1989年12月4日。冬の木漏れ日を浴びながら、185センチ、65キロのスリムな体が2度、3度と宙に舞った。日本シリーズ優勝といえども、ここは球場ではなく、ゴルフ場。すり鉢形状の東京よみうりカントリークラブの名物ホール、18番パー3を取り巻く1万8407人の大ギャラリーから祝福を浴びながら、グリーンサイドで胴上げされていたのは31歳の大町昭義だった。
胴上げをする顔触れの中には、この試合のテレビ中継を実況解説していた大町の師匠・青木功の姿もあった。「まさか青木さんに胴上げしてもらうとは。宙にも舞うような気持ちです」とジョークも冴えた。
その青木からは、スタート前から千金のアドバイスを授けられていた。最終日はこの年もすでに7勝を挙げ2年連続賞金王を手中にしていたジャンボ尾崎と、豪州のベテラン、グラハム・マーシュとのラウンド。「ジャンボやマーシュに実力や実績でかなう訳ないんだし、お前は今年調子いいんだから、自分のゴルフでガンガン行くしかないんだ」。
自分のゴルフ―。それはまさに大町自身が、自分の意志で飛び込んだ、米ツアー生活での経験により築き上げたものだった。3シーズン前の1986年春、大町は開幕戦の静岡オープンで大ベテランの杉原輝雄をプレーオフのすえ下し、プロ初優勝。その勢いのままに秋の米ツアーQTを39位でクリアして翌年からフル参戦に打って出た。
1年目はシード権も確保する健闘を見せたが、翌88年は賞金ランク175位と低迷しシード落ち。帰国して国内で立て直す道を選んだが2年間留守にしていた代償は大きかった。「ズタボロになって帰って来て、シード権もないみじめな生活」を送っていた時、米ツアーを共に戦った中島常幸が所属先のミズノに掛け合ってくれ、推薦出場を果たしたミズノトーナメントで優勝。シーズン終盤のエリートトーナメント・日本シリーズの出場権も獲得したのだ。
どん底から復活して、初出場となった日本シリーズの最終日18ホール。順位はトータル4アンダーの4位タイ。首位を行く中島常幸との差は7打もあり、一緒に回るジャンボもマーシュも、青木が言う通りはるかに格上のベテラン。大町は青木から受けた「自分のゴルフでガンガン行くしかない」というアドバイスに徹することを心に決めてスタートした。
するとどうだ、スタートホールの1番、大町のショットはジャンボの到達地点にわずか10ヤードのところまで迫る。「いつもは30ヤードくらい置いて行かれるのに、今日は俺も当たってるな」と好調を確信した大町は、上りの残り135ヤードを9番アイアンで30センチにつけるスーパーショット。これを見て10ヤード先で第2打を、PWで打ったジャンボがまさかの大ダフリを演じるのだ。
グリーンに向かいながらジャンボが大町に話しかける。「お前がすごい球打つから、俺がダフッてしまったじゃないか」。実は尾崎も、初優勝してしばらくたった頃、大町にアドバイスを贈っていた。「お前はそんなに飛ばないけど、グリップはいいから、基本を大事にしろ」。
無敵の勢いを誇ったジャンボがまさかのボギー発進。一方、朝一番でバーディを奪った大町は、午前中勝負だ。朝から行くしかない」とさらにギアを1段上げる。
4番のパー5は完璧なドライバーショットから残り約220ヤードを5番ウッドで見事2オン。上りの5メートル、最後にスライスするラインを読み切り1発で沈めて、イーグル奪取に成功した。さらに6番のパー5もドライバー、3番ウッドでグリーン左手前まで運び、右手前2メートルにつけ1パットのバーディ。続く7番のパー4もドライバー、8番アイアンとつないで右2.5メートルにパーオン。このパットも沈めて連続バーディ。パットの好調を支えていたのは、前週のカシオワールドで一緒に回った時に見た青木と渡辺司のパッティング。
「一緒に回っている先輩たちは、強気にコンコン打っていた。それを見て、『上位に行く人は、強気に打っているんだな』と先輩方からヒントをいただいた。それで自分も強気に打って行こうと決めていたんです」。“前半勝負”と“強気のパット”。心に決めた作戦がズバリとはまり、アウトを「31」で折り返した。
