真夏の埼玉・鳩山CC。サドンデスプレーオフは、すでに3ホール目に持ち越されていた。「これを外したら、チャンスは2度とこない」。そう心に決めた、3メートルのウイニングパット。西川哲は、ゆっくりとアドレスに入った――。
有名芸能プロダクション社長の父・西川幸男氏(故人)と人気女優の五月みどり、兄は「新聞少年」という大ヒット曲を持つ紅白出場歌手・山田太郎という華麗なる芸能一家に生まれた西川だが、この瞬間に至るまでの道のりは、苦難に満ちたものだった。
1歳で両親が離婚。シングルプレーヤーだった父と兄に連れられ8歳でゴルフを始めた息子に、父は毎日2時間の打ち込みを課した。雨が降っても40度の熱があっても休むことは許されなかった。
その甲斐あって中学2年で初めて出場した日本ジュニアで3位に食い込む。ここで1学年上の伊澤利光と知り合い、後を追うように日体荏原高校に進学。1年下に丸山茂樹が入り当時最強の布陣が出来上がった。
高校3年で日本ジュニアを制し、父が開いてくれた祝賀パーティーの席上、1歳の時に生き別れた母・五月みどりとの再会を果たした。だが喜びもつかの間、またもや大きな試練が降りかかる。父が敷いてくれた日体大進学のレールには乗らず、西川はプロゴルファーへの道を歩む。その決断を、父は許さなかった。
高校3年の11月。再度自らの気持ちを伝えた時、父の表情が変わった。首根っこをつかまれ玄関まで引きずられ、殴られ蹴られ、そのまま外に出された。「親の言うことを聞けない奴は、もう2度と家に帰ってくるな」。
そのまま、家を出た。ゴルフ部の監督宅に2週間世話になった後、友達の家を転々とした。2学期の残りは築地市場で、時給1200円のバイトで食いつないだ。姉が紹介してくれた不動産屋の社長に現状を明かしたところ「こんなことをしていたら体を壊すから」と新築の分譲マンションに住むことを許された。
ようやく4月になり埼玉・鳩山カントリークラブでの生活が始まった。当時の鳩山は研修生を20人も抱える大所帯。「朝6時から午後7時まで、ひたすら働いて1日1000円。キャディをやっても1600円」。そんな苦しい生活にも耐え、実力を蓄えた。
1988年、伊豆下田カントリークラブで行われた春季プロテストはまさに背水の陣。「鳩山に戻りたくない」という強い思いとともに「これでだめだったらゴルフをやめる」と退路を断って、見事トップ合格を果たす。東松山CCで行われたマルマンオープンは優勝した尾崎将司を始めアンダーパーが5人しかいない状況の中、最終日「65」をマークしてルーキーながら2アンダーの4位に入っている。
しかし89年、90年と予選会に失敗し、ツアー出場の道を閉ざされる。ようやくグローイングツアー(現ABEMAツアー)に2戦2勝、後援競技の千葉オープンにも勝ち“裏シード”を獲得。青木功とは、中3の時にツアーの練習ラウンドに同伴し、高2時にはハワイ合宿にも参加させてもらうなど、かわいがられていた。そうした経緯もあり、自然な流れで青木ファミリー入りしてツアーを転戦することになる。
だが“裏シード”で臨んだシーズンは苦難に満ちたものとなった。「気合ばかりが空回り」して7試合で予選落ち、トップ10入りは賞金ランク対象外のサンコーグランドサマーの9位タイのみという苦しい日々が続く。
後半戦に差し掛かろうとしていた8月下旬。高校を卒業してすぐ、苦しい研修生時代を送った思い出のコース、鳩山CCに帰ってきた。3年前に4位に入った「マルマンオープン」の舞台が、東松山からここに移っていたからだ。前年は当時最強の名を欲しいままにしていたジャンボ尾崎が優勝を飾っていた。
決して調子がいいとは言えなかったが、隅から隅まで知り尽くしている鳩山をラウンドする西川の心境に、ある変化が起こっていた。「良く知っているコースだし、チマチマやっていても、仕方がないんじゃないかとフッ切れた」。
