現在では当たり前になった、プロゴルファーを教える「プロコーチ」という職業を世に知らしめた“参謀”がこの世を去った。40歳を迎え大スランプにあえいでいたジャンボこと尾崎将司選手に野球のエッセンスを取り入れながら指導。同時に『大復活作戦』を発信しながら、ジャンボ尾崎黄金時代の礎をつくった、『スクエア打法』の開祖・後藤修氏が逝去した。享年85歳だった。
元プロ野球選手の後藤氏は、ときには戦力外になりながらも強肩、俊足、強打をアピールし、8球団を渡り歩き“ジプシー後藤”の異名が付けられた。同じく元プロ野球選手であったジャンボとは、西鉄ライオンズOBの先輩後輩に当たる。
後藤氏の『スクエア打法』は、恩師・新田恭一氏から継承・発展した理論だ。新田氏は、慶應義塾大学野球部で活躍後、米留学時にゴルフを習得。帰国後は『新田商店』を銀座で開店した舶来クラブ販売のパイオニアとして知られる。また、実業団野球でも活躍し、『都市対抗野球の祖』として名を連ねた名選手でもあった。一方で、「日本アマチュアゴルフ選手権」の優勝者でもあり、「野球・ゴルフ」の名選手でもあり理論家でもあった。
新田理論の大ファンだった後藤氏は、新田氏が監督を務めていた松竹ロビンスに入団し、プロ野球選手になった。さらに、当時のゴルフ・野球界には全くなかった新田氏の理論を後藤氏はプロ野球引退後、ゴルフでも実践。それを生かしたゴルフ評論家として、様々な理論をメディア展開した。
その1つが、40勝を数えた大スランプの尾崎に「今ある優勝カップは、全部捨ててしまえ。これから、今ある優勝カップの数より増えるんだから」と後藤氏が『大復活作戦』を提案したこと。これにより、日本ゴルフ史上でも最大の復活劇とジャンボブームが始まることになる。
他にも1989年、後藤氏はジュニア時代から指導と決別を繰り返していた中嶋常幸の参謀長という立場と『練成館』(中嶋が復活のために作った施設)館長を務め、「スイング大改造」、「300ヤード全盛時代」を大々的にうたい、当時のメディアを中心に大論争を巻き起こした。結果、中嶋はわずか1年という期間で国内復活優勝を挙げ、後藤氏も同行した1991年の「マスターズ」では、日本人初となるトータルアンダーパーの活躍。トミーを世界の表舞台に再び送り込んだ。
元プロ野球選手の後藤氏は、ときには戦力外になりながらも強肩、俊足、強打をアピールし、8球団を渡り歩き“ジプシー後藤”の異名が付けられた。同じく元プロ野球選手であったジャンボとは、西鉄ライオンズOBの先輩後輩に当たる。
後藤氏の『スクエア打法』は、恩師・新田恭一氏から継承・発展した理論だ。新田氏は、慶應義塾大学野球部で活躍後、米留学時にゴルフを習得。帰国後は『新田商店』を銀座で開店した舶来クラブ販売のパイオニアとして知られる。また、実業団野球でも活躍し、『都市対抗野球の祖』として名を連ねた名選手でもあった。一方で、「日本アマチュアゴルフ選手権」の優勝者でもあり、「野球・ゴルフ」の名選手でもあり理論家でもあった。
新田理論の大ファンだった後藤氏は、新田氏が監督を務めていた松竹ロビンスに入団し、プロ野球選手になった。さらに、当時のゴルフ・野球界には全くなかった新田氏の理論を後藤氏はプロ野球引退後、ゴルフでも実践。それを生かしたゴルフ評論家として、様々な理論をメディア展開した。
その1つが、40勝を数えた大スランプの尾崎に「今ある優勝カップは、全部捨ててしまえ。これから、今ある優勝カップの数より増えるんだから」と後藤氏が『大復活作戦』を提案したこと。これにより、日本ゴルフ史上でも最大の復活劇とジャンボブームが始まることになる。
他にも1989年、後藤氏はジュニア時代から指導と決別を繰り返していた中嶋常幸の参謀長という立場と『練成館』(中嶋が復活のために作った施設)館長を務め、「スイング大改造」、「300ヤード全盛時代」を大々的にうたい、当時のメディアを中心に大論争を巻き起こした。結果、中嶋はわずか1年という期間で国内復活優勝を挙げ、後藤氏も同行した1991年の「マスターズ」では、日本人初となるトータルアンダーパーの活躍。トミーを世界の表舞台に再び送り込んだ。