打打打坐 第82回【純喫茶と純ゴルフ】
打打打坐(ちょうちょうだざ)とは、打ちまくって瞑想の境地に入るという造語。コースで打たなければわからないと試打ラウンドだけで年間50ラウンド以上しているロマン派ゴルフ作家が、瞑想、妄想、迷走…… 徒然なるままにゴルフを想い、語るというお話。
配信日時:2021年11月12日 06時00分
純喫茶は絶滅寸前
純粋にコーヒーを楽しむことに特化した空間を提供するのが純喫茶という定義です。昭和の頃は繁華街に行けば、いくつも看板がありましたが、現在では絶命寸前なのだそうです。コーヒーを楽しむ文化の変化は多種多様です。缶コーヒーやコンビニコーヒーなど、カジュアルな楽しみ方も増えたので、本格的なコーヒーを純喫茶で、というファンの数が減ってしまったというのが現状だと聞きます。
その反面、色々なサービスを売りにした喫茶店はチェーン店も含めて大盛況です。昔ながらの喫茶店のナポリタンや軽食、その店独自の特別なスイーツ、モーニングなどのタイムサービス、オシャレで落ち着いた空間を提供してくれる等々。SNSという情報ツールがあったからこそ、たくさんの人たちに知られるようになったお店もあります。古きものが、意図せずに、新しい技術に助けられることもあるという例です。
個人的には、喫茶店は煙草の煙とセットというイメージがあり、全席禁煙が当たり前になってからは、仕事の打合せ以外では利用しなくなりましたが……
先日、ある繁華街の一角で、煙草吸い放題、全席灰皿設置、という看板の喫茶店があり、入るのに行列が出来ているのを見ました。心意気とバカさ加減を確認した気がして、心の中でエールを送りました。
ゴルフコースでも感じますが、令和という時代は、棲み分けがテーマの1つなのかもしれません。ユーザーの嗜好とその人口に合わせて、お店の種類と数が決まっていくと考えて、改めて色々な業界を見ると納得できます。みんなと同じに合わせることより、自分の好みを優先できるところでは大事にしたい人が増えているのでしょう。
その反面、色々なサービスを売りにした喫茶店はチェーン店も含めて大盛況です。昔ながらの喫茶店のナポリタンや軽食、その店独自の特別なスイーツ、モーニングなどのタイムサービス、オシャレで落ち着いた空間を提供してくれる等々。SNSという情報ツールがあったからこそ、たくさんの人たちに知られるようになったお店もあります。古きものが、意図せずに、新しい技術に助けられることもあるという例です。
個人的には、喫茶店は煙草の煙とセットというイメージがあり、全席禁煙が当たり前になってからは、仕事の打合せ以外では利用しなくなりましたが……
先日、ある繁華街の一角で、煙草吸い放題、全席灰皿設置、という看板の喫茶店があり、入るのに行列が出来ているのを見ました。心意気とバカさ加減を確認した気がして、心の中でエールを送りました。
ゴルフコースでも感じますが、令和という時代は、棲み分けがテーマの1つなのかもしれません。ユーザーの嗜好とその人口に合わせて、お店の種類と数が決まっていくと考えて、改めて色々な業界を見ると納得できます。みんなと同じに合わせることより、自分の好みを優先できるところでは大事にしたい人が増えているのでしょう。
ゴルフはスポーツなのか?
「純喫茶みたいな真面目ゴルフって、どう思いますか?」
20代なのに、昭和の色々なものがマイブームになっている若者から質問されて、純喫茶を改めて思いだしたのです。
彼曰く、ゴルフだけを純粋に楽しむのが正しいはずなのに、アルコールで宴会しながらプレーしたり、仲間で集まって適当なゴルフをしたり、目に余るというわけです。
「昭和は大好きだけど、昭和ゴルファーの悪習を現代まで持ち込むのは阻止するべきです」
憤っている彼の目は真剣でした。
「だって、ゴルフはスポーツじゃないですか。他のスポーツなら一発で退場になるような不真面目なことが多すぎるんです」
昭和の頃から、ゴルフ原理主義と呼ばれる純ゴルフを主張する人たちはいました。アルコール禁止、喫煙禁止、賭け事禁止、接待ゴルフ禁止、不倫ゴルフ禁止……
あの頃、彼らは変わり者として、そーっと無視されるようにひっそりと孤独に純粋なゴルフを全うしていたのです。
断言しますが、ゴルフはスポーツの1つではありません。現在、オリンピック種目になった関係で、ゴルフは社会の組織としては体育協会の傘下で、スポーツの1つのように扱われている現実はありますが、スポーツという枠組みではゴルフを覆い切れないのです。
宴会をしながらゴルフをしていることは、スポーツとしては非常識で、悪習だと断罪するのも理解できますが、それもゴルフという文化の一部であり、切り離して、善悪を論じるには、その成り立ちの歴史まで遡らなければならないので、無理があるのです。何事にも、適度と限度はありますので、ゴルフが出来ないほど酔っ払うのは論外ですが、嗜む範囲であれば、ゴルフが何倍も楽しくなると感じる人たちもたくさんいます。
