第13回は、1999年住友VISA太平洋マスターズ。すぐに勝負を捨ててしまう悪い癖を直した宮瀬博文の激戦の記憶。後のメジャー王者ダレン・クラークと、川岸良兼をプレーオフで撃破した戦いとは…。
「滅茶苦茶うれしかった。僕にとっては準メジャーと言えるような大会でしたから。1勝目がラッキーじゃなったんだな、って思えた」。宮瀬は、昨日のことのように鮮やかにその時、を思い出す。優勝の瞬間は、クラークと握手をするのに帽子を取ることも忘れていたと言う。「ホント失礼なことをしました」と、歓喜に浸っていた。
史上最年少の21歳でシード選手として注目を浴び、97年の札幌とうきゅうオープンの初タイトルは、4日間首位を守る完全優勝だった。しかし、2勝目までの道のりは本人にとっては長いものだった。宮瀬の性格をよく知る兄貴分の加瀬秀樹に、98年ごろ言われた言葉がある。「ヒロ、1打1打をもっと大切にしろ」。自分でもわかっていた欠点をズバリと指摘されたのだ。ミスショットをしたり、調子が悪いと自分に怒ってしまい、すぐに勝負を捨ててしまう。加瀬に言われてから、丁寧に辛抱強く戦う努力を始めていた。
その一方で、オフの間にとんでもないことが宮瀬の身に起きていた。豪州合宿中のある日のこと。アプローチ練習をしているうちに、一発をトップさせた。グリーンをはるかに越えて行くボール。一発のミスに過ぎなかったはずが、アプローチイップスを誘発してしまった。
「アッと思った瞬間にトップしていました。(その後)トップした感覚がずっと残っていたんでしょうね。自分でもびっくりしましたけど、バックスイングは上がるのに、ダウンスイングがうまく下りて来なくなっちゃったんです。こねちゃったりして。試合で何とか通用するようにと考えて、必死で練習しました」。ずっと経ってからこの練習のおかげで後にアプローチが得意になるのだが、それまでにはさらに3年余りを要する。99年の太平洋の時は、不安を抱えた状態だった。
1勝目をフロックだと思われたくない気持ちを抱え続けたまま迎えたシーズン大詰めのビッグトーナメント。初日から首位に立った宮瀬だが、クラークや加瀬も含めた5人並走する混戦模様となっていた。
2日目は、トータル9アンダーで首位に立った友利勝義に1打差で2位。尾崎直道が並んでいる。1打遅れてクラーク、川岸が追う。
ムービングデーの土曜日に川岸がスコアを伸ばし、トータル13アンダーの首位に立つ。宮瀬は1打差で追走。さらに1打差で丸山茂樹、2打差でリー・ウエストウッド、飯合肇、さらに1打遅れてクラーク、フランキー・ミノザ、尾崎直道と実力者が上位にずらりと並ぶ油断のならない展開で最終日に突入した。
「ハッキリ覚えているのは72ホール目とプレーオフだけですね。(本戦の)18番は、最低でも馬鹿なことをしないように、安全にと思っていました、そういうタイプなんです」。川岸、丸山とともに最終組でプレーしていた宮瀬は、11番までに通算14アンダーまでスコアを伸ばしていた。その後、スコアカード通りのプレーを重ねて18番ティに立った時には、2組前でクラークがバーディで上がって宮瀬と並んでいた。
すでに丸山は優勝争いから脱落していたが、13アンダーだった川岸はきっちりと18番をバーディとして首位に並び、3人でのプレーオフになった。1ホール目で第2打を池に入れた川岸が脱落。クラークと2人での2ホール目も同じ18番が舞台となった。
「とにかく勝ちたいと言う気持ちはありました。飛距離的に、僕もティショットを成功すれば何とか2オンできるのですが、ティショットをミスして左のバンカーに入れてしまった。クラークは2オンいけるところにティショットを打ったけど、そこから狙って池でした」。3オンした宮瀬に対し、クラークはスタンスは池の外だがボールはギリギリの水中からのショットを試みたが出しただけ。4オンがやっとでパーセーブできず、宮瀬に屈した。
「ホントにいっぱいいっぱいでした。あの優勝で、簡単にボギーを打たないようにすること、ゴルフの組み立てはすごく大事だと思うようになりました。あれでやっと(プロとして)やれるかも、みたいなことを感じた気がしますね。18歳でプロになり、21歳で初シードを手にした後、ずっと勢いで成功できている感じで怖い物なしでした。でもちょっとずつ、自分で自分が見えるようになってきて…。勝ちたい気持ちはもちろんありましたけど、それよりも『派手なことはしないけど、いつもコンスタントにプレーできているな』という感じになりたかった。ガツガツ行くばかりじゃなく、攻守のメリハリも大事だなって思うようになりました。大きな意味のある優勝でした」。
