2007年7月1日、日曜日の昼下がり。星野英正は、病院のベッドに横たわったまま、腫れあがった眼をテレビ画面に向けていた。画面に大写しになっていたのは、優勝を目前にした片山晋呉の姿。ツアープレーヤーナンバー1の称号を争う公式戦、日本ゴルフツアー選手権は、最終日の大詰めを迎えていた。
原因不明の眼の腫れに襲われ、3週間の緊急入院。星野はシーズン真っただ中でありながら、無念の戦線離脱を余儀なくされていた。
アレルギー症状の悪化が疑われたが、病名は不明のままだった。しかし実際には、もっと深刻な事態が水面下で進行していた。その後も長年にわたる苦しめられる難病の兆候は、この時、すでに起きていた。
星野はこの時点まで2003年の中日クラウンズ、2006年のコカ・コーラ東海クラシックの2勝を挙げていたが、周囲の目は「もっとやれるはず」と常に厳しかった。星野のアマチュア時代の戦績が、あまりに輝いていたからだ。
球技が好きでサッカーをしていた星野がゴルフに集中するようになったのは中学時代。父は厳しく、凄まじいスパルタ教育を星野に施した。下校直後に12畳の自分の部屋で買い物かご2杯分のボールを打たされた。反抗的なそぶりを見せた時、いきなり投げ飛ばされ、背中をこぶしで思い切り殴られたこともあったという。「その1発で『死んだ』と思った。息が出来なくなって、声も出なかった」と打ち明けている。
恐怖を常に抱えながら練習する一方で、上達のスピードは恐ろしく速かった。中学2年の段階で、あっさり70台を連発。1991年の日本ジュニアで11位、翌年2位に食い込むなど「みちのくの怪童」の異名をとるようになる。
仙台育英高に進むと、チームメイトらと充実した日々を過ごせるようになった。コーチは練習場を経営している岩田寛の父。東北アマは高校1年で優勝後、5連覇という大記録を打ち立てる。
東北福祉大進学後は連覇を含む日本アマチュア選手権3勝、日本学生選手権2勝、日本オープンローアマ、アジア大会団体V、東北アマ5連覇…。常勝日大ゴルフ部に土をつけた立役者はもちろん星野。その後、谷原秀人、宮里優作、池田勇太、松山英樹、金谷拓実らが引き継いでいく東北福祉大黄金時代の起点が星野なのは、誰もが認めるところだ。
アマ52冠という圧倒的な実績を手に、鳴り物入りのプロ転向。プロ入り後の活躍も当然のことながら期待されていた。だが、実際のところ、体調はデビュー前から万全な状態とは程遠かった。
ちょうど40歳になった時、筆者は星野にロングインタビューをする機会があった。その時、星野はデビュー当時の頃の状態を遠い目をしてこう振り返っている。
「すでに中学の時から腰が痛くて針を打ったこともある。プロ入り直後に出てきたのも腰痛だった」
2000年のデビュー戦から5試合の予選落ちは、周囲の期待に押しつぶされた格好だった。
デビュー直前にフライデーからの取材を断ったところ「デビュー戦で予選落ちの記事で3頁、叩かれた」経験もあった。その後の人生は、度重なる体調の悪化によって翻弄され続けることになる。
「調べたら、ヘルニアになる直前といわれて、ハリだけじゃなくトレーニングや電気治療など、いろいろやりました」
故障に悩まされ続けた末の、原因不明の体調不良。シーズン真っ盛りでありながら、無念の戦線離脱だったわけだが、その翌年の同時期、星野の体調は劇的に回復した。ちょうど1年後の、2008年6月に、ゴルフ人生でもまれにみる絶好調の波が訪れた。
東廣野GCで行われた三菱ダイヤモンドカップ。星野は初日、7バーディ、1ボギーの「65」で回り、6アンダーの単独首位に立つ。3日目まで安定したゴルフで首位を快走した。最終日はパープレーの「71」とスコアを伸ばせず惜しくも1打差の2位に終わったが、久々の好成績の原因は、心技体ともに万全の状態を維持できていたからだった。
翌週のミズノオープンも6位タイでフィニッシュし、迎えたツアー選手権。前年、病院のテレビで見ていた試合で、星野は初日「70」の好スタートを切った。「宍戸は嫌なホールというのがないんです。ティに立って嫌な感じがない。元々ドライバーが好きで得意なので、刻むということをしない方です。この大会では、本当にドライバーが曲がらなかった」
2日目はスコアを伸ばすべきアウトを「31」。7アンダーで首位を行く久保谷健一に1打差の2位にピタリとつけている。
3日目に「66」を叩き出し、トータル11アンダーで2位の岩田寛と久保谷に3打差単独首位に立つ。「何もかもが安定していて、崩れる気がしなかった」最終日も隙のないゴルフでホールを重ねて行った。
「難しいコースだから、他のことを考えている暇がなかったんだと思う。もちろん、ゴルフの調子も、体調も悪くなかったから集中できた。もしどこかが悪かったら、ああでもない、こうでもないと修正しなくちゃいけないけど、それがなかったから、コースのことだけを考えられたともいえるけど」