普通に回っても「65から68では回れる」と得意意識もあった。それを証明するように、初日は「68」。首位の中川敏明に1打差の2位と、上々の滑り出しに成功した。大会にはマルマン契約選手としてマスターズで優勝を飾ったばかりのイアン・ウーズナムも出場しており、2日目には「66」を叩き出す。中川、金子柱憲、上出裕也らとともに7アンダーで首位を並走。西川も1打差の5位タイに食らいつき、決勝ラウンドへと突入する。
3日目、西川がついに爆発した。前半のアウトを6バーディ、ノーボギーの30で回る猛チャージに成功し、難しいインも36にまとめて「66」をマーク。トータル12アンダーで単独首位に立った。2位には1打差で金子柱憲がつけ、3位には2日目、3日目と「66」でプレーしているジェットこと尾崎健夫がつけた。
単独首位で迎える最終日の前夜。西川は「仲の良かった鳩山のキャディさんと、そのお子さんたち」と和やかに食事をして過ごした後、緊張感に悩まされることもなく眠りに落ちた。翌日、序盤から仕掛けてきたのがジェット尾崎。1、3、5番とバーディを奪い、トータル13アンダーで西川に並んだ。
バックナインに入る時、西川とジェットが12アンダー、金子11アンダーと三つ巴の様相。13、14番と連続バーディを奪ったジェットが14アンダーで頭一つ抜け出したが、西川は「1打差圏内にいれば何とかなる」と落ち着いて13番でバーディを奪い、ピタリと追走する。終盤に入り、ジェットが16番で痛恨のボギー。逆に西川が17番でバーディを奪い、単独首位で最終18番のパー5を迎えた。
ここでジェットが、かつて米ツアーでドライビングディスタンス部門第1位に君臨した圧倒的なパワーを炸裂させる。西川を30ヤードもアウトドライブし、楽々バーディ。パーに終わった西川との、プレーオフへと持ち込んだ。
だがこの時、西川は動揺しなかった。「みんな届かないパー5なのに、ジェットさんだけは楽に届く。だから自分がバーディを取らない限り、プレーオフにはなるだろうと思っていた」と落ち着いてプレーオフに向かった。
プレーオフ最初の3ホールは18―17―18の順で行われることが決まっていた。「完全に自分が不利だと思いました。パーシモンで糸巻きの時代で自分も飛ばすコツをつかんでいて良く飛ぶ方だった。でもジェットさんだけはめちゃくちゃ飛んでいましたからね」。
絶対不利の立場で臨んだ番外戦。18番はジェットがティショットでラフに入れ、2人とも池の手前に刻みともにバーディが取れずパー。17番はお互いに3メートルを決めてバーディ。互いに譲らず、3ホール目の18番を迎えることになる。
西川の回想。「まずジェットさんがすごいドライバーを打って行った。もう楽に2オンができるポジションに落としていた。僕は残り240ヤードでギリギリなのは分かっていた。フックでいかないと越えないので、右から狙って行ったんです。それでギリギリ、越えたんですよ」。
当時のテレビ中継では、西川のセカンドショットをカメラは追い切れなかった。カメラマンの想像をはるかに超えるフックボールだったため、画面からボールが消えてしまったという。
グリーンにこそ届かなかったものの、アプローチは寄せやすい絶好のポジションを、西川はキープした。そこでジェットにまさかのミスが出る。2打目を大きく左に曲げ、グリーンを外してしまった。
ジェットの位置からはマウンド越えの難しいアプローチ。ピンを狙ったショットは寄せきれず、グリーンを横切りオーバーしてしまう。西川はここで約30ヤードのアプローチを手前3メートルにピタリと寄せる。3オンにも失敗したジェットは、パーに終わってしまった。
「プレーオフはその後、ずーっと18番だと聞かされていた」西川は、飛ばし屋相手に勝負の時であることを悟っていた。先に上がっていた師匠・青木も見守る中、ゆっくりとラインに乗ったボールは西川の思いに押されるかのように、カップへと消えた。
弱冠23歳、ツアー未勝利の若手が、日本プロ2勝を含む14勝の37歳・尾崎健夫を破る大番狂わせを演じた瞬間。それは長い長い苦難の道のりに、別れを告げた瞬間でもあった。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