トータル9アンダーまでスコアを伸ばした大町。しかし、10番のティイングエリアで、見てはいけないものを見てしまった。7アンダーの単独2位からスタートした友利勝良がチャージをかけ、トータル11アンダーまでスコアを伸ばしていたことを、隣にある18番のリーダーボードを見て知ってしまうのだ。
大町の精神状態に、変化が生じた。「まだ俺、負けてるじゃん」と自覚すると、10番で2段グリーンの手前の段、10メートルから「狙いすぎて」3パット。ついにボギーが出てしまった。
13番まで小康状態が続くが、まだまだ強気は失っていなかった。14番は下りのスライス、15番は上りのともに2.5メートルを1発で沈めて連続バーディ。トータル10アンダーで単独トップに立ち、上がり3ホールへと突入した。
「アメリカのいい環境で練習もできて、いろんな経験をして、いつかはラッキーな日が来ると思ってやってきた」大町に、隙はなかった。「1打差くらいだろうから、ボードを見ないで全力でやろう」と心に決め、16、17番とパーで切り抜け難関の18番へと向かう。この時ようやく見上げたボードには、一番上に自分の名前が。2位の中嶋、友利との差は2ストロークに離れていた。
18番のピンの位置は「恒例の右手前。『ボギーは絶対ダメだな、パーでいい』と心に決めた5番ウッドのティショットは、右手前にキックしてグリーンをショート。アプローチを1メートルに付けてパーをセーブ。2ストロークの差を守り切った。
復活したシーズンの有終の美を飾る優勝劇の持つ価値を、大町はこんな言葉で表現した。
「青木さんが解説していて、ジャンボさんとラウンドして、中嶋さんを逆転することができた日本シリーズだった。本当にこの3人には、大きな影響を受けましたから」。
「心を強く持て」と励ましてくれた師匠の青木、「基本を大事にしろ」とアドバイスをくれたジャンボ、「米ツアーではたまにごちそうになったり、いろんなことを教えてもらったりした」上、日本シリーズ出場への道を開くことになったミズノオープンの推薦獲得に尽力してくれたのも中嶋だった。そのAONに“恩返し”をした形になったのが、1989年の日本シリーズにおける優勝劇だった。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
胴上げをする顔触れの中には、この試合のテレビ中継を実況解説していた大町の師匠・青木功の姿もあった。「まさか青木さんに胴上げしてもらうとは。宙にも舞うような気持ちです」とジョークも冴えた。
その青木からは、スタート前から千金のアドバイスを授けられていた。最終日はこの年もすでに7勝を挙げ2年連続賞金王を手中にしていたジャンボ尾崎と、豪州のベテラン、グラハム・マーシュとのラウンド。「ジャンボやマーシュに実力や実績でかなう訳ないんだし、お前は今年調子いいんだから、自分のゴルフでガンガン行くしかないんだ」。
自分のゴルフ―。それはまさに大町自身が、自分の意志で飛び込んだ、米ツアー生活での経験により築き上げたものだった。3シーズン前の1986年春、大町は開幕戦の静岡オープンで大ベテランの杉原輝雄をプレーオフのすえ下し、プロ初優勝。その勢いのままに秋の米ツアーQTを39位でクリアして翌年からフル参戦に打って出た。
1年目はシード権も確保する健闘を見せたが、翌88年は賞金ランク175位と低迷しシード落ち。帰国して国内で立て直す道を選んだが2年間留守にしていた代償は大きかった。「ズタボロになって帰って来て、シード権もないみじめな生活」を送っていた時、米ツアーを共に戦った中島常幸が所属先のミズノに掛け合ってくれ、推薦出場を果たしたミズノトーナメントで優勝。シーズン終盤のエリートトーナメント・日本シリーズの出場権も獲得したのだ。
どん底から復活して、初出場となった日本シリーズの最終日18ホール。順位はトータル4アンダーの4位タイ。首位を行く中島常幸との差は7打もあり、一緒に回るジャンボもマーシュも、青木が言う通りはるかに格上のベテラン。大町は青木から受けた「自分のゴルフでガンガン行くしかない」というアドバイスに徹することを心に決めてスタートした。