中学時代からのゴルフ人生で、ごくごくまれな「万全な態勢で試合に臨めた」状況が生んだ快進撃。ドライバーは、難所宍戸のフェアウェイをことごとくとらえ続け、そこからグリーンを苦も無くとらえる完璧なプレーが続いていた。「自分でもボギーを打つ気がしなかった。だから周りは、バーディを取らないと、という雰囲気になっていったんだと思う」。
最終日は「集中しているうちに、周りが段々いなくなっていく」展開で、星野が最終18番ティーに立った時、2位との差は実に6ストロークになっていた。1年前にはベッドに寝ているしかなかった男は、自信たっぷりに最後のティショットをフェアウェイに運んだ。
「フェアウェイの真ん中にある木がかぶっていて、上は越えられない。それでピンの左からスライスをかけて行こうと思った。9番アイアンでコントロールしようと思って打ったんです。試しにね。ショートアイアンで大きく曲げることは難しいんで、ギリギリを狙って行ったら、すこし右に飛び出して木に当たってしまった」。
2打目はグリーン手前のバンカーの、さらに手前の深いラフに落ちたが、星野が動揺することはなかった。「アプローチはグリーンをショートして、次のアプローチも寄せられず、2メートル残った。それが入ってボギー。まあ、慌てはしなかったですね」。
体調さえ万全であれば、圧倒的な強さを発揮できる男が星野英正。それを改めて認識させる5打差のぶっちぎり優勝だった。
しかしその後も体調不良に悩まされ、星野に優勝は訪れていない。ようやく昨年暮れ、星野を悩ませ続けた病は、難病に指定されているIgG4疾患であることが判明した。
「3軒の病院をぐるぐる回って、ようやく病名が分かったんです。アレルギー反応の強い症状が現れて、目の周りが腫れちゃう、原因不明の難病。眼球を圧迫しているから、目が飛び出ているって言われて…。腫れを引かせるにはステロイドを使うしかない。リンパ腫に使う抗がん剤もね。でもそれを使うと筋肉が落ちちゃうんで、今は我慢して、ステロイドもやめています。ゴルフをやめてもいいってなれば、ステロイドを使うけど…。それをやったら、2年後3年後には完全に筋肉は落ちちゃうから、できるだけそれはしたくないなと、今は我慢してるんです」
5年後にはシニア入りも控えている星野。難病克服に、もちろん希望は捨てていない。かつての名勝負のような鮮やかな勝ちっぷりも、その延長線上にある。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
原因不明の眼の腫れに襲われ、3週間の緊急入院。星野はシーズン真っただ中でありながら、無念の戦線離脱を余儀なくされていた。
アレルギー症状の悪化が疑われたが、病名は不明のままだった。しかし実際には、もっと深刻な事態が水面下で進行していた。その後も長年にわたる苦しめられる難病の兆候は、この時、すでに起きていた。
星野はこの時点まで2003年の中日クラウンズ、2006年のコカ・コーラ東海クラシックの2勝を挙げていたが、周囲の目は「もっとやれるはず」と常に厳しかった。星野のアマチュア時代の戦績が、あまりに輝いていたからだ。
球技が好きでサッカーをしていた星野がゴルフに集中するようになったのは中学時代。父は厳しく、凄まじいスパルタ教育を星野に施した。下校直後に12畳の自分の部屋で買い物かご2杯分のボールを打たされた。反抗的なそぶりを見せた時、いきなり投げ飛ばされ、背中をこぶしで思い切り殴られたこともあったという。「その1発で『死んだ』と思った。息が出来なくなって、声も出なかった」と打ち明けている。
恐怖を常に抱えながら練習する一方で、上達のスピードは恐ろしく速かった。中学2年の段階で、あっさり70台を連発。1991年の日本ジュニアで11位、翌年2位に食い込むなど「みちのくの怪童」の異名をとるようになる。
仙台育英高に進むと、チームメイトらと充実した日々を過ごせるようになった。コーチは練習場を経営している岩田寛の父。東北アマは高校1年で優勝後、5連覇という大記録を打ち立てる。
東北福祉大進学後は連覇を含む日本アマチュア選手権3勝、日本学生選手権2勝、日本オープンローアマ、アジア大会団体V、東北アマ5連覇…。常勝日大ゴルフ部に土をつけた立役者はもちろん星野。その後、谷原秀人、宮里優作、池田勇太、松山英樹、金谷拓実らが引き継いでいく東北福祉大黄金時代の起点が星野なのは、誰もが認めるところだ。
アマ52冠という圧倒的な実績を手に、鳴り物入りのプロ転向。プロ入り後の活躍も当然のことながら期待されていた。だが、実際のところ、体調はデビュー前から万全な状態とは程遠かった。
ちょうど40歳になった時、筆者は星野にロングインタビューをする機会があった。その時、星野はデビュー当時の頃の状態を遠い目をしてこう振り返っている。
