1960年に始まった、日本最古のスポンサートーナメントである中日クラウンズ。1957年に日本の霞が関CCで開催されたカナダカップの優勝でゴルフブームを巻き起こした中村寅吉が第1回大会を制し、春の大一番として定着していく。
この大会が国際化への第1歩を踏み出したのは、1968年の第9回大会だった。豪州からピーター・トムソン、米国からフランク・ベアードとボビー・ニコルスを迎えて華やかに開幕したが、初日をリードしたのは47歳のベテラン小針春芳と28歳の謝敏男だった。
2日目、一躍注目を集めたのが、ツアー未勝利ながら中村寅吉と師弟関係にある安田春雄。ショットが絶好調で、グリーンを外したのは1ホールのみ。2番ではわずか5センチにつけるスーパーショットを見せるなど、切れ味の鋭いショットでバーディを量産し、1打差の2位に浮上した。
3日目は早朝から降り続ける雨に加え、午後からは強風にも見舞われる最悪のコンディション。天候との戦いとなる中、2位スタートの安田と、前回大会で惜しくも優勝を逃している地元の鈴村久が粘る。安田がトータル3アンダーで単独首位、1打差の2位に鈴村が浮上した。
最終日は完全に安田と鈴村のマッチレースとなった。一進一退の攻防が続き、安田が1打リードして最終18番を迎えた。だがこの勝負所で安田がティーショットを左に引っ掛け、第2打は林からフェアウェイに出すだけ。3オン2パットで痛恨のボギーを叩いてしまう。手堅くパーをセーブした鈴村が土壇場で追いつき、勝負は10番、17番、18番の3ホールで決着のプレーオフへともつれ込んだ。
最初の10番で、安田が1・5メートル、鈴村が1メートルにつけともにバーディチャンス。だがあろうことか、安田がこのパットを外してしまう。鈴村はしっかりとバーディをもぎ取り、1歩リードした。
17番はタイスコアで残るは1ホール。ここで1ストローク遅れてピンチに立たされていた安田が、フェアウェイから4番アイアンで会心のショットを見せる。わずか20センチにつけてバーディ間違いなしの状況を作った。
一方の鈴村はグリーン右のバンカーに入れ、一転ピンチに追い込まれた。このショットが寄らずにボギーをたたくと、一気に逆転負けの可能性が高い。しかし鈴村は、ここからあわやカップインバーディかと思わせるスーパーショット。パーでしのぎ、バーディの安田に追いつかれはしたものの、首の皮一枚残して4ホール目からのサドンデスプレーオフに決着を持ち越すことに成功した。
1番から出た4ホール目もともに一歩も譲らない。2番のパー5は安田が2オンに成功したものの、鈴村もバンカーからの3打目をピタリと寄せてバーディ。ショートゲームのうまさをいかんなく発揮して、2パットバーディの安田に食らいついた。
5番では鈴村が右のラフに入れてボギーをたたくが、安田も第2打を左奥の山に打ち込んでしまいボギーのお付き合い。夕闇が迫る中、勝負はついにプレーオフ9ホール目(サドンデス6ホール目)の6番までもつれていく。
ここまで来ると、1939年生まれの28歳・鈴村と1943年生まれの25歳・安田との体力差がくっきりと表れる。安定したショットで無難に2オンした安田に対し、鈴村は第1打をラフに入れ、そこからの2打目をグリーン左のがけ下へと落としてしまった。3打目も松の枝にあたり、ようやく4オン。安田は手堅く2パットのパーに収め、プロ入り6年目の初優勝を飾った。
史上まれにみる1時間40分、9ホールのプレーオフがようやく決着を見た瞬間だった。当時を振り返って、安田が言う。「若かったから、体力的に分があった。鈴村さんは『疲れた』と口にしていましたからね。相手のミスで勝った感じだったから、後味は良くなかったかな。あまりに長かったので『両方優勝にしてやれ!』なんて声がギャラリーからかかったし。副賞のクラウンの横で写真を撮った時には、周囲が真っ暗になっていた」。
安田はこの後、1969年のフィリピンオープンでも「自動小銃を下げたボディーガード11人に守られながら」(安田)プレーオフ1ホール目で優勝を飾り、マルコス大統領から優勝カップ、イメルダ夫人から優勝賞金を授与された。さらに1971年のシンガポールオープン、1972年の台湾オープンと海外3勝を挙げるなど、勝負強さも身に着けていく。プロ初優勝から数えてプレーオフ7連勝という前人未到の金字塔も打ち立てるのだ。
安田はその後杉本英世、河野高明と並んで「和製ビッグスリー」の名をほしいままにする。1980年に日本プロマッチプレーで初の日本タイトルを制し、自己最高の賞金ランク4位に食い込んだ。
この間ワールドカップにも日本代表として4回出場している。
殿堂入りも決定し、今年の3月11日には、日本ゴルフフェアの会場となるパシフィコ横浜で、顕彰されることも決まっている。
バーディパットが決まる前から、グリーン上で握った拳を前後に振るガッツポーズから「ガッツ安田」と呼ばれ人気を博した安田。その快進撃は、この気の遠くなるような9ホールに及ぶ番外プレーオフから、始まった。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
