トーナメント不毛の地を変える!30歳で引退したゴルファーの思い〜 金谷嶺孝
ゴルフ界に携わるビジネスマンに、ゴルファーとしての生き方やゴルフへの接し方を聞く。考え方は十人十色。だからゴルフ人生は面白い…。
配信日時:2017年8月20日 20時00分
8月10日(木)〜11日(金)の日程で開催された『XEBIO GROUP presents 2017 第16回岩手県オープン』。毎年レギュラーツアーで活躍するトッププロが参戦する東北の一大オープントーナメントだが、この大会はある一人のトーナメントプレーヤーの「トーナメント不毛の地を変える」という思いから始まった(取材・文/標英俊、撮影/鈴木健夫)
「金谷さん、真ん中に来なよ!」
菊池純の優勝で幕を閉じた16回大会。その表彰式で2位・北村晃一との写真撮影をカメラマンに促された菊池は、プロテスト合格同期の岩手県オープン・トーナメントプロデューサーを呼び込んだ。
写真中央に写るのは金谷嶺孝。1969年生まれ、岩手県盛岡市出身。1995年プロテスト合格後、トーナメントプレーヤーとして活動するも30歳でクラブを置き、ビジネス分野に転進した。2001年に『岩手県オープン』をたった一人の状況から立ち上げ、16年継続して開催している。なぜか?15歳の頃から、金谷の心には引っかかるものがあった。
「岩手県のゴルフレベルは低い。岩手県のゴルフを変えたい」
中学からゴルフを始めた金谷は、盛岡市立北陵中学校3年生時に『東北ジュニア選手権』で優勝。意気揚々と『日本ジュニア選手権』へと乗り込んだが、周りのレベルの高さに圧倒された。
「僕がプロになった時点で、県出身者で二人目でしたから。岩手県はトーナメント不毛の地ですが、トーナメントどころかプロもほとんどいないのです。プロと接する機会が圧倒的に少なかったこともあり、アマチュアのレベル、ゴルフ感覚は関東と比べて低かったのは仕方がありません」
初めて全国の舞台で同学年の丸山茂樹らと知り合い、驚愕した。井の中の蛙(かわず)だった。このまま岩手にいたら、ゴルフがうまくならないと思った。全国ジュニアの成績は12位。順位だけ見れば悪くないが、現状を変えなければならないと感じ、卒業後は単身で関東へ。名門・埼玉栄高校で主将を務め、明治大学へ進学。1学年上の深堀圭一郎とともに切磋琢磨(せっさたくま)し、全日本パブリック選手権(現・全日本アマチュアゴルファーズ選手権)優勝など実績を作った。
線が細い体ゆえ、22歳のときには"プロとしてやっていけるのか"という葛藤が生まれたが、大学卒業後に米国のミニツアーやアジアサーキットを経験し、26歳でPGAプロテストに合格。しかし、ここから未来を切り開くはずがいきなりつまずいた。
プロデビューから2年目。足首の靱帯(じんたい)を損傷し、以後は故障をごまかしながら4年間プレーを続けた。足首をかばったことからスイングが壊れていき、ドライバーイップスになった。傾斜からのショットでも違和感があった。もともとプロテスト合格時には、30歳までが一区切りと決めていた。トーナメントプレーヤーとしての力量に見切りをつけた。
「プロ仲間に報告したら、全員に反対されましたよ。"なんでだよ! 30歳は一番いいとき。まだまだやれるだろ?"ってね。ですが約20年ゴルフを続けてみれば、自分がこの世界で生きていけるか否かの判断は下せる。仮に自分の心にうそをつき、35歳まで、40歳までと期限を延ばすことは可能ですが、その分、新しいことにチャレンジする期間は遅くなると思ったのです」
体格的なハンディを克服しようと、人一倍練習に励んできた愚直なタイプ。前日までは練習プログラムに必死に取り組んでいたが、引退を決断した翌日にはクラブに一切触れず、パソコン1台と向き合った。
「初めのうちは、恐怖感が押し寄せましたよ。でも、1カ月間クラブを持たなくなると、ここまでブランクを作ってしまったらトーナメントプレーヤーに復帰することはできないと割り切りました」
気がつけば"岩手にゴルフトーナメントを作りたい"という思いが強くなり、その思いだけでまい進していた。
菊池純の優勝で幕を閉じた16回大会。その表彰式で2位・北村晃一との写真撮影をカメラマンに促された菊池は、プロテスト合格同期の岩手県オープン・トーナメントプロデューサーを呼び込んだ。