するとどうだ、スタートホールの1番、大町のショットはジャンボの到達地点にわずか10ヤードのところまで迫る。「いつもは30ヤードくらい置いて行かれるのに、今日は俺も当たってるな」と好調を確信した大町は、上りの残り135ヤードを9番アイアンで30センチにつけるスーパーショット。これを見て10ヤード先で第2打を、PWで打ったジャンボがまさかの大ダフリを演じるのだ。
グリーンに向かいながらジャンボが大町に話しかける。「お前がすごい球打つから、俺がダフッてしまったじゃないか」。実は尾崎も、初優勝してしばらくたった頃、大町にアドバイスを贈っていた。「お前はそんなに飛ばないけど、グリップはいいから、基本を大事にしろ」。
無敵の勢いを誇ったジャンボがまさかのボギー発進。一方、朝一番でバーディを奪った大町は、午前中勝負だ。朝から行くしかない」とさらにギアを1段上げる。
4番のパー5は完璧なドライバーショットから残り約220ヤードを5番ウッドで見事2オン。上りの5メートル、最後にスライスするラインを読み切り1発で沈めて、イーグル奪取に成功した。さらに6番のパー5もドライバー、3番ウッドでグリーン左手前まで運び、右手前2メートルにつけ1パットのバーディ。続く7番のパー4もドライバー、8番アイアンとつないで右2.5メートルにパーオン。このパットも沈めて連続バーディ。パットの好調を支えていたのは、前週のカシオワールドで一緒に回った時に見た青木と渡辺司のパッティング。
「一緒に回っている先輩たちは、強気にコンコン打っていた。それを見て、『上位に行く人は、強気に打っているんだな』と先輩方からヒントをいただいた。それで自分も強気に打って行こうと決めていたんです」。“前半勝負”と“強気のパット”。心に決めた作戦がズバリとはまり、アウトを「31」で折り返した。
トータル9アンダーまでスコアを伸ばした大町。しかし、10番のティイングエリアで、見てはいけないものを見てしまった。7アンダーの単独2位からスタートした友利勝良がチャージをかけ、トータル11アンダーまでスコアを伸ばしていたことを、隣にある18番のリーダーボードを見て知ってしまうのだ。
大町の精神状態に、変化が生じた。「まだ俺、負けてるじゃん」と自覚すると、10番で2段グリーンの手前の段、10メートルから「狙いすぎて」3パット。ついにボギーが出てしまった。
13番まで小康状態が続くが、まだまだ強気は失っていなかった。14番は下りのスライス、15番は上りのともに2.5メートルを1発で沈めて連続バーディ。トータル10アンダーで単独トップに立ち、上がり3ホールへと突入した。
「アメリカのいい環境で練習もできて、いろんな経験をして、いつかはラッキーな日が来ると思ってやってきた」大町に、隙はなかった。「1打差くらいだろうから、ボードを見ないで全力でやろう」と心に決め、16、17番とパーで切り抜け難関の18番へと向かう。この時ようやく見上げたボードには、一番上に自分の名前が。2位の中嶋、友利との差は2ストロークに離れていた。
18番のピンの位置は「恒例の右手前。『ボギーは絶対ダメだな、パーでいい』と心に決めた5番ウッドのティショットは、右手前にキックしてグリーンをショート。アプローチを1メートルに付けてパーをセーブ。2ストロークの差を守り切った。
復活したシーズンの有終の美を飾る優勝劇の持つ価値を、大町はこんな言葉で表現した。
「青木さんが解説していて、ジャンボさんとラウンドして、中嶋さんを逆転することができた日本シリーズだった。本当にこの3人には、大きな影響を受けましたから」。
「心を強く持て」と励ましてくれた師匠の青木、「基本を大事にしろ」とアドバイスをくれたジャンボ、「米ツアーではたまにごちそうになったり、いろんなことを教えてもらったりした」上、日本シリーズ出場への道を開くことになったミズノオープンの推薦獲得に尽力してくれたのも中嶋だった。そのAONに“恩返し”をした形になったのが、1989年の日本シリーズにおける優勝劇だった。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)