このとき、27歳になっていた。この後、腰や半月板の手術を乗り越えて、米ツアーにも挑むことになる宮瀬の、大きなステップとなった一戦だった。(文・小川淳子)
「滅茶苦茶うれしかった。僕にとっては準メジャーと言えるような大会でしたから。1勝目がラッキーじゃなったんだな、って思えた」。宮瀬は、昨日のことのように鮮やかにその時、を思い出す。優勝の瞬間は、クラークと握手をするのに帽子を取ることも忘れていたと言う。「ホント失礼なことをしました」と、歓喜に浸っていた。
史上最年少の21歳でシード選手として注目を浴び、97年の札幌とうきゅうオープンの初タイトルは、4日間首位を守る完全優勝だった。しかし、2勝目までの道のりは本人にとっては長いものだった。宮瀬の性格をよく知る兄貴分の加瀬秀樹に、98年ごろ言われた言葉がある。「ヒロ、1打1打をもっと大切にしろ」。自分でもわかっていた欠点をズバリと指摘されたのだ。ミスショットをしたり、調子が悪いと自分に怒ってしまい、すぐに勝負を捨ててしまう。加瀬に言われてから、丁寧に辛抱強く戦う努力を始めていた。
その一方で、オフの間にとんでもないことが宮瀬の身に起きていた。豪州合宿中のある日のこと。アプローチ練習をしているうちに、一発をトップさせた。グリーンをはるかに越えて行くボール。一発のミスに過ぎなかったはずが、アプローチイップスを誘発してしまった。
「アッと思った瞬間にトップしていました。(その後)トップした感覚がずっと残っていたんでしょうね。自分でもびっくりしましたけど、バックスイングは上がるのに、ダウンスイングがうまく下りて来なくなっちゃったんです。こねちゃったりして。試合で何とか通用するようにと考えて、必死で練習しました」。ずっと経ってからこの練習のおかげで後にアプローチが得意になるのだが、それまでにはさらに3年余りを要する。99年の太平洋の時は、不安を抱えた状態だった。
1勝目をフロックだと思われたくない気持ちを抱え続けたまま迎えたシーズン大詰めのビッグトーナメント。初日から首位に立った宮瀬だが、クラークや加瀬も含めた5人並走する混戦模様となっていた。
2日目は、トータル9アンダーで首位に立った友利勝義に1打差で2位。尾崎直道が並んでいる。1打遅れてクラーク、川岸が追う。
ムービングデーの土曜日に川岸がスコアを伸ばし、トータル13アンダーの首位に立つ。宮瀬は1打差で追走。さらに1打差で丸山茂樹、2打差でリー・ウエストウッド、飯合肇、さらに1打遅れてクラーク、フランキー・ミノザ、尾崎直道と実力者が上位にずらりと並ぶ油断のならない展開で最終日に突入した。
「ハッキリ覚えているのは72ホール目とプレーオフだけですね。(本戦の)18番は、最低でも馬鹿なことをしないように、安全にと思っていました、そういうタイプなんです」。川岸、丸山とともに最終組でプレーしていた宮瀬は、11番までに通算14アンダーまでスコアを伸ばしていた。その後、スコアカード通りのプレーを重ねて18番ティに立った時には、2組前でクラークがバーディで上がって宮瀬と並んでいた。
すでに丸山は優勝争いから脱落していたが、13アンダーだった川岸はきっちりと18番をバーディとして首位に並び、3人でのプレーオフになった。1ホール目で第2打を池に入れた川岸が脱落。クラークと2人での2ホール目も同じ18番が舞台となった。
「とにかく勝ちたいと言う気持ちはありました。飛距離的に、僕もティショットを成功すれば何とか2オンできるのですが、ティショットをミスして左のバンカーに入れてしまった。クラークは2オンいけるところにティショットを打ったけど、そこから狙って池でした」。3オンした宮瀬に対し、クラークはスタンスは池の外だがボールはギリギリの水中からのショットを試みたが出しただけ。4オンがやっとでパーセーブできず、宮瀬に屈した。
「ホントにいっぱいいっぱいでした。あの優勝で、簡単にボギーを打たないようにすること、ゴルフの組み立てはすごく大事だと思うようになりました。あれでやっと(プロとして)やれるかも、みたいなことを感じた気がしますね。18歳でプロになり、21歳で初シードを手にした後、ずっと勢いで成功できている感じで怖い物なしでした。でもちょっとずつ、自分で自分が見えるようになってきて…。勝ちたい気持ちはもちろんありましたけど、それよりも『派手なことはしないけど、いつもコンスタントにプレーできているな』という感じになりたかった。ガツガツ行くばかりじゃなく、攻守のメリハリも大事だなって思うようになりました。大きな意味のある優勝でした」。
このとき、27歳になっていた。この後、腰や半月板の手術を乗り越えて、米ツアーにも挑むことになる宮瀬の、大きなステップとなった一戦だった。(文・小川淳子)