第4回は芹澤信雄に「頭が真っ白になった」と言わしめた大激戦、2000年のシーズン開幕戦、東建コーポレーションカップ。結果的にレギュラーツアー最後の勝利の美酒を味わったのは、40歳の時だった。
入れれば優勝が決まる2メートルのバーディパット。アドレスで空を見上げて祈り、ターゲットを定めて構える。記憶があるのは、インパクトの瞬間まで。ボールがカップに吸い込まれた瞬間はまったく覚えていない。初めて味わった感覚だった。
「人生で初めてでした。頭の中が白くなる感じ。神頼み、というか、前の年に亡くなったオヤジに『入れさせてくれよ』と頼んだような感じは覚えていますけど」という1打。歓声に応えることもできなかった。「最後の優勝になったのに、ガッツポーズもとれなかった。打って、真っ白になって、力尽きてヘナヘナと崩れた。オヤジ頼みなんて信じるタイプでもないんですけど」と振り返る。
「もうレギュラーツアーでは優勝できないだろうな」。そんなことを考えるようになっていた。年々、設定が長くなるコースに苦しんでいた頃のことだ。この時も、祁答院ゴルフ倶楽部(鹿児島県)で全長7135ヤードのセッティングに直面した時には「やっぱりダメかな」という気持ちすら抱いていた。
だが、強風のコンディションでスコアが伸びなかったことが幸いした。初日からボギーなしの4バーディでプレーして単独首位。。2日目は、川岸良兼、桑原克典に並ばれ、3日目には桑原、西川哲に1打先んじられるが、優勝争いを続けた。1打差3位で2人とともに最終組で臨んだ最終日は、2ストローク以内に10人近くがひしめく大激戦となった。
正直なところ、途中、優勝は意識していなかった。シーズン初戦で単独2位か3位に入れれば、後が楽になる。そんな気持ちだった。「いいパーパットをいっぱい入れていた」と10番まではスコアカードどおりのプレー。11番バーディ、12番ボギー、13番バーディで1つスコアを伸ばしたものの、その後も忍耐強いプレーが続く。
大詰めの17番で5メートルのパーパットを残す大ピンチを迎えるが、これを沈めてしのぐ。「後でテレビの録画を見たら、解説の金井(清一)さんが『まるで針の穴を通すようなパッティングだね』と言ってくれていました」というスーパーセーブ。勝負は最終ホールにもつれこんだ。
18番は555ヤードのパー5。2打目をレイアップしてPWで打った3打目は、残り124ヤードを、カップ手前2メートルにつける。「上り、ほとんどまっすぐ。ややスライスかな、最高の位置だった」というバーディーチャンスだ。
スコアは、1組先に上がった東聡と並ぶトータル6アンダー。外せばプレーオフ。1打ビハインドで同じ組の桑原克典にもチャンスが出て来る。もちろん入れれば優勝の1打を、芹澤は、真っ白になって決めた。ツアー5勝目。藤田寛之、宮本勝昌ら、一緒に行動している後輩たちが泣きながら祝福してくれて、自らも初めて、勝って涙を流した。40歳での勝利は、ツアーへの意欲を取り戻す大きな意味を持つものとなった。
スキーの国体選手だった高校時代にゴルフ場でアルバイトをしていたのが縁で転向、1982年にプロとなる。87年日経カップ中村寅吉メモリアルで初優勝を飾り、コツコツと実績を積み上げた。しかし、96年の日本プロゴルフマッチプレーユニシス杯の4勝目以降、4年のあいだ勝利から遠ざかっていた。
元々、体格的に恵まれているわけでもなく、飛距離もそれほどではない自覚もあった。40歳と決して若くもない。もう勝てないかもしれないという気持ちになるのも無理もなかった。
それだけではない。マッチプレーの勝利が、意外な影響を及ぼしていた。ビッグタイトルについてくる5年シードに、それまで保ち続けていた緊張感が削がれた部分があったというのだ。
「それまでは毎年、春先からシードを取らなくちゃ、という張りつめた気持ちで一生懸命だった。それが5年シードをもらったことで気持ちの糸が切れたのかもしれません」。プロゴルファーとしての欲も出た。長期シードを手にした多くのプロが陥る“罠”でもあるのだが、スイング改造に手を出したのだ。
「あと30ヤード飛ばしたい」。飛距離を追求した結果、生命線でもあるアイアンショットがひどくなり、自分のゴルフができなくなってしまった。「俺にはムリ」。3年経って、そう見切りをつけた。
若い頃には、10歳年上の須貝昇や岩下吉久、2歳上の丸山智弘ら、先輩たちのグループと行動を共にすることが多かった。世代交代が進むと、芹澤の周りには10歳下の藤田を始め若手が集まり始める。やがて『Team Serizawa』となるこの面々の祝福で最高の時を味わった00年東建コーポレーションカップ。激戦を制し、真っ白になって手にしたこの優勝が、10年後のシニア入りへの活力となったのはまちがいない。(文・小川淳子)
