今回の記憶は、23年後、全米プロシニアゴルフ選手権に優勝する男の、原点となる。1990年関西プロゴルフ選手権。井戸木鴻樹、初優勝の一幕だ。
1990年6月。鳥取県大山平原ゴルフ倶楽部では、第54回関西プロゴルフ選手権が行われていた。1931(昭和6)年に第1回が開催され、歴史を刻んだ大会である。
プロ7年目の28歳。まだシード権もなく、当時、出場権を争った予選会で上位に入ってこの年の出場権を手にした新鋭だった。
日本最古のゴルフ場が神戸ゴルフ倶楽部であることからもわかるように、日本のゴルフの歴史は関西で始まっている。関西プロ主催の関西プロゴルフ協会も、日本のプロの組織としては最古のものだ。1928(昭和3)年に設立され、関東プロゴルフ連盟はこれに遅れること3年で設立されている(1946年関東プロゴルフ協会となる)。その後、1957年に霞が関CCで行われ、日本チームが優勝したカナダカップ(現ワールドカップ)をきっかけに、同年、日本プロゴルフ協会(PGA)が設立されている。日本プロゴルフ選手権は1926年にプロ6人で行われたのが第1回だが、31年からは日本ゴルフ協会(JGA)が主催。1957年にPGAができたことでようやくプロの団体が開催することになっている。
それほどの歴史を誇り、関西のプロにとっては大切な大会だが、実はこの年を最後になくなっている。最後の王者を決める戦いでもあった。
「この年はいいゴルフができていたのは確かですけど、3日目まで。最終日の優勝争いになると、パットが届かなくなるんです。トリの心臓みたいなビビりやから…」と、苦笑しながら、井戸木が回想する。
大阪府茨木市出身。茨木GCで腕を磨いた井戸木にとっては、思い入れのある大会だ。杉原輝雄、中村通、島田幸作、前田新作、山本善隆…。歴代優勝者には身近な実力者たちがずらりと並ぶ。まだまだ現役な先輩たちと同じフィールドで、井戸木はいいゴルフを繰り広げていた。
「上位には杉原さん、中村さん、前田さん、大山雄三らがいました」。3日目を終わってトータル9アンダー単独首位に立つが、全く油断のできないメンバーが後に続いていた。1打差で杉原、2打差で中村。この2人との最終日、最終組が決まった。
プロ入り以来、なかなか成績が出ない井戸木が、出場権を得たのは、オフシーズンのキャンプで中村達と一緒に練習に励んだ効果もあった。“ドン”といわれた杉原にもかわいがってもらっていたが、その分、怒られることも多かった。「神様。ゴルフの魔術師だと思っていましたからね。オヤジみたいで、師匠みたいだと思っていました」という大御所2人との優勝争いになった。
先手を取ったのは杉原だった。1番でバーディを奪い、さっそく、首位に並ぶ。3番で井戸木もバーディを取り返すが、すぐに5番で取り返される。8番は揃ってボギーでトータル9アンダー。互いに一歩も譲らないまま、バックナインに突入した。
10番バーディと一歩先んじた杉原だったが、13番でボギー。対する井戸木は、スコアカード通りの忍耐強いプレーを続けていた。
2人の戦いを尻目に、一度は5アンダーまでスコアを落とした中村も、しぶとくよみがえる。10番、13番バーディでスタートと同じ7アンダーと油断ならない位置にいた。
16番で杉原がダブルボギーを叩いて、井戸木2打差に後退。中村と並ぶ。杉原は17番もボギーで6アンダー。だが、このホール、井戸木もボギーで中村との差は1打と緊迫したまま18番へと向かった。
最終組以外にも敵はいた。大山、柴田猛の2人が先に通算8アンダーでホールアウト。井戸木と並ぶ首位で待ち構えていた。
勝負がかかった18番パー4。井戸木の第2打は、1.8メートルのバーディチャンス。入れれば優勝。はずして2パットならプレーオフの緊張する場面だ。実は、前の17番でも「トリの心臓みたいなビビり」の井戸木は、パットを打ちきれず、ボギーを叩いている。バクバクする心臓をなだめながらの、井戸木はバーディパットを沈めた。中村もバーディで8アンダー。はずしていたら4人プレーオフになるところだった。
「ラウンド中、杉原さんがチョコチョコ独り言を言うんですよ。『今度はしっかり打て』と聞こえました。あれも独り言やったんでしょう」(井戸木)
大先輩たちとの優勝争いを、見事に制した井戸木。それまで、研修会や月例では何度も優勝しているのに、ツアーでは勝てないことに対して「何が足りない?」と自分に問いかけ続けてきたが「勝てる時は心技体が揃って集中力が増す」と言うことをここで学んだ。「昨日のことのように覚えている」という忘れられない1戦。初シードを手にし、シニア入りまで活躍。2013年に日本人男子初のメジャータイトルを手にすることにつながっている。(文・小川淳子)
