革新的な新兵器が登場した時、誰よりも早くそれを自分のものにすれば、優位に立てる。1982年10月の謝敏男は、その鉄則をまさに地で行った。
その手に握られていたのは、ダンロップのDDH。新登場のツーピースボールだった。謝にとっては、これがライバルたちを蹴散らす、最大の武器となる。
10月7日――。愛知・三好カントリー倶楽部でその快進撃は始まった。海外からの招待選手が参戦する日本プロゴルフツアー「秋の陣」、まっただなかのことだった。東海クラシックの初日、主役となったのが、台湾の実力者・謝だった。コースレコードの「64」を叩き出し、2位の島田幸作に2打差をつけて単独トップに立った。
ロケットスタートの原動力となったのは、ツーピースボール。メーカーの開発競争が激化し、それまで全盛だった糸巻きボールから、高反発コアと高性能特殊カバーの開発により、飛距離を一気に伸ばすことに成功した。
しかしこのボールには欠点もあった。打感が固く、スピンがかかりにくいのだ。「アイアンで狙って行ったボールがグリーン上で止まらない」とか「スピンをかけて寄せることができない」などの理由から、試合での使用を見合わせるプロが多かった。
だが、謝は違った。「元々僕は、ランを使って寄せていくタイプ。計算がしやすかった」こともあり、積極的にツーピースを使った。
そのボールは、大きなアドバンテージをもたらした。「42(歳)になって飛距離が落ちたのが当時の悩みだった。ところがツーピースを使うようになって飛距離が20ヤードも伸びたんだ」。
それは7番のパー5で顕著だった。それまで常に20ヤード程度グリーンをショートしていた謝が、2オンに成功したのだ。「ゴルフがすごく楽になった」と、4連続バーディなどで、他の選手を寄せ付けない快進撃を演じた。
謝は若い時から注目を浴び、すでに輝かしい実績も残していた。1964年にローマで行われた世界アマを制し、翌65年にプロ転向。67年に来日すると翌68年の関東オープンで国内初勝利を挙げていた。72年にオーストラリアで行われたワールドカップでは呂良煥と組み、個人・団体Vの偉業も成し遂げる。79年には浅見CCで行われた日本プロゴルフ選手権も制し、国内だけで11勝も挙げていた。
悩みは年齢とともに落ちてきたパワーのみ、という状態だった謝が、若い時の飛距離を取り戻してしまったのだから手が付けられない。2日目を手堅いゴルフで「71」にまとめると、3日目は1イーグル・1バーディ・3ボギーの「72」。この日「68」で回った陳志明に並ばれたものの、首位タイに踏ん張った。
最終日は2番、3番と連続してバーディを奪取。トータル14アンダーまでスコアを伸ばし、前年の全米プロ王者ラリー・ネルソンに5打差をつけるぶっちぎりで、4日間首位を走り切る完全優勝を飾ってしまった。
翌週は愛知から静岡・東名カントリークラブへと戦いの場を移してのゴルフダイジェストトーナメント。地元沼津に住んでいた謝は、前週の初日と同じく「64」をマーク。2位の矢部昭に5打差をつけ、前週から5ラウンド連続となる首位に座った。
2日目も、謝にはまったくスキが見られない。前半からずっとパーを重ねていき、上がりの17、18番で連続バーディ。ただ一人二ケタに乗せる10アンダーで首位を守った。
3日目は、周囲も口あんぐりの快進撃となる。ボギーなしの7バーディ、「65」の快スコアでトータル17アンダーまでスコアを伸ばす。2位には米国の強豪ブルース・リツキ―と新井規矩雄が付けるが、その差は8まで開いていた。
異次元のゴルフを続けていた謝も人の子。ボギーが先行すると終盤ももたつき、矢部の猛追を許し、差は一気に1まで詰まった。「75」を叩きながらも大量リードが最後に生きて、1打差の14アンダーで辛くも逃げ切った。これで8日間連続トップ。2週連続優勝の快挙達成だ。謝はどこまで突っ走るのか。翌週、千葉の袖ヶ浦カンツリー倶楽部袖ヶ浦コースで行われるブリヂストントーナメントに、ファンの注目が集まることとなった。
奇跡が、起ころうとしていた。謝の勢いは、袖ヶ浦に来ても止まらなかった。前週、前々週の初日と同様、いきなりの「64」で他を圧倒する。1イーグル、8バーディ、1ボギーの内容は、まさに神がかりとしかいいようがない。2位には「恐怖のトム」の異名を持つ米ツアーの強豪トム・ワイスコフらがつけたが、すでに4打もつけられ、置いて行かれないようにするのが必死という状況になっていた。
2日目も70にまとめ、これで10日連続の首位に立った謝に、緊張の色が見え始める。当時を振り返って、謝はこう言った。
