第12回は1993年日本オープン。8年間AONが独占していたナショナルオープン王者の座を奪い取った奥田靖己の秘話。3日目にして両手から汗がしたたり落ちた男は、名勝負のすえ、タイトルの重みを知ることになる。
「相手がジャンボさんやったから集中できたのかも知らんね」。琵琶湖CC栗東・三上C(滋賀県)での激闘を、奥田はいつもどおりのゆるい口調の関西弁でポツリ、ポツリと振り返った。
1985、86年は中嶋常幸(当時中島)が連覇。87年は青木功。88、89年は尾崎将司(ジャンボ)。90、91年はまたしても中島連覇。92年はジャンボ。ナショナルオープンタイトルは、8年間にわたって当時最強と呼ばれた3人の手をぐるぐると回っていた。青木は92年にシニア入りしていたが、ONはまだまだ健在。そんな頃だった。
36ホールを終えてトータル1アンダー。気が付けば、ジャンボと首位で並んでいた。その晩、重圧で眠れなくなる。3日目の朝、コースのレストランでキャディがスポーツ紙を見ながらノンキに行ったのを覚えている。「プロ、ジャンボと優勝争いって大きく出てますよ」。聞いてさらに追い詰められた。まだ3日目。それなのに、最終組でジャンボとの2サムに臨む1番ティでは、10月だというのにグリップを握った手から汗がポタポタと落ちるのがわかったほどだ。汗でベトベトのまま打ったティショットは、決していい球とはいえない。だが、それで気持ちが楽になる。
「キングオブゴルフ(ジャンボ)の胸を借りて行こう。思い切ってやって、ヘタクソの奥田を見てもらえばいいじゃないか」。そう開き直った。
調子がいいのには理由があった。大会初日3日前の月曜日。奥田は師匠、高松志門のアドバイスを受けていた。久しぶりに連絡をもらってのことだった。「サイ・ユーチェンを加古川の練習場で見てるからおいで」と。師匠のアドバイスは、2分程度の短いものだった。「右の親指と人差し指に力が入ってる。(グリップから)はずすぐらいのイメージにしてごらん」。やってみるとフィーリングがいい。大一番が始まっても、これだけに集中した。その結果が、最終組だ。
緊張から解放されると、ナイスショットが次々に出た。スコアは伸ばせなかったが、それでも2つ伸ばしたジャンボとは2打差の単独2位。「『あいつ、バーディチャンスをだいぶはずしてこの位置だ』ってジャンボが言っていたと人から聞きました」という言葉通りの内容だった。
最終日を前に、高松に電話をかけた。「(教えてくれた)手はいいよ。でも体重が左へ行っているから、もうちょっと右体重で打ったらどうだ」と言われた。翌朝、練習場でやってみると右体重はうまくいかない。右手の指2本だけを気にすることにした。
再びジャンボと2サムの最終組。大ギャラリーが詰めかけていたが、地元に近いとあって自分の応援団も多い。顔のわかる人たちは、毎ホールのように声をかけてくれる。ジャンボの応援に負けることはなかった。
「(ジャンボに)勝てるとは思っていないし、胸を借りよう。とにかく必死でやろう。ショットに関しては先生の教えがある」と、勝負に臨んだ。それまでツアー4勝を挙げているが「勝ちに行って勝ったことはない」と言う。この日も同じだった。
6番までにジャンボが2つボギーを叩き、奥田は1バーディ・2ボギー。1打差で迎えた7番をジャンボがダブルボギーとしたことで、形勢が逆転した。さらに、8番、9番で奥田が連続バーディを奪い、トータル2アンダー。差は3つに広がった。
「9番でジャンボさんが右のバンカーから直接カップインしそうなすごいリカバリーショットを打ったんです。そのあとが僕の、5メートルのバーディパット。ここでグッと気合が入りました。『よし!やったろ!』って」。戦闘態勢。「奥田さん、頑張ってください」。応援に来ていた後輩たちの声も背中を押した。
”ショット・オブ・ザ・デー“は、11番のセカンドショットだった。フェアウェイから残り140ヤードのアゲンスト。手にしたのは7番アイアンだ。「まるでロブショットみたいなホントに柔らかいボールやった。ゆっくりスーッと降りて来てペタッと(カップから)40センチに止まった。見てないクセに師匠が『トンビがエサを獲りに来るような』と言ってましたが、そんな球でしたわ」というフェードボール。このダメ押しのバーディに対し、ジャンボはグリーンを外してボギー。差は5打に広がった。
残り7ホールはどちらのスコアも動かず勝負は決まった。ジャンボ相手に5打差圧勝で、奥田はナショナルオープン王者となった。
「5打差になった時は『ひょっとしたら』と思いましたけど『いやいや、そんなこと思たらいかん』と、何回も考えました。とにかく『右手の指』ばかり考えていたし、フィーリングだけ大事に頑なに守った。それで相手がジャンボさんであの舞台やからね。スコアカードを出す時、何回見たかわからんよ。ジャンボさんと2人で何回も」と、緊張感が戻ったのは、ホールアウト後だった。
日本オープン恒例のクラブハウス内での表彰式で、ジャンボに言われた。「奥田。改めておめでとう、よう頑張ったな」。うれしかった。
どこへ行っても日本オープンチャンピオンといわれるようになると、責任感が生まれた。「日本オープン覇者の名に恥じない選手になりたい。ゴルフと向かい合っていきたい」と。その気持ちが、故障を乗り越えてシニアとなった今もプレーする糧となっている。
当時、33歳。「ゴルフの『ゴ』の字もわかってなかった」奥田靖己の、忘れられない名勝負だ。