そもそも、自らが審判であるという特殊性が底辺にあるからなのか。使用するボールを自らが選択して準備する時点で、公式なスポーツの定義から外れています。ゴルフは極めるほどにアンフェアが面白くなってしまうゲームです。20世紀のゴルフは、スポーツ的なフェアに歩み寄りましたが、工夫をすればするほど、カバーしきれないものが目立ってしまう矛盾に立ち往生してきたのです。
真面目な純ゴルフを推進したい若き彼に、丁寧に説明をしました。それもゴルフ。アレもゴルフ。あれだってゴルフ。ゴルフの守備範囲は広いのです。
彼は100%の納得はしていませんでした。しかし、現実として、若いゴルファーの中には、昭和ゴルファーたちの影響かどうかは別として、アルコールを楽しみながらプレーしたり、仲間で集まる面白さとゴルフをリンクさせたりする割合が急増しているようなのです。頭ごなしに否定するのではなく、一緒になってやってみてから判断するのもゴルフの内だと諭しました。
他者に迷惑を掛けなければ、大概のことをゴルフは受け入れてきたのです。
20代なのに、昭和の色々なものがマイブームになっている若者から質問されて、純喫茶を改めて思いだしたのです。
彼曰く、ゴルフだけを純粋に楽しむのが正しいはずなのに、アルコールで宴会しながらプレーしたり、仲間で集まって適当なゴルフをしたり、目に余るというわけです。
「昭和は大好きだけど、昭和ゴルファーの悪習を現代まで持ち込むのは阻止するべきです」
憤っている彼の目は真剣でした。
「だって、ゴルフはスポーツじゃないですか。他のスポーツなら一発で退場になるような不真面目なことが多すぎるんです」
昭和の頃から、ゴルフ原理主義と呼ばれる純ゴルフを主張する人たちはいました。アルコール禁止、喫煙禁止、賭け事禁止、接待ゴルフ禁止、不倫ゴルフ禁止……
あの頃、彼らは変わり者として、そーっと無視されるようにひっそりと孤独に純粋なゴルフを全うしていたのです。
断言しますが、ゴルフはスポーツの1つではありません。現在、オリンピック種目になった関係で、ゴルフは社会の組織としては体育協会の傘下で、スポーツの1つのように扱われている現実はありますが、スポーツという枠組みではゴルフを覆い切れないのです。
宴会をしながらゴルフをしていることは、スポーツとしては非常識で、悪習だと断罪するのも理解できますが、それもゴルフという文化の一部であり、切り離して、善悪を論じるには、その成り立ちの歴史まで遡らなければならないので、無理があるのです。何事にも、適度と限度はありますので、ゴルフが出来ないほど酔っ払うのは論外ですが、嗜む範囲であれば、ゴルフが何倍も楽しくなると感じる人たちもたくさんいます。
そもそも、自らが審判であるという特殊性が底辺にあるからなのか。使用するボールを自らが選択して準備する時点で、公式なスポーツの定義から外れています。ゴルフは極めるほどにアンフェアが面白くなってしまうゲームです。20世紀のゴルフは、スポーツ的なフェアに歩み寄りましたが、工夫をすればするほど、カバーしきれないものが目立ってしまう矛盾に立ち往生してきたのです。
真面目な純ゴルフを推進したい若き彼に、丁寧に説明をしました。それもゴルフ。アレもゴルフ。あれだってゴルフ。ゴルフの守備範囲は広いのです。
彼は100%の納得はしていませんでした。しかし、現実として、若いゴルファーの中には、昭和ゴルファーたちの影響かどうかは別として、アルコールを楽しみながらプレーしたり、仲間で集まる面白さとゴルフをリンクさせたりする割合が急増しているようなのです。頭ごなしに否定するのではなく、一緒になってやってみてから判断するのもゴルフの内だと諭しました。
他者に迷惑を掛けなければ、大概のことをゴルフは受け入れてきたのです。
純ゴルフも不純ゴルフもゴルフ
純粋にゴルフだけをするだけで、十二分に楽しいのに、どうして、他の要素も同時に楽しもうとするのか? 純ゴルフを推進する人たちの根本的な疑問は、それに尽きます。
ゴルフだけに集中している人にとって、そうではない人は、全ていい加減で不真面目に見えるのです。一つ目に余ることに遭遇して、憤慨したりすると、徐々に楽しそうにしているだけで不純に感じてしまうようになります。そうなると、少し病気だと言えます。純ゴルフ以外は、すべて不純だと分別してしまえば、とても楽なのです。
エチケットに違反しているケース以外は、純ゴルフであろうと我慢が必要です。これが理解できないと、ゴルフではなく、自己主張が優先されるスポーツになってしまいます。
ゴルフコースは広大で、一人で使うことができるのは、ごく一部の王様か、大金持ちだけです。みんなで負担し合って共有することは、ゴルフの根本的な思考です。エチケットの多くが、それを助けるための先人たちの知恵なのです。
僕はゴルフをしながら、不純だと感じることが多々あります。プレー中に、アルコールを飲みませんが、純粋なら逃げない選択をするのに、賢い判断で逃げる選択をして、失敗を最小限のストロークの浪費で済ませたときに感じるのです。でも、そういう汚れてしまった自分に大いに満足もしているのです。経験を積み、それを活かすことは、ときとしてアンフェアなのですが、ゴルフの面白さの欠かせない一部になっているからやめられません。
