“異色タッグ"の実現は、友利勝良が軽い気持ちでつぶやいた一言がきっかけだった。
1995年の夏、博多の夜。友利は知人のミュージシャン、ヘンリー広瀬・高橋真梨子夫妻らと食事をしていた。
友利はこの時、スコットランドのセントアンドリュースで行われた全英オープンから帰ったばかり。予選ラウンド2日間を終え飛ばし屋のジョン・デイリーらとともに首位。最終的には24位だったが「世界のトモーリ」としてその名を轟かせて帰国したばかりだった。
その席で広瀬夫妻から「北海道へ旅行に行く」と聞かされた友利に、あるアイディアが浮かんだ。
「ヘンリーさん、それならマッチプレーでキャディやってよ。どうせ1回戦で終わるからさ。その後、は空くから一緒にゴルフでもしようよ」。
約1か月後の8月31日に開幕する日本プロゴルフマッチプレー選手権の舞台は、北海道のニドムクラシックニスパコース。負けたら最後、次のステージには進めないトーナメント方式の戦いだけに、友利も多くは望んでいなかった。
広瀬氏もこの誘いを「じゃあ、一度、やってみましょうか」と快諾したものの、このあと、とんでもない経験をすることになろうとは、知る由もなかった。
北の大地を吹き渡る風が心地よい。初日から3日連続30度越えだった福岡・KBCオーガスタから苫小牧に舞台を移しての初日は晴れ、風速2メートル、気温23.5度という絶好のコンディション。
友利は1回戦、1、2番と連続バーディの好発進で井戸木鴻樹に5アンド3の圧勝。高橋真梨子も応援に駆け付けたその前で「1日で終わる」と言った広瀬氏への約束を反故にする。
しかし2回戦、3回戦が行われる大会2日目、友利の前に大きな壁が立ちはだかった。いずれも永久シード選手の中嶋常幸と倉本昌弘が相手だったからだ。簡単にいくはずがない相手だが、友利の勢いは完全に2人を上回った。
ティーショットでは30ヤード近く置いて行かれるものの、後方から先に打ってチャンスにつける。バーディを量産していくことで、2打目、3打目をあとから打つ選手にプレッシャーをかける流れができていた。それほどこの日の友利のショットにはキレがあり、先手先手で主導権を握る展開に持ち込めていた。
2回戦では中嶋を、3回戦では倉本を撃破して友利はついに準決勝へと駒を進めた。すでに2日目までの54ホール、慣れないキャディの仕事で広瀬氏は疲労困憊。宿舎に帰ると夫人からマッサージを受けなければならないほどだった。予定外の延長勤務はまだまだ続く。土曜日には36ホールの長丁場が待っていた。
準決勝の相手は鈴木亨。日大ゴルフ部後輩の妻である女子プロ・丸谷京子をキャディに起用し、必勝を期してこの大会に臨んでいた。
しかし試合は完全なワンサイド。友利は前半の18ホールで7個のバーディを奪って3アップ。後半もいきなり3連続バーディで一気に差を広げ、6アンド5の大差で鈴木を押し切ってしまった。
全英で首位に立った勢いそのままに、決勝へと駒を進めた時の心境を、友利はこう振り返る。
「91年から92年のシーズンは頸椎を痛めてゴルフがまったくできなかった。SWで30ヤードくらいのショットをしてみたら、やっぱり痛い。それで体をゆすったら首が痛くない。そういう打ち方をしたらボールが上がらなくなったんです。沖縄の強い風の中だから低いボールが打てる、とよく言われたけど、実は首を痛める前は高いボールを打っていたんです。それから3年くらいしか経っていなくて、あの頃はゴルフが続けられるだけでうれしくて、軽い気持ちで試合に出ていたんです」(友利)。
18ホールで終わる。それは本音で、まさに無欲が生んだ快進撃だとも言えた。
決勝の相手は元気いっぱいの若手、丸山茂樹。だが友利はいきなり3連続バーディを奪うロケットスタートを見せた。しかし丸山も4番、5番と奪い返し、息詰まる展開へもつれ込んでいく。
最初の18ホールの後、アクシデントが起きる。新しいシューズが合わず、靴擦れができてしまった。友利は近くにいた運営スタッフが同じサイズだと聞き、履いていたシューズを借りる。
ところが「シューズの中で足が滑る感じがして」再び元のシューズに戻すことになる。それでも19ホール目、22ホール目とバーディを奪い3アップ。いよいよ優勝が見えてくる。
ここで無欲の友利とは対照的に、バッグを担ぐ広瀬氏には緊張の色が見えてくる。初体験のキャディにもかかわらず、公式戦でいきなりの優勝争い。平常心でいろという方が無理な状況ではあった。
ここで友利は機転を利かせる。試合中にもかかわらず、「歌でも歌いますか」と言い出すと、いきなり「5番街のマリー」を熱唱する。いうまでもなく、2人が参加していたペドロ&カプリシャスの名曲だ。
「♪5番街へ、行ったならば〜マリーの家へ行き〜どんな暮らし、してい〜るのか、見てき〜てほ〜し〜い〜♪」。
