第2回は、藤田寛之の敗戦の記憶をたどる。2002年「ANAオープン」で挑んだ相手は、尾崎将司。当時、ツアー2勝の33歳にとって、とてつもなく大きな存在との勝負だった。
明暗を分けたのは17番のセカンドショットだった。最終日、最終組でジャンボ相手に互角の勝負を繰り広げ、トータル17アンダーで首位に並んで迎えた勝負どころのパー5だ。
この日、トータル14アンダーで首位のジャンボに対し、藤田は1打差でジャンボの次弟、健夫を交えた3人の最終組だ。戦いは、早々にジャンボVS藤田のマッチプレーの様相を示し、バックナインに突入する。
13番パー3で奥からボギーを叩いたジャンボに対し、藤田は1.8メートルを沈めてバーディ奪取。トータル17アンダーとして、単独首位に立つ。16番バーディのジャンボが首位に並び返し、迎えた17番は、3打目地点から左に大きくドッグレッグする札幌ゴルフ倶楽部輪厚コース名物のパー5だ。
満を持したジャンボのティショットは右へ。白樺の木の手前、根元に近い位置という大ピンチだ。対照的に藤田は、フェアウェイ真ん中の最高の位置へとボールを運ぶ。
「ジャンボさんのボールをチラッと見て『出すだけだろう』と思っていました。そうしたら、たぶん4番アイアンのシャフトを折りながら、考えられないベストポジションに打って行ったんです」。まさかの展開だった。
「僕はピンまで残り253〜4ヤード。(林越えを)狙うかどうするか。ずっと迷っていました。梅原キャディに相談すると、初日にほぼ同じ場所から3番ウッドで花道に打っているので、7:3で行ける、という返事が返ってきました。僕は五分五分だと思っていたんですけど」。ジャンボのセカンドショットが出すだけだったら、刻もうと考えていたところへ見せられたのが、まさかのナイスショット。「普通では信じられないところへ打った」のを見て、気持ちは揺れた。
最終的に、3番ウッドで林越えを狙うことを決めた。「相手はジャンボさん。普通のプレーじゃ勝てるわけがない。前のホールのバーディも見ていましたから」(藤田)
藤田にとってジャンボは、ジュニア時代からあこがれの存在だった。ジャンボブランドのクラブを買ったこともある。1992年にプロ入りし、ジャンボの全盛期をその目で見ながら自分を磨いた。97年の「サントリーオープン」では、そのビッグネーム相手に初優勝を飾った。この時「おめでとう」と握手してもらったことは忘れられない。「大きくていちいちカッコいいんですよ。会話は多くないんだけど、たまにボソッと響く声が」という相手。だからこそ余計に、その強さを感じてもいた。「とにかくオーラがすごい。強さの塊みたいなもんですから、普通にやってたら勝てるわけないと思っていました。リスがライオンに立ち向かっているようなものです」。
この日、最終組で優勝争いをしながらも最初は淡々とした気持ちだった。「優勝できたらいいな、という感じ。どうなるんだろう?と恐る恐るやっていました」と戦いに臨んでいた。
だが、自らを“リス”と称した藤田は、百獣の王と最後まで互角に渡り合い、大詰めの17番で勝負に出た。正面からの挑戦は、結果的には失敗に終わった。林につかまり、ボギー。しっかりとパーセーブしたジャンボに逆転されてしまう。
「完全なミスショットです。林を越えて花道くらいまで運んでアプローチで寄せるつもりでしたが、トップしてしまった。ボールを上げたい気持ちが強かったからかもしれません。でも、後悔はしていない。ナイスショットでうまくいかなかったんじゃなくて、完全なミスショット。(林という障害を)クリアする力がまだないんだな、と思っただけです」(藤田)
それでも、意気消沈したわけではない。最後まで決してあきらめなかった。1打ビハインドで迎えた最終18番。フェアウェイの真ん中からグリーンセンターに乗せたジャンボが喝采に手を挙げて応えるなか、左ラフからグリーン右のラフに打った藤田は渾身(こんしん)のアプローチを見せる。明らかに入れに行った第3打は、惜しくもわずかに右にそれたが「入るかと思ってビビったよ」と、後でジャンボのエースキャディ、佐野木計至氏に言わしめた1打だった。
ジャンボはきっちりと2パットのパーにおさめ、自らが持つツアー最年長記録を更新。777日ぶりの勝利は、55歳7カ月29日でのものとなった。
戦いに敗れた藤田には、周囲から様々な声が寄せられた。「何で狙ったの?」という人がいれば「よく勝負に行ったね」とほめてくれる人もいた。「本当に賛否がわかれました。すごかったです。やっぱりプロは結果なんだな、と思いましたね。全部が言い訳になるから、負ける人間が言えることってない。逆に、勝てば何を言ってもいいんだなって」。当時33歳の藤田は、プロゴルファーが置かれた現実と厳しさをしみじみと思い知る。
だが、ライオン相手に最後の最後まで優勝争いを演じたことは後の成長への糧となる。自信につながり、シーズン中に「アジア・ジャパン沖縄オープン」で通算3勝目。時を経て、43歳で賞金王になり、現在までに通算18勝。ツアーの看板選手の一人となった。
2002年ANAオープンの敗北は、その道程において大きな意味を持つものだった。(文・小川淳子)