今回は1999年のジーン・サラゼン ジュンクラシック。1993年の賞金王・飯合肇が、ツアープロ人生で最も印象に残る試合として挙げた4日間を振り返る。
当時の国内ツアーを圧倒的な強さでリードしていたのはジャンボ・尾崎将司。94年から5年連続で賞金王に君臨し、その牙城を突き崩すのは容易ではなかった。この試合もジャンボは初日「70」で首位に3打差のスタートを切ると、2日目に「65」をマーク。トータル9アンダーまでスコアを伸ばし、“定位置”の単独首位にどっかりと座った。
予選2日間を終えトップのジャンボから2打差の2位につけたのが、尾崎3兄弟の次弟ジェット・尾崎健夫と、2日目に「66」をマークしたジャンボ軍団の大番頭、コング・飯合だった。実は飯合、ジュンクラシックでは1995年の第3ラウンドで「61」をマークするなど、過去の大会でも存在感を発揮していた。
この頃__。1990年代はまさにジャンボ軍団が国内ツアーをけん引した時代と言っていい。ジャンボ尾崎が90年まで3年連続の賞金王に君臨すると、91年が尾崎直道、92年がジャンボ、93年が飯合肇、94年から98年までが5年連続でジャンボ、そして99年がまた直道と、軍団のメンバーが王座を独占している。このメンバーに加え賞金ランキング2位となった東聡や金子柱憲がマスターズなどメジャーへの出場権をゲットしている。
熱戦の現場に場面を戻そう。3日目はジャンボ、ジェット、コングとジャンボ軍団が最終組でプレー。決勝ラウンドは軍団内における骨肉の争いの様相が深まった。ここで貫録を見せたのが、やはりジャンボ。17番まで13アンダーとぶっち切り態勢を完全に固めたように見えた。だが日頃から行動を共にし、身内同然の飯合には、この時のジャンボにいつにないスキが見えていた。
この年のジャンボは、夏場に背筋痛など体調面に不安が出て、ジュンの前週に行われた全日空も2日目から棄権。「ジャンボも前半勝って(東建、ヨネックス広島と2勝)いたけど、疲れが出ていた時期。主催者には(ジャンボに)無理して出てもらった感じもあった」(飯合)
最終ホールを4打差の単独首位で迎えたジャンボが、ここで「らしからぬ」ミスを犯す。第2打を池に入れ、ダブルパーの8。このホールをパーで上がった飯合と通算9アンダーのトップタイで並び最終日を迎えることとなった。飯合にとっては3日目に続き最終日も最終組で、ジャンボと直接対決することになった。
ジャンボは最終日、好スタートを切り単独首位に立った。しかし5番のパー3でまたもやダブルパーの6を叩く。だがこの後はゴルフを立て直し、トップグループに踏みとどまる。息詰まるデッドヒートの中、優勝の行方は混とんとしていく。
誰もが大本命と信じるジャンボの足踏みにより、観るものにとって優勝争いは俄然面白くなった。大詰めの3ホールを前にして12アンダーで単独首位に立ったのが経験豊富な45歳のベテラン・飯合。通算11勝目に大きく前進したかに見えたが、その飯合自身が17番でボギーを叩いてまた並んでしまう。
そこに割って入ったのが最終組の前で回っていた宮瀬博文。最終組が18番に来た時、グリーン上から風に乗って流れて来る大歓声が最終組の耳に届く。飯合の談。「宮瀬君が8メートルくらいのロングパットを1発で沈めて、それはすごい大歓声だったから『バーディを獲られたな』と思ったの。でも実際にはパーで、11アンダーで並んでいた。『今日の18番は難しいんで、パーで行けたら、プレーオフできるな』と、ジャンボともそういう構えで行った」。
だが、ジャンボはガードバンカーから5メートルもオーバー。「いつもなら10回中7回はパーを拾っている状況。直接入れてバーディを獲っちゃうこともあるんじゃないか。そういうところから、何故か簡単にボギー打っちゃった」。
一方の飯合はドライバーできっちりとフェアウェイをとらえ、5番アイアンで10メートルに手堅く2オン。2パットのパーでトータル11アンダーをキープ。プレーオフ進出の権利を獲得した。最終ホールでの、意外なジャンボの失速により、飯合は宮瀬との一騎打ちに臨むことになる。「実はジャンボとはプレーオフで戦ったことは、一度もないんです。ジャンボとプレーオフができるなんて、滅多にないことだから、やりたかったな、という残念な気持ちはありましたよ。やってたら負けてだろうけど(笑)」。
