第10回は2007年中日クラウンズ。ドライバーイップスでゴルフをやめることも考えていた宮瀬博文が、起死回生の一戦を振り返る。
プレーオフの末、4年ぶりの復活優勝。予選落ちしたのに応援に駆け付けた“兄貴分”の加瀬秀樹を始め、仲間たちに祝福された『ヒロ』こと宮瀬は、大会前までどん底にいた。
97年の初優勝以来、03年までに6つの優勝を重ね、04年にはQTを経て渡米。米ツアーに挑んだが、結果は惨憺たるものだった。27試合に出場して予選を通過で来たのはわずかに5試合。「全く歯が立たずに尻尾を巻いて帰ってきた。僕の中で財産になったものはまったくないと言っていいくらい」と苦笑する。それほど、辛い経験だった。
帰国後も、05年、06年といいところなし。複数年シードも失い、QT行きを余儀なくされた。ここでも思うようなプレーができず「ヤバい。今年1年、試合があまりない」という状態で迎えたシーズンだった。出場できる試合はごくわずか。シーズン初戦のつるやオープンは、渡米前の03年に優勝で出場権を持っていた。思いがけず、ここで2位タイとなり、急きょ、出場権を手に入れたのが、翌週の中日クラウンズだった。「1つ試合が増えた」と、一息ついた。それが本音だった。
つるやで2位という結果は出していたが、プレー内容には不安がいっぱいだった。米国で、ドライバーイップスになっていたからだ。あまりに色々なことがうまくいかないため、そのことに気付くこともなく帰国。05年秋に、日本の試合に出場して、それまで行ったことのないところにボールが行くことでようやく気が付いた。「おかしいな。こんなところに行くわけないのに」。考えれば考えるほど、トップからダウンスイングが降りて来なくなった。
実は、渡米するよりずいぶん前に、アプローチイップスも経験していた。それ以上に状況は厳しかった。「アプローチやパットのイップスも大変ですけど、ドライバーイップスは一番大変です。だってドライバー打たないと(プレーが)始まらないんですから」。
それでも、なんとかドライバーを打つ方法を考え、編み出したのが、左に打ち出して50ヤードくらい曲がるスライスを打つことだった。徹底してこれを貫いた。「ラッキーなことに、すごく難しいセッティングだったんです。(スコアの)伸ばしあいだったら全く歯が立たなかったでしょう。なんとかパーを取って、パーを取ってショット以外で粘りました」。3バーディー、4ボギーと粘り、72ホールを終えてトータル2アンダー。この日、3つスコアを伸ばして追いついた谷口徹とのプレーオフに臨んだ。
強風の中、ドライバーを握ったティーショットは「すごいアドレナリンが出て飛びました。ど真ん中」。残り140ヤードの第2打は、9番アイアンを持った。「カットめに打とうと思っていた」と、当日コメントしているが、 ボールは言うことを聞かず、右へ。グリーン手前のカラー、転がり落ちるギリギリの場所に止まった。
対する谷口は、2オンはしたものの「もっと転がる計算だった」(JGTOウェブサイトより)と本人が述懐しているように、カップの手前18メートル。ファーストパットを2メートルショートして、3パットボギー。カラーからパーセーブした宮瀬が、優勝を飾った。
レギュレーションの16番から応援していた加瀬は、優勝が決まった瞬間、グリーンサイドで「ヒロ!」と呼びかけ、ビッグハグ。宮瀬は、そこでうれし涙を流した。弟のようにかわいがってくれている加瀬の気持ちがうれしかった。
追い詰められていたのも見えていたのかもしれない。「ゴルフはもう、ダメかな、と思っていた時期もありました。もちろん、本当にはやめられないのはわかっていたけど逃げたかった」としみじみ語る。実は、ゴルフ以外の仕事も考え、妻と2人、飲食店の物件を探したのも、この頃のことだった。
すべての不安を吹き飛ばす復活優勝の瞬間は「すごくうれしかったけど不思議な感じがしました。生き返ったみたいに。ああ。もうちょっとできるかなって」と、プロ寿命が延びたことをつくづく感じた。
「加瀬さんは予選落ちなのに残ってくれていたし(前週の)つるやの最終日の朝も電話をくれていました。本当に心配してくれたんです」。加瀬のハグの後、仲間たちから胴上げで祝福されている。
宮瀬は今秋、歴代チャンピオンとして、今週の中日クラウンズに臨んでいる。あの勝利から14年。4月11日には50歳の誕生日を迎え、2週間前には、ノジマチャンピオンシップでシニアデビューも果たしている。残念ながら、3人プレーオフで、篠崎紀夫に敗れたが、今、あるのもあの優勝があったから。米ツアーで打ちのめされ、ドライバーイップスに苦しむ中で手にした2007年中日クラウンズ優勝は、それほど大きな意味のあるものだった。(文・小川淳子)