写真中央に写るのは金谷嶺孝。1969年生まれ、岩手県盛岡市出身。1995年プロテスト合格後、トーナメントプレーヤーとして活動するも30歳でクラブを置き、ビジネス分野に転進した。2001年に『岩手県オープン』をたった一人の状況から立ち上げ、16年継続して開催している。なぜか?15歳の頃から、金谷の心には引っかかるものがあった。
「岩手県のゴルフレベルは低い。岩手県のゴルフを変えたい」
中学からゴルフを始めた金谷は、盛岡市立北陵中学校3年生時に『東北ジュニア選手権』で優勝。意気揚々と『日本ジュニア選手権』へと乗り込んだが、周りのレベルの高さに圧倒された。
「僕がプロになった時点で、県出身者で二人目でしたから。岩手県はトーナメント不毛の地ですが、トーナメントどころかプロもほとんどいないのです。プロと接する機会が圧倒的に少なかったこともあり、アマチュアのレベル、ゴルフ感覚は関東と比べて低かったのは仕方がありません」
初めて全国の舞台で同学年の丸山茂樹らと知り合い、驚愕した。井の中の蛙(かわず)だった。このまま岩手にいたら、ゴルフがうまくならないと思った。全国ジュニアの成績は12位。順位だけ見れば悪くないが、現状を変えなければならないと感じ、卒業後は単身で関東へ。名門・埼玉栄高校で主将を務め、明治大学へ進学。1学年上の深堀圭一郎とともに切磋琢磨(せっさたくま)し、全日本パブリック選手権(現・全日本アマチュアゴルファーズ選手権)優勝など実績を作った。
線が細い体ゆえ、22歳のときには"プロとしてやっていけるのか"という葛藤が生まれたが、大学卒業後に米国のミニツアーやアジアサーキットを経験し、26歳でPGAプロテストに合格。しかし、ここから未来を切り開くはずがいきなりつまずいた。
プロデビューから2年目。足首の靱帯(じんたい)を損傷し、以後は故障をごまかしながら4年間プレーを続けた。足首をかばったことからスイングが壊れていき、ドライバーイップスになった。傾斜からのショットでも違和感があった。もともとプロテスト合格時には、30歳までが一区切りと決めていた。トーナメントプレーヤーとしての力量に見切りをつけた。
「プロ仲間に報告したら、全員に反対されましたよ。"なんでだよ! 30歳は一番いいとき。まだまだやれるだろ?"ってね。ですが約20年ゴルフを続けてみれば、自分がこの世界で生きていけるか否かの判断は下せる。仮に自分の心にうそをつき、35歳まで、40歳までと期限を延ばすことは可能ですが、その分、新しいことにチャレンジする期間は遅くなると思ったのです」
体格的なハンディを克服しようと、人一倍練習に励んできた愚直なタイプ。前日までは練習プログラムに必死に取り組んでいたが、引退を決断した翌日にはクラブに一切触れず、パソコン1台と向き合った。
「初めのうちは、恐怖感が押し寄せましたよ。でも、1カ月間クラブを持たなくなると、ここまでブランクを作ってしまったらトーナメントプレーヤーに復帰することはできないと割り切りました」
気がつけば"岩手にゴルフトーナメントを作りたい"という思いが強くなり、その思いだけでまい進していた。
トーナメント立ち上げ1年目から黒字に
20代前半、米国を転戦していたころ。
「アメリカには魅力的なプロアマトーナメントが多いなと感じまして。『AT&Tペブルビーチプロアマ』みたいな大会は日本にないから、ぜひ作ってみたかった。作るなら生まれ故郷の岩手に……」
会社を設立し、広告代理店業のイベント事業部という形式で、プロ2名とアマチュア2名でラウンドするプロアマトーナメントの立ち上げにとりかかった。ますは岩手の放送局4局に打診し、岩手めんこいテレビから協力を得ることに成功。だが、まともに企画書を作れない中での企業へのあいさつ周りは、怒鳴られ、失敗することの連続だった。
「それでも立ち止まるわけにはいきませんでした。岩手はゴルフが好きな人が多い。だからこそ地元のゴルフ界を活性化させるためには、プロと接する機会を"絶対に"作らなければいけなかった。そして、新しい層にゴルフを訴えなければいけなかった。その思いだけで企業の方に熱意を伝えていました。地方で16年間続くイベントは、ゴルフトーナメントに限らずなかなかない。開催にこぎつけただけではなく、ずっと後援していただいて感謝しかありません」
「アメリカには魅力的なプロアマトーナメントが多いなと感じまして。『AT&Tペブルビーチプロアマ』みたいな大会は日本にないから、ぜひ作ってみたかった。作るなら生まれ故郷の岩手に……」