飯合の心の中には、様々な思いが渦巻いていた。「これはプレーオフで負けると、ジャンボに怒られちゃうな、という気持ちになった」。プレーオフに残れなかったジャンボの分まで頑張る、という気持ちが込み上げてくる一方で2日間36ホールをジャンボと同じ組で優勝争いを演じ、1ストローク先んじたという充実感も感じていた。
「その2日間の死闘があったから、プレーオフでは負ける気がしなかった。勝つんだ、という意識で臨めた」。番外戦も、中身の濃いものとなった。ティーショットを池に入れ、絶体絶命の立場になった宮瀬が、残り230ヤードの3打目を2番アイアンで2メートルにピタリとつける。
一方の飯合も、それを見ても全く動じない。本戦同様、フェアウェイから5番アイアンで10メートルに2オン。先に2パットで上がり、宮瀬を「入れなければ脱落」という厳しい立場に追い込んだ。
勝負がかかったパーパット。宮瀬がこれをポロリと外して、飯合の優勝が決まった。しみじみと、言う。「自分にとってやっぱり大きかったのは、あの(ジャンボ軍団の)門を叩けたこと。冬のトレーニングも本当に厳しい世界だった。あそこにいると、1勝したところで『それがどうしたの』っていう雰囲気になれる。まだまだ上がいるわけだから(笑)。いい刺激がお互いにあって、誰かが勝つと「よし、次は俺が」となる。その結果、ツアーで11勝も出来たんだと感謝しています。結局、ジュンの優勝がツアー最後の優勝になっちゃったけどね。燃え尽き症候群になっちゃったのかもね(笑)」
飯合にとっては、この優勝は様々な意味で大きな意味を持っていた。「ジャンボとの優勝争いはいくつかあった。でも本当の意味で、決勝ラウンド2日間一緒に回っての優勝だから」。
プレーオフを制した飯合をジャンボは帰らずに待っていてくれたという。「勝てました」と報告した飯合を祝福した後、ジャンボから出た言葉が「サービスだぞ、これは」。ちょっぴり皮肉のこもったメッセージが、心に沁みた。(文・小川朗)
当時の国内ツアーを圧倒的な強さでリードしていたのはジャンボ・尾崎将司。94年から5年連続で賞金王に君臨し、その牙城を突き崩すのは容易ではなかった。この試合もジャンボは初日「70」で首位に3打差のスタートを切ると、2日目に「65」をマーク。トータル9アンダーまでスコアを伸ばし、“定位置”の単独首位にどっかりと座った。
予選2日間を終えトップのジャンボから2打差の2位につけたのが、尾崎3兄弟の次弟ジェット・尾崎健夫と、2日目に「66」をマークしたジャンボ軍団の大番頭、コング・飯合だった。実は飯合、ジュンクラシックでは1995年の第3ラウンドで「61」をマークするなど、過去の大会でも存在感を発揮していた。
この頃__。1990年代はまさにジャンボ軍団が国内ツアーをけん引した時代と言っていい。ジャンボ尾崎が90年まで3年連続の賞金王に君臨すると、91年が尾崎直道、92年がジャンボ、93年が飯合肇、94年から98年までが5年連続でジャンボ、そして99年がまた直道と、軍団のメンバーが王座を独占している。このメンバーに加え賞金ランキング2位となった東聡や金子柱憲がマスターズなどメジャーへの出場権をゲットしている。
熱戦の現場に場面を戻そう。3日目はジャンボ、ジェット、コングとジャンボ軍団が最終組でプレー。決勝ラウンドは軍団内における骨肉の争いの様相が深まった。ここで貫録を見せたのが、やはりジャンボ。17番まで13アンダーとぶっち切り態勢を完全に固めたように見えた。だが日頃から行動を共にし、身内同然の飯合には、この時のジャンボにいつにないスキが見えていた。
この年のジャンボは、夏場に背筋痛など体調面に不安が出て、ジュンの前週に行われた全日空も2日目から棄権。「ジャンボも前半勝って(東建、ヨネックス広島と2勝)いたけど、疲れが出ていた時期。主催者には(ジャンボに)無理して出てもらった感じもあった」(飯合)