翌94年、タイトルを奪い返したジャンボは言った。「オマエが勝った年は、俺が調子悪かったんだ」。奥田の優勝がなければ、AONのタイトル独占は、まだ続いていたかもしれない。(文・小川淳子)
「相手がジャンボさんやったから集中できたのかも知らんね」。琵琶湖CC栗東・三上C(滋賀県)での激闘を、奥田はいつもどおりのゆるい口調の関西弁でポツリ、ポツリと振り返った。
1985、86年は中嶋常幸(当時中島)が連覇。87年は青木功。88、89年は尾崎将司(ジャンボ)。90、91年はまたしても中島連覇。92年はジャンボ。ナショナルオープンタイトルは、8年間にわたって当時最強と呼ばれた3人の手をぐるぐると回っていた。青木は92年にシニア入りしていたが、ONはまだまだ健在。そんな頃だった。
36ホールを終えてトータル1アンダー。気が付けば、ジャンボと首位で並んでいた。その晩、重圧で眠れなくなる。3日目の朝、コースのレストランでキャディがスポーツ紙を見ながらノンキに行ったのを覚えている。「プロ、ジャンボと優勝争いって大きく出てますよ」。聞いてさらに追い詰められた。まだ3日目。それなのに、最終組でジャンボとの2サムに臨む1番ティでは、10月だというのにグリップを握った手から汗がポタポタと落ちるのがわかったほどだ。汗でベトベトのまま打ったティショットは、決していい球とはいえない。だが、それで気持ちが楽になる。
「キングオブゴルフ(ジャンボ)の胸を借りて行こう。思い切ってやって、ヘタクソの奥田を見てもらえばいいじゃないか」。そう開き直った。
調子がいいのには理由があった。大会初日3日前の月曜日。奥田は師匠、高松志門のアドバイスを受けていた。久しぶりに連絡をもらってのことだった。「サイ・ユーチェンを加古川の練習場で見てるからおいで」と。師匠のアドバイスは、2分程度の短いものだった。「右の親指と人差し指に力が入ってる。(グリップから)はずすぐらいのイメージにしてごらん」。やってみるとフィーリングがいい。大一番が始まっても、これだけに集中した。その結果が、最終組だ。
緊張から解放されると、ナイスショットが次々に出た。スコアは伸ばせなかったが、それでも2つ伸ばしたジャンボとは2打差の単独2位。「『あいつ、バーディチャンスをだいぶはずしてこの位置だ』ってジャンボが言っていたと人から聞きました」という言葉通りの内容だった。
最終日を前に、高松に電話をかけた。「(教えてくれた)手はいいよ。でも体重が左へ行っているから、もうちょっと右体重で打ったらどうだ」と言われた。翌朝、練習場でやってみると右体重はうまくいかない。右手の指2本だけを気にすることにした。
再びジャンボと2サムの最終組。大ギャラリーが詰めかけていたが、地元に近いとあって自分の応援団も多い。顔のわかる人たちは、毎ホールのように声をかけてくれる。ジャンボの応援に負けることはなかった。
「(ジャンボに)勝てるとは思っていないし、胸を借りよう。とにかく必死でやろう。ショットに関しては先生の教えがある」と、勝負に臨んだ。それまでツアー4勝を挙げているが「勝ちに行って勝ったことはない」と言う。この日も同じだった。
6番までにジャンボが2つボギーを叩き、奥田は1バーディ・2ボギー。1打差で迎えた7番をジャンボがダブルボギーとしたことで、形勢が逆転した。さらに、8番、9番で奥田が連続バーディを奪い、トータル2アンダー。差は3つに広がった。
「9番でジャンボさんが右のバンカーから直接カップインしそうなすごいリカバリーショットを打ったんです。そのあとが僕の、5メートルのバーディパット。ここでグッと気合が入りました。『よし!やったろ!』って」。戦闘態勢。「奥田さん、頑張ってください」。応援に来ていた後輩たちの声も背中を押した。
”ショット・オブ・ザ・デー“は、11番のセカンドショットだった。フェアウェイから残り140ヤードのアゲンスト。手にしたのは7番アイアンだ。「まるでロブショットみたいなホントに柔らかいボールやった。ゆっくりスーッと降りて来てペタッと(カップから)40センチに止まった。見てないクセに師匠が『トンビがエサを獲りに来るような』と言ってましたが、そんな球でしたわ」というフェードボール。このダメ押しのバーディに対し、ジャンボはグリーンを外してボギー。差は5打に広がった。
残り7ホールはどちらのスコアも動かず勝負は決まった。ジャンボ相手に5打差圧勝で、奥田はナショナルオープン王者となった。
「5打差になった時は『ひょっとしたら』と思いましたけど『いやいや、そんなこと思たらいかん』と、何回も考えました。とにかく『右手の指』ばかり考えていたし、フィーリングだけ大事に頑なに守った。それで相手がジャンボさんであの舞台やからね。スコアカードを出す時、何回見たかわからんよ。ジャンボさんと2人で何回も」と、緊張感が戻ったのは、ホールアウト後だった。
日本オープン恒例のクラブハウス内での表彰式で、ジャンボに言われた。「奥田。改めておめでとう、よう頑張ったな」。うれしかった。
どこへ行っても日本オープンチャンピオンといわれるようになると、責任感が生まれた。「日本オープン覇者の名に恥じない選手になりたい。ゴルフと向かい合っていきたい」と。その気持ちが、故障を乗り越えてシニアとなった今もプレーする糧となっている。
当時、33歳。「ゴルフの『ゴ』の字もわかってなかった」奥田靖己の、忘れられない名勝負だ。
翌94年、タイトルを奪い返したジャンボは言った。「オマエが勝った年は、俺が調子悪かったんだ」。奥田の優勝がなければ、AONのタイトル独占は、まだ続いていたかもしれない。(文・小川淳子)