「すでに中学の時から腰が痛くて針を打ったこともある。プロ入り直後に出てきたのも腰痛だった」
2000年のデビュー戦から5試合の予選落ちは、周囲の期待に押しつぶされた格好だった。
デビュー直前にフライデーからの取材を断ったところ「デビュー戦で予選落ちの記事で3頁、叩かれた」経験もあった。その後の人生は、度重なる体調の悪化によって翻弄され続けることになる。
「調べたら、ヘルニアになる直前といわれて、ハリだけじゃなくトレーニングや電気治療など、いろいろやりました」
故障に悩まされ続けた末の、原因不明の体調不良。シーズン真っ盛りでありながら、無念の戦線離脱だったわけだが、その翌年の同時期、星野の体調は劇的に回復した。ちょうど1年後の、2008年6月に、ゴルフ人生でもまれにみる絶好調の波が訪れた。
東廣野GCで行われた三菱ダイヤモンドカップ。星野は初日、7バーディ、1ボギーの「65」で回り、6アンダーの単独首位に立つ。3日目まで安定したゴルフで首位を快走した。最終日はパープレーの「71」とスコアを伸ばせず惜しくも1打差の2位に終わったが、久々の好成績の原因は、心技体ともに万全の状態を維持できていたからだった。
翌週のミズノオープンも6位タイでフィニッシュし、迎えたツアー選手権。前年、病院のテレビで見ていた試合で、星野は初日「70」の好スタートを切った。「宍戸は嫌なホールというのがないんです。ティに立って嫌な感じがない。元々ドライバーが好きで得意なので、刻むということをしない方です。この大会では、本当にドライバーが曲がらなかった」
2日目はスコアを伸ばすべきアウトを「31」。7アンダーで首位を行く久保谷健一に1打差の2位にピタリとつけている。
3日目に「66」を叩き出し、トータル11アンダーで2位の岩田寛と久保谷に3打差単独首位に立つ。「何もかもが安定していて、崩れる気がしなかった」最終日も隙のないゴルフでホールを重ねて行った。
「難しいコースだから、他のことを考えている暇がなかったんだと思う。もちろん、ゴルフの調子も、体調も悪くなかったから集中できた。もしどこかが悪かったら、ああでもない、こうでもないと修正しなくちゃいけないけど、それがなかったから、コースのことだけを考えられたともいえるけど」
中学時代からのゴルフ人生で、ごくごくまれな「万全な態勢で試合に臨めた」状況が生んだ快進撃。ドライバーは、難所宍戸のフェアウェイをことごとくとらえ続け、そこからグリーンを苦も無くとらえる完璧なプレーが続いていた。「自分でもボギーを打つ気がしなかった。だから周りは、バーディを取らないと、という雰囲気になっていったんだと思う」。
最終日は「集中しているうちに、周りが段々いなくなっていく」展開で、星野が最終18番ティーに立った時、2位との差は実に6ストロークになっていた。1年前にはベッドに寝ているしかなかった男は、自信たっぷりに最後のティショットをフェアウェイに運んだ。
「フェアウェイの真ん中にある木がかぶっていて、上は越えられない。それでピンの左からスライスをかけて行こうと思った。9番アイアンでコントロールしようと思って打ったんです。試しにね。ショートアイアンで大きく曲げることは難しいんで、ギリギリを狙って行ったら、すこし右に飛び出して木に当たってしまった」。
2打目はグリーン手前のバンカーの、さらに手前の深いラフに落ちたが、星野が動揺することはなかった。「アプローチはグリーンをショートして、次のアプローチも寄せられず、2メートル残った。それが入ってボギー。まあ、慌てはしなかったですね」。
体調さえ万全であれば、圧倒的な強さを発揮できる男が星野英正。それを改めて認識させる5打差のぶっちぎり優勝だった。
しかしその後も体調不良に悩まされ、星野に優勝は訪れていない。ようやく昨年暮れ、星野を悩ませ続けた病は、難病に指定されているIgG4疾患であることが判明した。
「3軒の病院をぐるぐる回って、ようやく病名が分かったんです。アレルギー反応の強い症状が現れて、目の周りが腫れちゃう、原因不明の難病。眼球を圧迫しているから、目が飛び出ているって言われて…。腫れを引かせるにはステロイドを使うしかない。リンパ腫に使う抗がん剤もね。でもそれを使うと筋肉が落ちちゃうんで、今は我慢して、ステロイドもやめています。ゴルフをやめてもいいってなれば、ステロイドを使うけど…。それをやったら、2年後3年後には完全に筋肉は落ちちゃうから、できるだけそれはしたくないなと、今は我慢してるんです」
5年後にはシニア入りも控えている星野。難病克服に、もちろん希望は捨てていない。かつての名勝負のような鮮やかな勝ちっぷりも、その延長線上にある。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)