「ゴルフをやっていてよかった」。34歳の米山剛が、心からそう思った初優勝は、1999年三菱自動車トーナメント。ジュニア時代から注目を集め、日大ゴルフ部の頃には日本オープンローアマや日本学生などのタイトルを手にしてプロ入りした期待の星が手にした待望の勝利は、緊張の中にも心地よい集中あってのものだった。
トーナメントは5月の雨で幕を開けた。岐阜県のレイクグリーンGCレイクC。雨による一時中断の末、サスペンデッドで始まった試合の第1ラウンドを、米山は2アンダーでプレーした。首位のデビッド・イシイとは4打差17位タイ。悪くないスタートだ。
「優勝とかいうレベルではないけど、調子が良ければベスト5に入れるかな、と言うような頃でした。スイング的には(56歳の)今のほうが感じよく打てているけど、この年は勢いがあった」と振り返るシーズン。現在のように、ツアーでアマチュアが上位に食い込むことなど皆無に近く、プロ入りしてすぐに活躍するのもごく限られた選手だけ。30代半ばは、脂が乗り始めた頃、と言う時代だった。
それでも「そろそろ自分より若い子が優勝していて、優勝したいな、と思ってはいました」という気持ちもあった。
7試合前のデサントクラシック・マンシングウェアカップでは、河村雅之、細川和彦とのプレーオフも演じていた。2ホール目で河村に敗れたものの、手応えを感じてもいた頃だ。
第2ラウンドも2アンダーでプレーした米山だったが、第3ラウンドで「66」、5アンダーを出して優勝戦線に浮上する。トータル9アンダー2位タイ。だが、1打差ながら単独首位には強敵、尾崎将司がどっかりと居座っている。2位タイもイシイ、細川和彦、伊澤利光、謝錦昇と他4人もいる混戦模様。激戦必至の展開だ。
最終日。最終組は米山とジャンボ、細川の組み合わせ。「鮮明に覚えていますね、やっぱりジャンボさんの威圧感はすごかった(笑)。姿を見ると緊張するし、ショットを見ると力が入ったりしました。優勝は考えず、胸を借りるつもりで、自分のゴルフをすることに徹しようと思っていました」。
ところが、フタを開けてみると、ジャンボの調子が今一つ。1番でいきなりボギーを叩いて、米山らに並ばれる。2番でバーディを奪った米山、細川に逆に1打差つけられてしまう。
2番から4連続バーディでトータル13アンダーとした細川が先手を取るが、米山も負けてはいない。5番、6番、8番とバーディを重ねて、首位を並走した。前半で2つボギーを叩いたジャンボは優勝争いから脱落。バックナインは、米山VS細川のマッチプレーの様相を示していた。
「細川君とのマッチプレーみたいな感じになっていましたね。優勝への緊張感はあるけど、ゾーンに入った感じで目の前の相手に集中できた。ジャンボさんのキャディが(エースの)佐野木(計至)さんじゃなかったことは覚えています」。
お互い、一歩も譲らず、さらに2つずつバーディを取って臨んだ16番パー3。固いグリーンをうまく攻略した米山は3メートルのバーディチャンスにつけたが、これが決まらない。
528ヤードの17番では「細川君は距離も出るし、バーディが必要なんだろうな、とティグラウンドでは思っていました」と、あくまで冷静だった。
このホールはきっちり2人ともバーディを取ってトータル16アンダー。18番は2人ともパーで、プレーオフに突入した。
勝負は18番を繰り返すサドンデス。1ホール目にチャンスが訪れた。手前から23メートル、右から7メートルの一のピンに対して、細川は7メートルに乗せただけだが、米山は1・5メートルのバーディチャンス。だが、これが決まらず、2ホール、3ホールと同じピン位置での戦いが続く。「お互い、バーディチャンスがあっても入らない。ずっと張り詰めた緊張感があって、行くところまで行こう、と言う気持ちでした」。
3ホールを終えても決着がつかず、カップが切り直された。今度は、手前から7メートル、左から5メートル。当時のツアーオフィシャルウェブサイトを見ると「プレーオフでカップが切り直されたのは、ツアーで初めてでしょう」と言う大会ディレクターの言葉が残っている。
それでも、白熱した勝負は終わらない。4ホール目もともにパー。マッチレースは5ホール目にもつれ込む。
第3打をグリーン右に外してラフに入れた米山に対し、細川はピンをデッドに狙ったものの失敗。左ラフにつかまってしまう。
パターで打てるライだったため、米山は50センチにつけたが、細川には2メートルのパーパットが残る。これが入らず、米山の優勝が決まった。
「(3打目は)合田洋の劇的な日本プロ優勝(1994年。18番でバンカーからパターで寄せてパーセーブし、ジャンボに競り勝った)を思い出したりしながらパターで打ちました」と、最後まで冷静だった米山。この日、23ホールをノーボギーでプレーして、待望の初優勝を手にした。
プロ13年目。当時としては決して”遅咲き“と言うわけではないが、勝ちたい気持ちばかりが先走っていたが、ついに結果を出した。「今思うと、あまりいいスイングをしていないけど、信じる者は救われる、と言う感じですかね。自分を信じていた。それに(当時、スイングコーチの)井上(透)くんのことも信じていましたから」と、勝因を口にする。
自信をつけて、この年は久光製薬KBCオーガスタ、カシオワールドオープンでも優勝。賞金ランキング5位に食い込んでいる。「年間3勝もできる実力はないんだけど、初優勝の勢いかな」と笑った。