この大会が国際化への第1歩を踏み出したのは、1968年の第9回大会だった。豪州からピーター・トムソン、米国からフランク・ベアードとボビー・ニコルスを迎えて華やかに開幕したが、初日をリードしたのは47歳のベテラン小針春芳と28歳の謝敏男だった。
2日目、一躍注目を集めたのが、ツアー未勝利ながら中村寅吉と師弟関係にある安田春雄。ショットが絶好調で、グリーンを外したのは1ホールのみ。2番ではわずか5センチにつけるスーパーショットを見せるなど、切れ味の鋭いショットでバーディを量産し、1打差の2位に浮上した。
3日目は早朝から降り続ける雨に加え、午後からは強風にも見舞われる最悪のコンディション。天候との戦いとなる中、2位スタートの安田と、前回大会で惜しくも優勝を逃している地元の鈴村久が粘る。安田がトータル3アンダーで単独首位、1打差の2位に鈴村が浮上した。
最終日は完全に安田と鈴村のマッチレースとなった。一進一退の攻防が続き、安田が1打リードして最終18番を迎えた。だがこの勝負所で安田がティーショットを左に引っ掛け、第2打は林からフェアウェイに出すだけ。3オン2パットで痛恨のボギーを叩いてしまう。手堅くパーをセーブした鈴村が土壇場で追いつき、勝負は10番、17番、18番の3ホールで決着のプレーオフへともつれ込んだ。
最初の10番で、安田が1・5メートル、鈴村が1メートルにつけともにバーディチャンス。だがあろうことか、安田がこのパットを外してしまう。鈴村はしっかりとバーディをもぎ取り、1歩リードした。
17番はタイスコアで残るは1ホール。ここで1ストローク遅れてピンチに立たされていた安田が、フェアウェイから4番アイアンで会心のショットを見せる。わずか20センチにつけてバーディ間違いなしの状況を作った。
一方の鈴村はグリーン右のバンカーに入れ、一転ピンチに追い込まれた。このショットが寄らずにボギーをたたくと、一気に逆転負けの可能性が高い。しかし鈴村は、ここからあわやカップインバーディかと思わせるスーパーショット。パーでしのぎ、バーディの安田に追いつかれはしたものの、首の皮一枚残して4ホール目からのサドンデスプレーオフに決着を持ち越すことに成功した。
1番から出た4ホール目もともに一歩も譲らない。2番のパー5は安田が2オンに成功したものの、鈴村もバンカーからの3打目をピタリと寄せてバーディ。ショートゲームのうまさをいかんなく発揮して、2パットバーディの安田に食らいついた。
5番では鈴村が右のラフに入れてボギーをたたくが、安田も第2打を左奥の山に打ち込んでしまいボギーのお付き合い。夕闇が迫る中、勝負はついにプレーオフ9ホール目(サドンデス6ホール目)の6番までもつれていく。
ここまで来ると、1939年生まれの28歳・鈴村と1943年生まれの25歳・安田との体力差がくっきりと表れる。安定したショットで無難に2オンした安田に対し、鈴村は第1打をラフに入れ、そこからの2打目をグリーン左のがけ下へと落としてしまった。3打目も松の枝にあたり、ようやく4オン。安田は手堅く2パットのパーに収め、プロ入り6年目の初優勝を飾った。
史上まれにみる1時間40分、9ホールのプレーオフがようやく決着を見た瞬間だった。当時を振り返って、安田が言う。「若かったから、体力的に分があった。鈴村さんは『疲れた』と口にしていましたからね。相手のミスで勝った感じだったから、後味は良くなかったかな。あまりに長かったので『両方優勝にしてやれ!』なんて声がギャラリーからかかったし。副賞のクラウンの横で写真を撮った時には、周囲が真っ暗になっていた」。
安田はこの後、1969年のフィリピンオープンでも「自動小銃を下げたボディーガード11人に守られながら」(安田)プレーオフ1ホール目で優勝を飾り、マルコス大統領から優勝カップ、イメルダ夫人から優勝賞金を授与された。さらに1971年のシンガポールオープン、1972年の台湾オープンと海外3勝を挙げるなど、勝負強さも身に着けていく。プロ初優勝から数えてプレーオフ7連勝という前人未到の金字塔も打ち立てるのだ。
安田はその後杉本英世、河野高明と並んで「和製ビッグスリー」の名をほしいままにする。1980年に日本プロマッチプレーで初の日本タイトルを制し、自己最高の賞金ランク4位に食い込んだ。
この間ワールドカップにも日本代表として4回出場している。
殿堂入りも決定し、今年の3月11日には、日本ゴルフフェアの会場となるパシフィコ横浜で、顕彰されることも決まっている。
バーディパットが決まる前から、グリーン上で握った拳を前後に振るガッツポーズから「ガッツ安田」と呼ばれ人気を博した安田。その快進撃は、この気の遠くなるような9ホールに及ぶ番外プレーオフから、始まった。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)