点では静かなものだった。それがメジャーとなるとそれが一転。日頃から米国ツアーを取材し続けるメディアだけでなく、メジャーでの岡本の活躍を狙ったジャパニーズメディアが激増した。特にカメラマンのシャッター音やフラッシュが、久々のメジャータイトルがかかる当時48歳のカーナーをイラ立たせていた。
岡本が米国ツアーに出るようになって2年目くらいに、「初めてメディア、特にカメラマンのルールができたの。後にコリアンフィーバーが起きたときには、それをハングル(韓国語)に訳したって聞いてる」と、本人が苦笑とともに振り返る状況だった。
「(当時)アメリカの選手は、そういう状況に慣れていない。だから(他の)選手に悪いな、と思っていました。この年の秋、日本に帰って来たときも、電車の中でいろいろな人に私が指差されているのを見た選手たちから『ハイ! スーパースター』と言われてイヤだったなぁ」
SNSなどはない代わりに、メディアのヒートアップは際限がなく、“フィーバー”と呼ばれる岡本が置かれた状況は、後の宮里藍や渋野日向子の比ではなかった。
■嵐と落雷で最終日はサスペンデッド「長い1週間だった」
そんな中で迎えた全米女子オープン。舞台となったニュージャージー州プレインフィールドCC周辺の天候は不安定だった。「長い1週間だった」(岡本)という言葉どおりのメジャーウイーク。
夜中に宿泊するホテルのアラームが鳴り響いたのは、土曜日の夜のことだ。エアコン室外機に落雷があったのだ。「着の身着のまま、財布だけ持ってハダシで避難。30分くらい外にいた」というアクシデントに見舞われた。
翌日、単独首位で挑むはずだったファイナルラウンドは、予定どおりにスタートしたものの、昼前からの激しい嵐と雷でサスペンデッドになり、最終組はスタートしないまま。翌月曜日にプレーが再開された。その晩もホテルのアラームが鳴り響くほどの嵐だった。広い米国のあちこちで試合を開催し、簡単に試合を中止にしない米国ツアーの選手はサスペンデッドにも慣れているが、さすがにこの週は極端な荒天だった。
月曜日に行われたファイナルラウンドは、通算3アンダーの岡本を最終組のデービースが1打差で追う。フロントナインから白熱してた戦いが繰り広げられた。2番、3番連続バーディと岡本が先手を取って3打リードしたが、デービースも負けてはいない。結局、そろって3アンダーでバックナインに入った。
■1.5メートルのバーディチャンスもライン上にスパイクマークが…
岡本がこの試合で一番覚えているのが、10番バーディで再び1打リードした後の13番だ。砲台グリーンのパー4で、岡本は上から1.5メートルのバーディチャンスにつけた。20センチほど右に切れると読んだライン上に気になるものがあった。当時のルールでは修復できなかったスパイクマークだった。
「ちょっとだけ(スパイスマークが)見えてたので『かぁ~っ!』って思った。(ジャストタッチで)タラタラ…ポコン! と入れるか、距離をしっかり合わせて打つか…。迷ったんだけど、障害物があっても勝つなら絶対入る! と思って」と、気にせずまっすぐに打った。
だが、無情にもボールはスパイクマークに蹴られてカップの左側へ。返しも入らず、3パットのボギーとなった。この後の5ホールはスコアカードどおりのプレーで、通算3アンダー。9番からパーを重ねたデービース、そしてこの日3つスコアを伸ばしたカーナーと3人並んでプレーオフへともつれ込んだ。
当時の規定では、全米ゴルフ協会(USGA)が主催するナショナルオープンのプレーオフは、最終日の翌日、18ホールストロークプレーで行われた。天候のせいで火曜日にまでずれ込んだが、岡本は落ち着いて臨んだ。
■メジャータイトルはとれなかったが米国人以外で初の賞金女王に
だが、慣れない3人でのプレーオフ。岡本にはスイッチが入らず1バーディ・2ボギー、3バーディ・2ボギーでプレーした23歳のデービースに敗れ、2位に終わった。
岡本は当時“東京スポーツ”に、こんなコメントを残している。「18ホールストロークプレーオフの経験不足に尽きますね。友達同士3人が、パーティを組んでワイワイガヤガヤという風で緊迫した感じがなかったのね」と、正直な気持ちが伝わってくる。
30年以上経って振り返ると「あれが勝負を決めたパットだった」というのは、プレーオフ以前、レギュレーションのファイナルラウンド「13番のバーディパットだった」と振り返る。
2位タイに終わった時点で賞金ランキング2位だった岡本は、この後、高額賞金のかかった「女子世界選手権」でシーズン4勝目を挙げ賞金女王に輝いた。メジャータイトルはとれなかったが、米国人以外で初めて米国女子ツアーの頂点に立つ快挙は、この死闘抜きには語れない。
2021年、笹生優花が日本人として初めて全米女子オープンに優勝する34年前のドラマがここにある。(文・清流舎 小川淳子)
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