プレーオフの末、4年ぶりの復活優勝。予選落ちしたのに応援に駆け付けた“兄貴分”の加瀬秀樹を始め、仲間たちに祝福された『ヒロ』こと宮瀬は、大会前までどん底にいた。
97年の初優勝以来、03年までに6つの優勝を重ね、04年にはQTを経て渡米。米ツアーに挑んだが、結果は惨憺たるものだった。27試合に出場して予選を通過で来たのはわずかに5試合。「全く歯が立たずに尻尾を巻いて帰ってきた。僕の中で財産になったものはまったくないと言っていいくらい」と苦笑する。それほど、辛い経験だった。
帰国後も、05年、06年といいところなし。複数年シードも失い、QT行きを余儀なくされた。ここでも思うようなプレーができず「ヤバい。今年1年、試合があまりない」という状態で迎えたシーズンだった。出場できる試合はごくわずか。シーズン初戦のつるやオープンは、渡米前の03年に優勝で出場権を持っていた。思いがけず、ここで2位タイとなり、急きょ、出場権を手に入れたのが、翌週の中日クラウンズだった。「1つ試合が増えた」と、一息ついた。それが本音だった。
つるやで2位という結果は出していたが、プレー内容には不安がいっぱいだった。米国で、ドライバーイップスになっていたからだ。あまりに色々なことがうまくいかないため、そのことに気付くこともなく帰国。05年秋に、日本の試合に出場して、それまで行ったことのないところにボールが行くことでようやく気が付いた。「おかしいな。こんなところに行くわけないのに」。考えれば考えるほど、トップからダウンスイングが降りて来なくなった。
実は、渡米するよりずいぶん前に、アプローチイップスも経験していた。それ以上に状況は厳しかった。「アプローチやパットのイップスも大変ですけど、ドライバーイップスは一番大変です。だってドライバー打たないと(プレーが)始まらないんですから」。
それでも、なんとかドライバーを打つ方法を考え、編み出したのが、左に打ち出して50ヤードくらい曲がるスライスを打つことだった。徹底してこれを貫いた。「ラッキーなことに、すごく難しいセッティングだったんです。(スコアの)伸ばしあいだったら全く歯が立たなかったでしょう。なんとかパーを取って、パーを取ってショット以外で粘りました」。3バーディー、4ボギーと粘り、72ホールを終えてトータル2アンダー。この日、3つスコアを伸ばして追いついた谷口徹とのプレーオフに臨んだ。
強風の中、ドライバーを握ったティーショットは「すごいアドレナリンが出て飛びました。ど真ん中」。残り140ヤードの第2打は、9番アイアンを持った。「カットめに打とうと思っていた」と、当日コメントしているが、 ボールは言うことを聞かず、右へ。グリーン手前のカラー、転がり落ちるギリギリの場所に止まった。
対する谷口は、2オンはしたものの「もっと転がる計算だった」(JGTOウェブサイトより)と本人が述懐しているように、カップの手前18メートル。ファーストパットを2メートルショートして、3パットボギー。カラーからパーセーブした宮瀬が、優勝を飾った。
レギュレーションの16番から応援していた加瀬は、優勝が決まった瞬間、グリーンサイドで「ヒロ!」と呼びかけ、ビッグハグ。宮瀬は、そこでうれし涙を流した。弟のようにかわいがってくれている加瀬の気持ちがうれしかった。
追い詰められていたのも見えていたのかもしれない。「ゴルフはもう、ダメかな、と思っていた時期もありました。もちろん、本当にはやめられないのはわかっていたけど逃げたかった」としみじみ語る。実は、ゴルフ以外の仕事も考え、妻と2人、飲食店の物件を探したのも、この頃のことだった。
すべての不安を吹き飛ばす復活優勝の瞬間は「すごくうれしかったけど不思議な感じがしました。生き返ったみたいに。ああ。もうちょっとできるかなって」と、プロ寿命が延びたことをつくづく感じた。
「加瀬さんは予選落ちなのに残ってくれていたし(前週の)つるやの最終日の朝も電話をくれていました。本当に心配してくれたんです」。加瀬のハグの後、仲間たちから胴上げで祝福されている。
宮瀬は今秋、歴代チャンピオンとして、今週の中日クラウンズに臨んでいる。あの勝利から14年。4月11日には50歳の誕生日を迎え、2週間前には、ノジマチャンピオンシップでシニアデビューも果たしている。残念ながら、3人プレーオフで、篠崎紀夫に敗れたが、今、あるのもあの優勝があったから。米ツアーで打ちのめされ、ドライバーイップスに苦しむ中で手にした2007年中日クラウンズ優勝は、それほど大きな意味のあるものだった。(文・小川淳子)