1990年6月。鳥取県大山平原ゴルフ倶楽部では、第54回関西プロゴルフ選手権が行われていた。1931(昭和6)年に第1回が開催され、歴史を刻んだ大会である。
プロ7年目の28歳。まだシード権もなく、当時、出場権を争った予選会で上位に入ってこの年の出場権を手にした新鋭だった。
日本最古のゴルフ場が神戸ゴルフ倶楽部であることからもわかるように、日本のゴルフの歴史は関西で始まっている。関西プロ主催の関西プロゴルフ協会も、日本のプロの組織としては最古のものだ。1928(昭和3)年に設立され、関東プロゴルフ連盟はこれに遅れること3年で設立されている(1946年関東プロゴルフ協会となる)。その後、1957年に霞が関CCで行われ、日本チームが優勝したカナダカップ(現ワールドカップ)をきっかけに、同年、日本プロゴルフ協会(PGA)が設立されている。日本プロゴルフ選手権は1926年にプロ6人で行われたのが第1回だが、31年からは日本ゴルフ協会(JGA)が主催。1957年にPGAができたことでようやくプロの団体が開催することになっている。
それほどの歴史を誇り、関西のプロにとっては大切な大会だが、実はこの年を最後になくなっている。最後の王者を決める戦いでもあった。
「この年はいいゴルフができていたのは確かですけど、3日目まで。最終日の優勝争いになると、パットが届かなくなるんです。トリの心臓みたいなビビりやから…」と、苦笑しながら、井戸木が回想する。
大阪府茨木市出身。茨木GCで腕を磨いた井戸木にとっては、思い入れのある大会だ。杉原輝雄、中村通、島田幸作、前田新作、山本善隆…。歴代優勝者には身近な実力者たちがずらりと並ぶ。まだまだ現役な先輩たちと同じフィールドで、井戸木はいいゴルフを繰り広げていた。
「上位には杉原さん、中村さん、前田さん、大山雄三らがいました」。3日目を終わってトータル9アンダー単独首位に立つが、全く油断のできないメンバーが後に続いていた。1打差で杉原、2打差で中村。この2人との最終日、最終組が決まった。
プロ入り以来、なかなか成績が出ない井戸木が、出場権を得たのは、オフシーズンのキャンプで中村達と一緒に練習に励んだ効果もあった。“ドン”といわれた杉原にもかわいがってもらっていたが、その分、怒られることも多かった。「神様。ゴルフの魔術師だと思っていましたからね。オヤジみたいで、師匠みたいだと思っていました」という大御所2人との優勝争いになった。
先手を取ったのは杉原だった。1番でバーディを奪い、さっそく、首位に並ぶ。3番で井戸木もバーディを取り返すが、すぐに5番で取り返される。8番は揃ってボギーでトータル9アンダー。互いに一歩も譲らないまま、バックナインに突入した。
10番バーディと一歩先んじた杉原だったが、13番でボギー。対する井戸木は、スコアカード通りの忍耐強いプレーを続けていた。
2人の戦いを尻目に、一度は5アンダーまでスコアを落とした中村も、しぶとくよみがえる。10番、13番バーディでスタートと同じ7アンダーと油断ならない位置にいた。
16番で杉原がダブルボギーを叩いて、井戸木2打差に後退。中村と並ぶ。杉原は17番もボギーで6アンダー。だが、このホール、井戸木もボギーで中村との差は1打と緊迫したまま18番へと向かった。
最終組以外にも敵はいた。大山、柴田猛の2人が先に通算8アンダーでホールアウト。井戸木と並ぶ首位で待ち構えていた。
勝負がかかった18番パー4。井戸木の第2打は、1.8メートルのバーディチャンス。入れれば優勝。はずして2パットならプレーオフの緊張する場面だ。実は、前の17番でも「トリの心臓みたいなビビり」の井戸木は、パットを打ちきれず、ボギーを叩いている。バクバクする心臓をなだめながらの、井戸木はバーディパットを沈めた。中村もバーディで8アンダー。はずしていたら4人プレーオフになるところだった。
「ラウンド中、杉原さんがチョコチョコ独り言を言うんですよ。『今度はしっかり打て』と聞こえました。あれも独り言やったんでしょう」(井戸木)
大先輩たちとの優勝争いを、見事に制した井戸木。それまで、研修会や月例では何度も優勝しているのに、ツアーでは勝てないことに対して「何が足りない?」と自分に問いかけ続けてきたが「勝てる時は心技体が揃って集中力が増す」と言うことをここで学んだ。「昨日のことのように覚えている」という忘れられない1戦。初シードを手にし、シニア入りまで活躍。2013年に日本人男子初のメジャータイトルを手にすることにつながっている。(文・小川淳子)