最終ホールを4打差の単独首位で迎えたジャンボが、ここで「らしからぬ」ミスを犯す。第2打を池に入れ、ダブルパーの8。このホールをパーで上がった飯合と通算9アンダーのトップタイで並び最終日を迎えることとなった。飯合にとっては3日目に続き最終日も最終組で、ジャンボと直接対決することになった。
ジャンボは最終日、好スタートを切り単独首位に立った。しかし5番のパー3でまたもやダブルパーの6を叩く。だがこの後はゴルフを立て直し、トップグループに踏みとどまる。息詰まるデッドヒートの中、優勝の行方は混とんとしていく。
誰もが大本命と信じるジャンボの足踏みにより、観るものにとって優勝争いは俄然面白くなった。大詰めの3ホールを前にして12アンダーで単独首位に立ったのが経験豊富な45歳のベテラン・飯合。通算11勝目に大きく前進したかに見えたが、その飯合自身が17番でボギーを叩いてまた並んでしまう。
そこに割って入ったのが最終組の前で回っていた宮瀬博文。最終組が18番に来た時、グリーン上から風に乗って流れて来る大歓声が最終組の耳に届く。飯合の談。「宮瀬君が8メートルくらいのロングパットを1発で沈めて、それはすごい大歓声だったから『バーディを獲られたな』と思ったの。でも実際にはパーで、11アンダーで並んでいた。『今日の18番は難しいんで、パーで行けたら、プレーオフできるな』と、ジャンボともそういう構えで行った」。
だが、ジャンボはガードバンカーから5メートルもオーバー。「いつもなら10回中7回はパーを拾っている状況。直接入れてバーディを獲っちゃうこともあるんじゃないか。そういうところから、何故か簡単にボギー打っちゃった」。
一方の飯合はドライバーできっちりとフェアウェイをとらえ、5番アイアンで10メートルに手堅く2オン。2パットのパーでトータル11アンダーをキープ。プレーオフ進出の権利を獲得した。最終ホールでの、意外なジャンボの失速により、飯合は宮瀬との一騎打ちに臨むことになる。「実はジャンボとはプレーオフで戦ったことは、一度もないんです。ジャンボとプレーオフができるなんて、滅多にないことだから、やりたかったな、という残念な気持ちはありましたよ。やってたら負けてだろうけど(笑)」。
飯合の心の中には、様々な思いが渦巻いていた。「これはプレーオフで負けると、ジャンボに怒られちゃうな、という気持ちになった」。プレーオフに残れなかったジャンボの分まで頑張る、という気持ちが込み上げてくる一方で2日間36ホールをジャンボと同じ組で優勝争いを演じ、1ストローク先んじたという充実感も感じていた。
「その2日間の死闘があったから、プレーオフでは負ける気がしなかった。勝つんだ、という意識で臨めた」。番外戦も、中身の濃いものとなった。ティーショットを池に入れ、絶体絶命の立場になった宮瀬が、残り230ヤードの3打目を2番アイアンで2メートルにピタリとつける。
一方の飯合も、それを見ても全く動じない。本戦同様、フェアウェイから5番アイアンで10メートルに2オン。先に2パットで上がり、宮瀬を「入れなければ脱落」という厳しい立場に追い込んだ。
勝負がかかったパーパット。宮瀬がこれをポロリと外して、飯合の優勝が決まった。しみじみと、言う。「自分にとってやっぱり大きかったのは、あの(ジャンボ軍団の)門を叩けたこと。冬のトレーニングも本当に厳しい世界だった。あそこにいると、1勝したところで『それがどうしたの』っていう雰囲気になれる。まだまだ上がいるわけだから(笑)。いい刺激がお互いにあって、誰かが勝つと「よし、次は俺が」となる。その結果、ツアーで11勝も出来たんだと感謝しています。結局、ジュンの優勝がツアー最後の優勝になっちゃったけどね。燃え尽き症候群になっちゃったのかもね(笑)」
飯合にとっては、この優勝は様々な意味で大きな意味を持っていた。「ジャンボとの優勝争いはいくつかあった。でも本当の意味で、決勝ラウンド2日間一緒に回っての優勝だから」。
プレーオフを制した飯合をジャンボは帰らずに待っていてくれたという。「勝てました」と報告した飯合を祝福した後、ジャンボから出た言葉が「サービスだぞ、これは」。ちょっぴり皮肉のこもったメッセージが、心に沁みた。(文・小川朗)