有名芸能プロダクション社長の父・西川幸男氏(故人)と人気女優の五月みどり、兄は「新聞少年」という大ヒット曲を持つ紅白出場歌手・山田太郎という華麗なる芸能一家に生まれた西川だが、この瞬間に至るまでの道のりは、苦難に満ちたものだった。
1歳で両親が離婚。シングルプレーヤーだった父と兄に連れられ8歳でゴルフを始めた息子に、父は毎日2時間の打ち込みを課した。雨が降っても40度の熱があっても休むことは許されなかった。
その甲斐あって中学2年で初めて出場した日本ジュニアで3位に食い込む。ここで1学年上の伊澤利光と知り合い、後を追うように日体荏原高校に進学。1年下に丸山茂樹が入り当時最強の布陣が出来上がった。
高校3年で日本ジュニアを制し、父が開いてくれた祝賀パーティーの席上、1歳の時に生き別れた母・五月みどりとの再会を果たした。だが喜びもつかの間、またもや大きな試練が降りかかる。父が敷いてくれた日体大進学のレールには乗らず、西川はプロゴルファーへの道を歩む。その決断を、父は許さなかった。
高校3年の11月。再度自らの気持ちを伝えた時、父の表情が変わった。首根っこをつかまれ玄関まで引きずられ、殴られ蹴られ、そのまま外に出された。「親の言うことを聞けない奴は、もう2度と家に帰ってくるな」。
そのまま、家を出た。ゴルフ部の監督宅に2週間世話になった後、友達の家を転々とした。2学期の残りは築地市場で、時給1200円のバイトで食いつないだ。姉が紹介してくれた不動産屋の社長に現状を明かしたところ「こんなことをしていたら体を壊すから」と新築の分譲マンションに住むことを許された。
ようやく4月になり埼玉・鳩山カントリークラブでの生活が始まった。当時の鳩山は研修生を20人も抱える大所帯。「朝6時から午後7時まで、ひたすら働いて1日1000円。キャディをやっても1600円」。そんな苦しい生活にも耐え、実力を蓄えた。
1988年、伊豆下田カントリークラブで行われた春季プロテストはまさに背水の陣。「鳩山に戻りたくない」という強い思いとともに「これでだめだったらゴルフをやめる」と退路を断って、見事トップ合格を果たす。東松山CCで行われたマルマンオープンは優勝した尾崎将司を始めアンダーパーが5人しかいない状況の中、最終日「65」をマークしてルーキーながら2アンダーの4位に入っている。
しかし89年、90年と予選会に失敗し、ツアー出場の道を閉ざされる。ようやくグローイングツアー(現ABEMAツアー)に2戦2勝、後援競技の千葉オープンにも勝ち“裏シード”を獲得。青木功とは、中3の時にツアーの練習ラウンドに同伴し、高2時にはハワイ合宿にも参加させてもらうなど、かわいがられていた。そうした経緯もあり、自然な流れで青木ファミリー入りしてツアーを転戦することになる。
だが“裏シード”で臨んだシーズンは苦難に満ちたものとなった。「気合ばかりが空回り」して7試合で予選落ち、トップ10入りは賞金ランク対象外のサンコーグランドサマーの9位タイのみという苦しい日々が続く。
後半戦に差し掛かろうとしていた8月下旬。高校を卒業してすぐ、苦しい研修生時代を送った思い出のコース、鳩山CCに帰ってきた。3年前に4位に入った「マルマンオープン」の舞台が、東松山からここに移っていたからだ。前年は当時最強の名を欲しいままにしていたジャンボ尾崎が優勝を飾っていた。
決して調子がいいとは言えなかったが、隅から隅まで知り尽くしている鳩山をラウンドする西川の心境に、ある変化が起こっていた。「良く知っているコースだし、チマチマやっていても、仕方がないんじゃないかとフッ切れた」。
普通に回っても「65から68では回れる」と得意意識もあった。それを証明するように、初日は「68」。首位の中川敏明に1打差の2位と、上々の滑り出しに成功した。大会にはマルマン契約選手としてマスターズで優勝を飾ったばかりのイアン・ウーズナムも出場しており、2日目には「66」を叩き出す。中川、金子柱憲、上出裕也らとともに7アンダーで首位を並走。西川も1打差の5位タイに食らいつき、決勝ラウンドへと突入する。