入れれば優勝が決まる2メートルのバーディパット。アドレスで空を見上げて祈り、ターゲットを定めて構える。記憶があるのは、インパクトの瞬間まで。ボールがカップに吸い込まれた瞬間はまったく覚えていない。初めて味わった感覚だった。
「人生で初めてでした。頭の中が白くなる感じ。神頼み、というか、前の年に亡くなったオヤジに『入れさせてくれよ』と頼んだような感じは覚えていますけど」という1打。歓声に応えることもできなかった。「最後の優勝になったのに、ガッツポーズもとれなかった。打って、真っ白になって、力尽きてヘナヘナと崩れた。オヤジ頼みなんて信じるタイプでもないんですけど」と振り返る。
「もうレギュラーツアーでは優勝できないだろうな」。そんなことを考えるようになっていた。年々、設定が長くなるコースに苦しんでいた頃のことだ。この時も、祁答院ゴルフ倶楽部(鹿児島県)で全長7135ヤードのセッティングに直面した時には「やっぱりダメかな」という気持ちすら抱いていた。
だが、強風のコンディションでスコアが伸びなかったことが幸いした。初日からボギーなしの4バーディでプレーして単独首位。。2日目は、川岸良兼、桑原克典に並ばれ、3日目には桑原、西川哲に1打先んじられるが、優勝争いを続けた。1打差3位で2人とともに最終組で臨んだ最終日は、2ストローク以内に10人近くがひしめく大激戦となった。
正直なところ、途中、優勝は意識していなかった。シーズン初戦で単独2位か3位に入れれば、後が楽になる。そんな気持ちだった。「いいパーパットをいっぱい入れていた」と10番まではスコアカードどおりのプレー。11番バーディ、12番ボギー、13番バーディで1つスコアを伸ばしたものの、その後も忍耐強いプレーが続く。
大詰めの17番で5メートルのパーパットを残す大ピンチを迎えるが、これを沈めてしのぐ。「後でテレビの録画を見たら、解説の金井(清一)さんが『まるで針の穴を通すようなパッティングだね』と言ってくれていました」というスーパーセーブ。勝負は最終ホールにもつれこんだ。
18番は555ヤードのパー5。2打目をレイアップしてPWで打った3打目は、残り124ヤードを、カップ手前2メートルにつける。「上り、ほとんどまっすぐ。ややスライスかな、最高の位置だった」というバーディーチャンスだ。
スコアは、1組先に上がった東聡と並ぶトータル6アンダー。外せばプレーオフ。1打ビハインドで同じ組の桑原克典にもチャンスが出て来る。もちろん入れれば優勝の1打を、芹澤は、真っ白になって決めた。ツアー5勝目。藤田寛之、宮本勝昌ら、一緒に行動している後輩たちが泣きながら祝福してくれて、自らも初めて、勝って涙を流した。40歳での勝利は、ツアーへの意欲を取り戻す大きな意味を持つものとなった。
スキーの国体選手だった高校時代にゴルフ場でアルバイトをしていたのが縁で転向、1982年にプロとなる。87年日経カップ中村寅吉メモリアルで初優勝を飾り、コツコツと実績を積み上げた。しかし、96年の日本プロゴルフマッチプレーユニシス杯の4勝目以降、4年のあいだ勝利から遠ざかっていた。
元々、体格的に恵まれているわけでもなく、飛距離もそれほどではない自覚もあった。40歳と決して若くもない。もう勝てないかもしれないという気持ちになるのも無理もなかった。
それだけではない。マッチプレーの勝利が、意外な影響を及ぼしていた。ビッグタイトルについてくる5年シードに、それまで保ち続けていた緊張感が削がれた部分があったというのだ。
「それまでは毎年、春先からシードを取らなくちゃ、という張りつめた気持ちで一生懸命だった。それが5年シードをもらったことで気持ちの糸が切れたのかもしれません」。プロゴルファーとしての欲も出た。長期シードを手にした多くのプロが陥る“罠”でもあるのだが、スイング改造に手を出したのだ。
「あと30ヤード飛ばしたい」。飛距離を追求した結果、生命線でもあるアイアンショットがひどくなり、自分のゴルフができなくなってしまった。「俺にはムリ」。3年経って、そう見切りをつけた。
若い頃には、10歳年上の須貝昇や岩下吉久、2歳上の丸山智弘ら、先輩たちのグループと行動を共にすることが多かった。世代交代が進むと、芹澤の周りには10歳下の藤田を始め若手が集まり始める。やがて『Team Serizawa』となるこの面々の祝福で最高の時を味わった00年東建コーポレーションカップ。激戦を制し、真っ白になって手にしたこの優勝が、10年後のシニア入りへの活力となったのはまちがいない。(文・小川淳子)