「毎日インタビュールームでしょ?3週目になるとさすがに緊張して来て、夜もよく眠れなくなってきた。夜中に何度も起きてしまってね」
かつて帝王ジャック・ニクラウスと謝のみしか成し遂げていない世界アマ、ワールドカップの2冠を手にした42歳のベテランとはいえ、決勝ラウンドとはさらに重くのしかかるプレッシャーとの闘いになる。それでも3日目、4バーディ、3ボギーの「71」。2位のワイスコフ、新井、藤木三郎らに5打差をつけて最終日を迎えた。
3週に渡りトップを走り続けてきた謝に、いつもの勢いがみられない。ボギーが先行して「74」。トータル9アンダーまでスコアを落とす。2位グループから抜け出した新井が4バーディ1ボギーの69をマーク。ついに2人は並んで、プレーオフへともつれ込んだ。
謝敏男の回想。「もし、最後の最後で負けてしまったら、と思ったら緊張した」と重圧に苦しみながら、最初のホールは二人ともパー。勝負は運命の17番パー3へと持ち越される。ここで謝は、乾坤一擲の1打をピン3メートルのバーディチャンスに付ける。
一方の新井は10メートル近いロングパットを残した。先に入れて謝にプレッシャーをかけたい新井は、絶妙のタッチでカップを狙う。ボールはラインに乗り、タッチも申し分ない。誰もが「入った!」と思った瞬間、カップに触ったボールは外れ、30センチの距離に止まった。
固唾を飲んで見守っていたギャラリーの緊張が、一瞬緩んだ。次の瞬間、どよめきが悲鳴に替わる。新井はこの「お先に」のパットを「ポロリ」と外してしまった。痛恨のミスパットだった。
こうなると、謝は一気に楽になる。3メートルの距離を2パットでも優勝だ。謝はこのパットをしっかり決めてバーディ。ついに12日間連続トップと、3週連続優勝のW快挙が達成された瞬間だった。
当時を振り返り、謝はしみじみとした口調でこう言った。「ツーピースボールの効果もあったけど、運にも恵まれた。最後の方は本当に緊張したけどね」。今、81歳の謝は祖国台湾にいる。「ゴルフ?している。基金を作って、子供たちにゴルフを教えたりもしているよ」と近況を語ってからこう続けた。「コロナのせいで、もう2年、日本に行けてないんだよ」。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
その手に握られていたのは、ダンロップのDDH。新登場のツーピースボールだった。謝にとっては、これがライバルたちを蹴散らす、最大の武器となる。
10月7日――。愛知・三好カントリー倶楽部でその快進撃は始まった。海外からの招待選手が参戦する日本プロゴルフツアー「秋の陣」、まっただなかのことだった。東海クラシックの初日、主役となったのが、台湾の実力者・謝だった。コースレコードの「64」を叩き出し、2位の島田幸作に2打差をつけて単独トップに立った。
ロケットスタートの原動力となったのは、ツーピースボール。メーカーの開発競争が激化し、それまで全盛だった糸巻きボールから、高反発コアと高性能特殊カバーの開発により、飛距離を一気に伸ばすことに成功した。
しかしこのボールには欠点もあった。打感が固く、スピンがかかりにくいのだ。「アイアンで狙って行ったボールがグリーン上で止まらない」とか「スピンをかけて寄せることができない」などの理由から、試合での使用を見合わせるプロが多かった。
だが、謝は違った。「元々僕は、ランを使って寄せていくタイプ。計算がしやすかった」こともあり、積極的にツーピースを使った。
そのボールは、大きなアドバンテージをもたらした。「42(歳)になって飛距離が落ちたのが当時の悩みだった。ところがツーピースを使うようになって飛距離が20ヤードも伸びたんだ」。
それは7番のパー5で顕著だった。それまで常に20ヤード程度グリーンをショートしていた謝が、2オンに成功したのだ。「ゴルフがすごく楽になった」と、4連続バーディなどで、他の選手を寄せ付けない快進撃を演じた。
謝は若い時から注目を浴び、すでに輝かしい実績も残していた。1964年にローマで行われた世界アマを制し、翌65年にプロ転向。67年に来日すると翌68年の関東オープンで国内初勝利を挙げていた。72年にオーストラリアで行われたワールドカップでは呂良煥と組み、個人・団体Vの偉業も成し遂げる。79年には浅見CCで行われた日本プロゴルフ選手権も制し、国内だけで11勝も挙げていた。
