第14回は今も伝説として語り継がれる「1981年ジーンサラゼンジュンクラシック」最終日の大逆転劇にスポットを当ててみよう。主役は当時プロ入り2年目、弱冠24歳の湯原信光だ。
1981年の10月4日。栃木県のジュンクラシックカントリークラブで、そのドラマは起こった。大会の最終日、18ホールを前にして、役者は十分に揃っていた。
マスターズで大活躍を演じ「リトル・コーノ」の異名を取った河野高明が3日目に「69」をマークして5位から首位に浮上。1打差2位で、前年の「全米オープン」で帝王ジャック・ニクラウスとの死闘を演じ2位に入った青木功がピタリと追う。青木は、国内でも3年連続の賞金王に向けて快走していた。
さらに1打差で追うのが、1か月前に烏山城CCで行われた「関東オープン」でプロ初優勝を飾ったばかりの湯原だった。最終組は河野、青木の両ベテランに若い湯原が割って入る格好となった。
中盤までは、河野が主導権を握っていた。青木がこの日は不調で早々と脱落したこともあり、ベテランならではの巧みな技を駆使してリードを広げていった。
しかし独走かと思われた直後の「魔の14番」でまさかのトリプルボギー。逆に湯原はこのホールをバーディで逆転する。
一騎打ちの様相を呈した上がり4ホールを、湯原が振り返る。「15番で河野さんが先に長いパットを決めてイーグル。僕は4、5メートルくらいのパットが入らずバーディで並んだ。16番は両者パー。17番で僕がグリーンを外してボギーを叩いてしまった。それで1打遅れて18番に行ったんです」。
風はやや向かい風。先に打った河野のボールはフェアウェイ右の、ラフとの境目近くに止まった。しかし、2オンは厳しい距離が残った。一方の湯原はビッグドライブを放ったものの、左のラフへとつかまってしまった。ボールは幸いにして沈んでいなかったが、つま先下がりで左上がりの複雑なライ。グリーンまでは200ヤード。
湯原は当時の心境をこう語る。「河野さんはフェアウェイ右ギリギリの、グリーンには届かないシチュエーション。スプーン(3W)で打っていって、右のサブグリーンの手前に止まったんです」。一方の湯原は厳しいライながら、距離的には2オンチャンス。誰もがかたずをのんで見守る、優勝のかかる大事な1打となった。
「それまでの日本アマや日本ジュニアの経験でも、こういう興奮状態でアドレナリンが出ている時は、ボールが普段よりも飛ぶことは分かっていた。それで通常なら届かない5番アイアンで打つことを決めたんです」。
グリーンの手前には名物の池が大きく口を開けていた。誰が見ても難しい左のラフから、湯原は5番アイアンで会心の1打を放つ。秋空に高々と上がったボールは、フェード気味の軌道でピンへと吸い寄せられていく。手前3メートルのバーディチャンスにつくスーパーショットで、河野にプレッシャーをかけた。
一方の河野はまだピンまで30ヤードのアプローチを残していた。この第3打を寄せきれない。5メートルのパーパットも決められず、万事休すの状況となった。
湯原はすでに優勝を確信していた。「河野さんが外した瞬間に(自分のパットは)こういうラインで入る、というイマジネーションが出来上がっていた。だからボールが転がっている途中からもう手が挙がって、万歳しちゃっている写真が掲載された記憶があります」。
残り200ヤードから5番アイアンで放たれたウイニングショットはまさにアドレナリンのなせる業。それは湯原が、この後プロとしてやっていく自信をつかむことができた、その後の人生を決める1打でもあった。
「父親からは1年でものにならなかったら、帰ってこいと言われていました。でも関東オープンで初優勝して、1か月足らずのジュンで2勝目を挙げられた。トーナメントの中でも高額賞金で有名なジュンに勝てたことで、みんなが(プロとしてゴルフを続けることを)納得してくれたこともうれしかったですね」(湯原)。
この年の10月は湯原の優勝を皮切りに翌週の「東海クラシック」で7月にデビューしたばかりの倉本昌弘が優勝。さらに5週目の「日本オープン」では羽川豊が優勝しており、この3人が「若手3羽ガラス」「ゴールデントリオ」などと騒がれるようになる。
青木功、尾崎将司、中嶋常幸のAONが海外でも活躍し、若手の倉本・湯原・羽川もツアーを席捲。これだけの役者が揃ったことでゴルフ人気は上昇し、トーナメントの数が増えるに従い賞金額もうなぎ上りとなっていった。そんな時代の始まりを告げた、湯原のジュンクラシック逆転優勝だった。(文・小川朗)