3日目、西川がついに爆発した。前半のアウトを6バーディ、ノーボギーの30で回る猛チャージに成功し、難しいインも36にまとめて「66」をマーク。トータル12アンダーで単独首位に立った。2位には1打差で金子柱憲がつけ、3位には2日目、3日目と「66」でプレーしているジェットこと尾崎健夫がつけた。
単独首位で迎える最終日の前夜。西川は「仲の良かった鳩山のキャディさんと、そのお子さんたち」と和やかに食事をして過ごした後、緊張感に悩まされることもなく眠りに落ちた。翌日、序盤から仕掛けてきたのがジェット尾崎。1、3、5番とバーディを奪い、トータル13アンダーで西川に並んだ。
バックナインに入る時、西川とジェットが12アンダー、金子11アンダーと三つ巴の様相。13、14番と連続バーディを奪ったジェットが14アンダーで頭一つ抜け出したが、西川は「1打差圏内にいれば何とかなる」と落ち着いて13番でバーディを奪い、ピタリと追走する。終盤に入り、ジェットが16番で痛恨のボギー。逆に西川が17番でバーディを奪い、単独首位で最終18番のパー5を迎えた。
ここでジェットが、かつて米ツアーでドライビングディスタンス部門第1位に君臨した圧倒的なパワーを炸裂させる。西川を30ヤードもアウトドライブし、楽々バーディ。パーに終わった西川との、プレーオフへと持ち込んだ。
だがこの時、西川は動揺しなかった。「みんな届かないパー5なのに、ジェットさんだけは楽に届く。だから自分がバーディを取らない限り、プレーオフにはなるだろうと思っていた」と落ち着いてプレーオフに向かった。
プレーオフ最初の3ホールは18―17―18の順で行われることが決まっていた。「完全に自分が不利だと思いました。パーシモンで糸巻きの時代で自分も飛ばすコツをつかんでいて良く飛ぶ方だった。でもジェットさんだけはめちゃくちゃ飛んでいましたからね」。
絶対不利の立場で臨んだ番外戦。18番はジェットがティショットでラフに入れ、2人とも池の手前に刻みともにバーディが取れずパー。17番はお互いに3メートルを決めてバーディ。互いに譲らず、3ホール目の18番を迎えることになる。
西川の回想。「まずジェットさんがすごいドライバーを打って行った。もう楽に2オンができるポジションに落としていた。僕は残り240ヤードでギリギリなのは分かっていた。フックでいかないと越えないので、右から狙って行ったんです。それでギリギリ、越えたんですよ」。
当時のテレビ中継では、西川のセカンドショットをカメラは追い切れなかった。カメラマンの想像をはるかに超えるフックボールだったため、画面からボールが消えてしまったという。
グリーンにこそ届かなかったものの、アプローチは寄せやすい絶好のポジションを、西川はキープした。そこでジェットにまさかのミスが出る。2打目を大きく左に曲げ、グリーンを外してしまった。
ジェットの位置からはマウンド越えの難しいアプローチ。ピンを狙ったショットは寄せきれず、グリーンを横切りオーバーしてしまう。西川はここで約30ヤードのアプローチを手前3メートルにピタリと寄せる。3オンにも失敗したジェットは、パーに終わってしまった。
「プレーオフはその後、ずーっと18番だと聞かされていた」西川は、飛ばし屋相手に勝負の時であることを悟っていた。先に上がっていた師匠・青木も見守る中、ゆっくりとラインに乗ったボールは西川の思いに押されるかのように、カップへと消えた。
弱冠23歳、ツアー未勝利の若手が、日本プロ2勝を含む14勝の37歳・尾崎健夫を破る大番狂わせを演じた瞬間。それは長い長い苦難の道のりに、別れを告げた瞬間でもあった。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)