悩みは年齢とともに落ちてきたパワーのみ、という状態だった謝が、若い時の飛距離を取り戻してしまったのだから手が付けられない。2日目を手堅いゴルフで「71」にまとめると、3日目は1イーグル・1バーディ・3ボギーの「72」。この日「68」で回った陳志明に並ばれたものの、首位タイに踏ん張った。
最終日は2番、3番と連続してバーディを奪取。トータル14アンダーまでスコアを伸ばし、前年の全米プロ王者ラリー・ネルソンに5打差をつけるぶっちぎりで、4日間首位を走り切る完全優勝を飾ってしまった。
翌週は愛知から静岡・東名カントリークラブへと戦いの場を移してのゴルフダイジェストトーナメント。地元沼津に住んでいた謝は、前週の初日と同じく「64」をマーク。2位の矢部昭に5打差をつけ、前週から5ラウンド連続となる首位に座った。
2日目も、謝にはまったくスキが見られない。前半からずっとパーを重ねていき、上がりの17、18番で連続バーディ。ただ一人二ケタに乗せる10アンダーで首位を守った。
3日目は、周囲も口あんぐりの快進撃となる。ボギーなしの7バーディ、「65」の快スコアでトータル17アンダーまでスコアを伸ばす。2位には米国の強豪ブルース・リツキ―と新井規矩雄が付けるが、その差は8まで開いていた。
異次元のゴルフを続けていた謝も人の子。ボギーが先行すると終盤ももたつき、矢部の猛追を許し、差は一気に1まで詰まった。「75」を叩きながらも大量リードが最後に生きて、1打差の14アンダーで辛くも逃げ切った。これで8日間連続トップ。2週連続優勝の快挙達成だ。謝はどこまで突っ走るのか。翌週、千葉の袖ヶ浦カンツリー倶楽部袖ヶ浦コースで行われるブリヂストントーナメントに、ファンの注目が集まることとなった。
奇跡が、起ころうとしていた。謝の勢いは、袖ヶ浦に来ても止まらなかった。前週、前々週の初日と同様、いきなりの「64」で他を圧倒する。1イーグル、8バーディ、1ボギーの内容は、まさに神がかりとしかいいようがない。2位には「恐怖のトム」の異名を持つ米ツアーの強豪トム・ワイスコフらがつけたが、すでに4打もつけられ、置いて行かれないようにするのが必死という状況になっていた。
2日目も70にまとめ、これで10日連続の首位に立った謝に、緊張の色が見え始める。当時を振り返って、謝はこう言った。
「毎日インタビュールームでしょ?3週目になるとさすがに緊張して来て、夜もよく眠れなくなってきた。夜中に何度も起きてしまってね」
かつて帝王ジャック・ニクラウスと謝のみしか成し遂げていない世界アマ、ワールドカップの2冠を手にした42歳のベテランとはいえ、決勝ラウンドとはさらに重くのしかかるプレッシャーとの闘いになる。それでも3日目、4バーディ、3ボギーの「71」。2位のワイスコフ、新井、藤木三郎らに5打差をつけて最終日を迎えた。
3週に渡りトップを走り続けてきた謝に、いつもの勢いがみられない。ボギーが先行して「74」。トータル9アンダーまでスコアを落とす。2位グループから抜け出した新井が4バーディ1ボギーの69をマーク。ついに2人は並んで、プレーオフへともつれ込んだ。
謝敏男の回想。「もし、最後の最後で負けてしまったら、と思ったら緊張した」と重圧に苦しみながら、最初のホールは二人ともパー。勝負は運命の17番パー3へと持ち越される。ここで謝は、乾坤一擲の1打をピン3メートルのバーディチャンスに付ける。
一方の新井は10メートル近いロングパットを残した。先に入れて謝にプレッシャーをかけたい新井は、絶妙のタッチでカップを狙う。ボールはラインに乗り、タッチも申し分ない。誰もが「入った!」と思った瞬間、カップに触ったボールは外れ、30センチの距離に止まった。
固唾を飲んで見守っていたギャラリーの緊張が、一瞬緩んだ。次の瞬間、どよめきが悲鳴に替わる。新井はこの「お先に」のパットを「ポロリ」と外してしまった。痛恨のミスパットだった。
こうなると、謝は一気に楽になる。3メートルの距離を2パットでも優勝だ。謝はこのパットをしっかり決めてバーディ。ついに12日間連続トップと、3週連続優勝のW快挙が達成された瞬間だった。
当時を振り返り、謝はしみじみとした口調でこう言った。「ツーピースボールの効果もあったけど、運にも恵まれた。最後の方は本当に緊張したけどね」。今、81歳の謝は祖国台湾にいる。「ゴルフ?している。基金を作って、子供たちにゴルフを教えたりもしているよ」と近況を語ってからこう続けた。「コロナのせいで、もう2年、日本に行けてないんだよ」。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)