1981年の10月4日。栃木県のジュンクラシックカントリークラブで、そのドラマは起こった。大会の最終日、18ホールを前にして、役者は十分に揃っていた。
マスターズで大活躍を演じ「リトル・コーノ」の異名を取った河野高明が3日目に「69」をマークして5位から首位に浮上。1打差2位で、前年の「全米オープン」で帝王ジャック・ニクラウスとの死闘を演じ2位に入った青木功がピタリと追う。青木は、国内でも3年連続の賞金王に向けて快走していた。
さらに1打差で追うのが、1か月前に烏山城CCで行われた「関東オープン」でプロ初優勝を飾ったばかりの湯原だった。最終組は河野、青木の両ベテランに若い湯原が割って入る格好となった。
中盤までは、河野が主導権を握っていた。青木がこの日は不調で早々と脱落したこともあり、ベテランならではの巧みな技を駆使してリードを広げていった。
しかし独走かと思われた直後の「魔の14番」でまさかのトリプルボギー。逆に湯原はこのホールをバーディで逆転する。
一騎打ちの様相を呈した上がり4ホールを、湯原が振り返る。「15番で河野さんが先に長いパットを決めてイーグル。僕は4、5メートルくらいのパットが入らずバーディで並んだ。16番は両者パー。17番で僕がグリーンを外してボギーを叩いてしまった。それで1打遅れて18番に行ったんです」。
風はやや向かい風。先に打った河野のボールはフェアウェイ右の、ラフとの境目近くに止まった。しかし、2オンは厳しい距離が残った。一方の湯原はビッグドライブを放ったものの、左のラフへとつかまってしまった。ボールは幸いにして沈んでいなかったが、つま先下がりで左上がりの複雑なライ。グリーンまでは200ヤード。
湯原は当時の心境をこう語る。「河野さんはフェアウェイ右ギリギリの、グリーンには届かないシチュエーション。スプーン(3W)で打っていって、右のサブグリーンの手前に止まったんです」。一方の湯原は厳しいライながら、距離的には2オンチャンス。誰もがかたずをのんで見守る、優勝のかかる大事な1打となった。
「それまでの日本アマや日本ジュニアの経験でも、こういう興奮状態でアドレナリンが出ている時は、ボールが普段よりも飛ぶことは分かっていた。それで通常なら届かない5番アイアンで打つことを決めたんです」。
グリーンの手前には名物の池が大きく口を開けていた。誰が見ても難しい左のラフから、湯原は5番アイアンで会心の1打を放つ。秋空に高々と上がったボールは、フェード気味の軌道でピンへと吸い寄せられていく。手前3メートルのバーディチャンスにつくスーパーショットで、河野にプレッシャーをかけた。
一方の河野はまだピンまで30ヤードのアプローチを残していた。この第3打を寄せきれない。5メートルのパーパットも決められず、万事休すの状況となった。
湯原はすでに優勝を確信していた。「河野さんが外した瞬間に(自分のパットは)こういうラインで入る、というイマジネーションが出来上がっていた。だからボールが転がっている途中からもう手が挙がって、万歳しちゃっている写真が掲載された記憶があります」。
残り200ヤードから5番アイアンで放たれたウイニングショットはまさにアドレナリンのなせる業。それは湯原が、この後プロとしてやっていく自信をつかむことができた、その後の人生を決める1打でもあった。
「父親からは1年でものにならなかったら、帰ってこいと言われていました。でも関東オープンで初優勝して、1か月足らずのジュンで2勝目を挙げられた。トーナメントの中でも高額賞金で有名なジュンに勝てたことで、みんなが(プロとしてゴルフを続けることを)納得してくれたこともうれしかったですね」(湯原)。
この年の10月は湯原の優勝を皮切りに翌週の「東海クラシック」で7月にデビューしたばかりの倉本昌弘が優勝。さらに5週目の「日本オープン」では羽川豊が優勝しており、この3人が「若手3羽ガラス」「ゴールデントリオ」などと騒がれるようになる。
青木功、尾崎将司、中嶋常幸のAONが海外でも活躍し、若手の倉本・湯原・羽川もツアーを席捲。これだけの役者が揃ったことでゴルフ人気は上昇し、トーナメントの数が増えるに従い賞金額もうなぎ上りとなっていった。そんな時代の始まりを告げた、湯原のジュンクラシック逆転優勝だった。(文・小川朗)