純ゴルフが未熟なのではなく、1つの理想であることは間違いありません。しかし、それだけでは、ゴルフが多様な文化と融合して、ゲームとして成熟してきた部分を味わうことは出来ません。そんな味は知らないままで良い、と拒否するのもゴルフですし、食わず嫌いでは判断できないと味わってみるのもゴルフです。素材をそのまま食べる刺身で食すのが最高だと信じていた魚を調理してみたら、想像を絶する旨さだった、ということは、人生で何度もあることです。逆もあります。
僕は純ゴルフを推進している人だと誤解されることがよくあります。くそ真面目なゴルフが好きですし、基本的には、純ゴルフをしているつもりです。しかし、不純なゴルフの魅力も知っていますし、その怖さも知っています。ケースバイケースでは、先頭に立って不純なゴルフのリーダーをしていることもあります。適度と限度を理解するには、経験が必要ですが、魅力と怖さを知っているからこそ、不純なゴルフも楽しめるのです。
巷をよく観察するとわかります。魅力に取り込まれて限度を超す遊びになってしまっている人が目立ちますが、実際には適度な範囲でゴルフを楽しんでいる人のほうが圧倒的に多数なのです。目立つ少数に惑わされずに、実態を見極めるのもゴルファーとして、不可欠な眼力です。
純ゴルフという思考を持っている若者がいることは、ゴルフの将来にとって嬉しいことです。色々なタイプのゴルファーが、互いを認め合うのが唯一の正解だからです。
純ゴルフの最高の特色は、真っ白だから、どのカラーにも染まりやすいところです。彼が、今後、どんなゴルファーになっていくのか。見守ろうと誓ったのでした。
ゴルフだけに集中している人にとって、そうではない人は、全ていい加減で不真面目に見えるのです。一つ目に余ることに遭遇して、憤慨したりすると、徐々に楽しそうにしているだけで不純に感じてしまうようになります。そうなると、少し病気だと言えます。純ゴルフ以外は、すべて不純だと分別してしまえば、とても楽なのです。
エチケットに違反しているケース以外は、純ゴルフであろうと我慢が必要です。これが理解できないと、ゴルフではなく、自己主張が優先されるスポーツになってしまいます。
ゴルフコースは広大で、一人で使うことができるのは、ごく一部の王様か、大金持ちだけです。みんなで負担し合って共有することは、ゴルフの根本的な思考です。エチケットの多くが、それを助けるための先人たちの知恵なのです。
僕はゴルフをしながら、不純だと感じることが多々あります。プレー中に、アルコールを飲みませんが、純粋なら逃げない選択をするのに、賢い判断で逃げる選択をして、失敗を最小限のストロークの浪費で済ませたときに感じるのです。でも、そういう汚れてしまった自分に大いに満足もしているのです。経験を積み、それを活かすことは、ときとしてアンフェアなのですが、ゴルフの面白さの欠かせない一部になっているからやめられません。
純ゴルフが未熟なのではなく、1つの理想であることは間違いありません。しかし、それだけでは、ゴルフが多様な文化と融合して、ゲームとして成熟してきた部分を味わうことは出来ません。そんな味は知らないままで良い、と拒否するのもゴルフですし、食わず嫌いでは判断できないと味わってみるのもゴルフです。素材をそのまま食べる刺身で食すのが最高だと信じていた魚を調理してみたら、想像を絶する旨さだった、ということは、人生で何度もあることです。逆もあります。
僕は純ゴルフを推進している人だと誤解されることがよくあります。くそ真面目なゴルフが好きですし、基本的には、純ゴルフをしているつもりです。しかし、不純なゴルフの魅力も知っていますし、その怖さも知っています。ケースバイケースでは、先頭に立って不純なゴルフのリーダーをしていることもあります。適度と限度を理解するには、経験が必要ですが、魅力と怖さを知っているからこそ、不純なゴルフも楽しめるのです。
巷をよく観察するとわかります。魅力に取り込まれて限度を超す遊びになってしまっている人が目立ちますが、実際には適度な範囲でゴルフを楽しんでいる人のほうが圧倒的に多数なのです。目立つ少数に惑わされずに、実態を見極めるのもゴルファーとして、不可欠な眼力です。
純ゴルフという思考を持っている若者がいることは、ゴルフの将来にとって嬉しいことです。色々なタイプのゴルファーが、互いを認め合うのが唯一の正解だからです。
純ゴルフの最高の特色は、真っ白だから、どのカラーにも染まりやすいところです。彼が、今後、どんなゴルファーになっていくのか。見守ろうと誓ったのでした。
【著者紹介】篠原嗣典
ロマン派ゴルフ作家・ゴルフギアライター。ゴルフショップのバイヤー、広告代理店を経て、現在はゴルフエッセイストとして活躍中。
連載
ロマン派ゴルフ作家篠原の “今日も打打打坐”