この後、スイングのマイナーチェンジをしたり、無理をしたことで故障に見舞われるのだが、これを乗り越えて、シニアツアーで今も活躍する米山の、記憶に残る名勝負だ。(文・小川淳子)
トーナメントは5月の雨で幕を開けた。岐阜県のレイクグリーンGCレイクC。雨による一時中断の末、サスペンデッドで始まった試合の第1ラウンドを、米山は2アンダーでプレーした。首位のデビッド・イシイとは4打差17位タイ。悪くないスタートだ。
「優勝とかいうレベルではないけど、調子が良ければベスト5に入れるかな、と言うような頃でした。スイング的には(56歳の)今のほうが感じよく打てているけど、この年は勢いがあった」と振り返るシーズン。現在のように、ツアーでアマチュアが上位に食い込むことなど皆無に近く、プロ入りしてすぐに活躍するのもごく限られた選手だけ。30代半ばは、脂が乗り始めた頃、と言う時代だった。
それでも「そろそろ自分より若い子が優勝していて、優勝したいな、と思ってはいました」という気持ちもあった。
7試合前のデサントクラシック・マンシングウェアカップでは、河村雅之、細川和彦とのプレーオフも演じていた。2ホール目で河村に敗れたものの、手応えを感じてもいた頃だ。
第2ラウンドも2アンダーでプレーした米山だったが、第3ラウンドで「66」、5アンダーを出して優勝戦線に浮上する。トータル9アンダー2位タイ。だが、1打差ながら単独首位には強敵、尾崎将司がどっかりと居座っている。2位タイもイシイ、細川和彦、伊澤利光、謝錦昇と他4人もいる混戦模様。激戦必至の展開だ。
最終日。最終組は米山とジャンボ、細川の組み合わせ。「鮮明に覚えていますね、やっぱりジャンボさんの威圧感はすごかった(笑)。姿を見ると緊張するし、ショットを見ると力が入ったりしました。優勝は考えず、胸を借りるつもりで、自分のゴルフをすることに徹しようと思っていました」。
ところが、フタを開けてみると、ジャンボの調子が今一つ。1番でいきなりボギーを叩いて、米山らに並ばれる。2番でバーディを奪った米山、細川に逆に1打差つけられてしまう。
2番から4連続バーディでトータル13アンダーとした細川が先手を取るが、米山も負けてはいない。5番、6番、8番とバーディを重ねて、首位を並走した。前半で2つボギーを叩いたジャンボは優勝争いから脱落。バックナインは、米山VS細川のマッチプレーの様相を示していた。
「細川君とのマッチプレーみたいな感じになっていましたね。優勝への緊張感はあるけど、ゾーンに入った感じで目の前の相手に集中できた。ジャンボさんのキャディが(エースの)佐野木(計至)さんじゃなかったことは覚えています」。
お互い、一歩も譲らず、さらに2つずつバーディを取って臨んだ16番パー3。固いグリーンをうまく攻略した米山は3メートルのバーディチャンスにつけたが、これが決まらない。
528ヤードの17番では「細川君は距離も出るし、バーディが必要なんだろうな、とティグラウンドでは思っていました」と、あくまで冷静だった。
このホールはきっちり2人ともバーディを取ってトータル16アンダー。18番は2人ともパーで、プレーオフに突入した。
勝負は18番を繰り返すサドンデス。1ホール目にチャンスが訪れた。手前から23メートル、右から7メートルの一のピンに対して、細川は7メートルに乗せただけだが、米山は1・5メートルのバーディチャンス。だが、これが決まらず、2ホール、3ホールと同じピン位置での戦いが続く。「お互い、バーディチャンスがあっても入らない。ずっと張り詰めた緊張感があって、行くところまで行こう、と言う気持ちでした」。
3ホールを終えても決着がつかず、カップが切り直された。今度は、手前から7メートル、左から5メートル。当時のツアーオフィシャルウェブサイトを見ると「プレーオフでカップが切り直されたのは、ツアーで初めてでしょう」と言う大会ディレクターの言葉が残っている。
それでも、白熱した勝負は終わらない。4ホール目もともにパー。マッチレースは5ホール目にもつれ込む。
第3打をグリーン右に外してラフに入れた米山に対し、細川はピンをデッドに狙ったものの失敗。左ラフにつかまってしまう。
パターで打てるライだったため、米山は50センチにつけたが、細川には2メートルのパーパットが残る。これが入らず、米山の優勝が決まった。
「(3打目は)合田洋の劇的な日本プロ優勝(1994年。18番でバンカーからパターで寄せてパーセーブし、ジャンボに競り勝った)を思い出したりしながらパターで打ちました」と、最後まで冷静だった米山。この日、23ホールをノーボギーでプレーして、待望の初優勝を手にした。
プロ13年目。当時としては決して”遅咲き“と言うわけではないが、勝ちたい気持ちばかりが先走っていたが、ついに結果を出した。「今思うと、あまりいいスイングをしていないけど、信じる者は救われる、と言う感じですかね。自分を信じていた。それに(当時、スイングコーチの)井上(透)くんのことも信じていましたから」と、勝因を口にする。
自信をつけて、この年は久光製薬KBCオーガスタ、カシオワールドオープンでも優勝。賞金ランキング5位に食い込んでいる。「年間3勝もできる実力はないんだけど、初優勝の勢いかな」と笑った。
この後、スイングのマイナーチェンジをしたり、無理をしたことで故障に見舞われるのだが、これを乗り越えて、シニアツアーで今も活躍する米山の、記憶に残る名勝負だ。(文・小川淳子)