会社を設立し、広告代理店業のイベント事業部という形式で、プロ2名とアマチュア2名でラウンドするプロアマトーナメントの立ち上げにとりかかった。ますは岩手の放送局4局に打診し、岩手めんこいテレビから協力を得ることに成功。だが、まともに企画書を作れない中での企業へのあいさつ周りは、怒鳴られ、失敗することの連続だった。
「それでも立ち止まるわけにはいきませんでした。岩手はゴルフが好きな人が多い。だからこそ地元のゴルフ界を活性化させるためには、プロと接する機会を"絶対に"作らなければいけなかった。そして、新しい層にゴルフを訴えなければいけなかった。その思いだけで企業の方に熱意を伝えていました。地方で16年間続くイベントは、ゴルフトーナメントに限らずなかなかない。開催にこぎつけただけではなく、ずっと後援していただいて感謝しかありません」
目玉となる選手集めは、ことのほか順調に進んだ。金谷いわく「僕のゴルフ人生で最も恵まれていたのは、生まれた年代が良かったこと」。同級生に丸山茂樹がいた。大学ゴルフ界の上級生を見渡せば、伊澤利光、川岸良兼、深堀圭一郎ら後のビッグネームも名を連ねた。自身が大学4年時には、片山晋呉、宮本勝昌、横尾要が大学ゴルフ界に入ってきていた。上の世代にも下の世代にもビッグネームがいたことで、トーナメントプロデューサーの立場として声をかけやすかった。
協賛企業は「本当に丸山が来るのか? 深堀が来るのか?」と半信半疑だったのも当然だろう。
「仕方がありませんよね、プロゴルファーすら皆無ですから。でも、小山内(護)、(矢野)東、(片山)晋呉も賛同してくれた。晋呉は"金谷さんがいなければ来ませんよ"と冗談っぽくいってくれますが、ありがたい限りです」
初年度から予想以上のギャラリーが集まり、初年度から黒字に。そこから16年間、プロへの出場依頼、企業への協賛の打診、大会スタッフの人選、配置など岩手県オープンにかかわるすべてをハンドリングし、いまや協賛企業は80社。16年間で赤字は一度もなし。ギャラリーもコンスタントに3000人は集客できるようになり、出場選手からは"ツアーよりも多いね"といわれるようになった。
"岩手県のアマチュアゴルファーのレベルが上がっているのは岩手県オープンのおかげ"とも評価されるようになった。一方でイベントというものは、長く続ければ違う悩みも出てくる。大会の見せ方を柔軟に変える必要性に悩まされていた。
「正直10年以上続けていると、作る側も見る側も"飽き"が出てきますし、時代の変化に対応しないといけない。ゴルファーには認知してもらった。でもゴルフ人口は減り、ゴルフをやらない人にもゴルフ場に来てもらえるイベントをやらなければいけない」
共に動いたのは大学時代の先輩・深堀。福島県郡山市を拠点とするゼビオホールディングス株式会社との間に立ってくれた。
協賛企業は「本当に丸山が来るのか? 深堀が来るのか?」と半信半疑だったのも当然だろう。
「仕方がありませんよね、プロゴルファーすら皆無ですから。でも、小山内(護)、(矢野)東、(片山)晋呉も賛同してくれた。晋呉は"金谷さんがいなければ来ませんよ"と冗談っぽくいってくれますが、ありがたい限りです」
初年度から予想以上のギャラリーが集まり、初年度から黒字に。そこから16年間、プロへの出場依頼、企業への協賛の打診、大会スタッフの人選、配置など岩手県オープンにかかわるすべてをハンドリングし、いまや協賛企業は80社。16年間で赤字は一度もなし。ギャラリーもコンスタントに3000人は集客できるようになり、出場選手からは"ツアーよりも多いね"といわれるようになった。
"岩手県のアマチュアゴルファーのレベルが上がっているのは岩手県オープンのおかげ"とも評価されるようになった。一方でイベントというものは、長く続ければ違う悩みも出てくる。大会の見せ方を柔軟に変える必要性に悩まされていた。
「正直10年以上続けていると、作る側も見る側も"飽き"が出てきますし、時代の変化に対応しないといけない。ゴルファーには認知してもらった。でもゴルフ人口は減り、ゴルフをやらない人にもゴルフ場に来てもらえるイベントをやらなければいけない」
共に動いたのは大学時代の先輩・深堀。福島県郡山市を拠点とするゼビオホールディングス株式会社との間に立ってくれた。