聞いていた広瀬さんは、思わず吹き出し、こう言ったという。「友利さん、そりゃ、全然違う歌だよ」。
すっかりリラックスムードに包まれた友利・広瀬コンビ。24ホール目の6番では2オンした丸山に対し、友利は第2打で右のバンカーにつかまってしまう。約20メートルの難しいバンカーショットを残したが、これを見事1メートルにつけるスーパーショット。挽回を確信していた丸山が驚きの声を上げる。相手に行きかけた流れを引き戻す強烈な1打だった。さらに猛攻は続く。7番(25ホール目)でも値千金のチップインバーディ。ついに4アップまで差を広げた。
丸山もこの後反撃に出る。ジワジワと盛り返し、33ホール目となる15番のパー5で2オンに成功。2パットのバーディで、友利の1アップと逆転に望みをつないだ。
しかし、続く16番で友利が中嶋、倉本を撃破した時を再現するかのような2メートルを決めてバーディ。2アップでドーミーホールの17番を迎えた。
若干打ち上げのパー3。190ヤードを5番アイアンで打った友利のショットは奥10メートルに1オン。丸山は8メートルのバーディパットを残した。
友利はファーストパットを1メートルオーバー。丸山はこのバーディパットを決められず絶体絶命となった。
慎重にウィニングパットを沈めた友利は、マッチプレー日本一の座に輝いた。
長い長い、戦いを制してのビッグタイトル。この時、友利の胸に去来したものは「広瀬さんに、ゆっくりしてもらいたい、という気持ち」だったという。「旅行に行く予定もダメになって、したこともないキャディを(本選前日も含めて)8ラウンドもしたんですから。本当はやめたかったんじゃないですかね(笑)」。
エピソードてんこ盛りの4日間。友利もこれが、プロ生活で最も印象に残る優勝だと言い切った。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
1995年の夏、博多の夜。友利は知人のミュージシャン、ヘンリー広瀬・高橋真梨子夫妻らと食事をしていた。
友利はこの時、スコットランドのセントアンドリュースで行われた全英オープンから帰ったばかり。予選ラウンド2日間を終え飛ばし屋のジョン・デイリーらとともに首位。最終的には24位だったが「世界のトモーリ」としてその名を轟かせて帰国したばかりだった。
その席で広瀬夫妻から「北海道へ旅行に行く」と聞かされた友利に、あるアイディアが浮かんだ。
「ヘンリーさん、それならマッチプレーでキャディやってよ。どうせ1回戦で終わるからさ。その後、は空くから一緒にゴルフでもしようよ」。
約1か月後の8月31日に開幕する日本プロゴルフマッチプレー選手権の舞台は、北海道のニドムクラシックニスパコース。負けたら最後、次のステージには進めないトーナメント方式の戦いだけに、友利も多くは望んでいなかった。
広瀬氏もこの誘いを「じゃあ、一度、やってみましょうか」と快諾したものの、このあと、とんでもない経験をすることになろうとは、知る由もなかった。
北の大地を吹き渡る風が心地よい。初日から3日連続30度越えだった福岡・KBCオーガスタから苫小牧に舞台を移しての初日は晴れ、風速2メートル、気温23.5度という絶好のコンディション。
友利は1回戦、1、2番と連続バーディの好発進で井戸木鴻樹に5アンド3の圧勝。高橋真梨子も応援に駆け付けたその前で「1日で終わる」と言った広瀬氏への約束を反故にする。
しかし2回戦、3回戦が行われる大会2日目、友利の前に大きな壁が立ちはだかった。いずれも永久シード選手の中嶋常幸と倉本昌弘が相手だったからだ。簡単にいくはずがない相手だが、友利の勢いは完全に2人を上回った。
ティーショットでは30ヤード近く置いて行かれるものの、後方から先に打ってチャンスにつける。バーディを量産していくことで、2打目、3打目をあとから打つ選手にプレッシャーをかける流れができていた。それほどこの日の友利のショットにはキレがあり、先手先手で主導権を握る展開に持ち込めていた。
2回戦では中嶋を、3回戦では倉本を撃破して友利はついに準決勝へと駒を進めた。すでに2日目までの54ホール、慣れないキャディの仕事で広瀬氏は疲労困憊。宿舎に帰ると夫人からマッサージを受けなければならないほどだった。予定外の延長勤務はまだまだ続く。土曜日には36ホールの長丁場が待っていた。
準決勝の相手は鈴木亨。日大ゴルフ部後輩の妻である女子プロ・丸谷京子をキャディに起用し、必勝を期してこの大会に臨んでいた。
しかし試合は完全なワンサイド。友利は前半の18ホールで7個のバーディを奪って3アップ。後半もいきなり3連続バーディで一気に差を広げ、6アンド5の大差で鈴木を押し切ってしまった。
全英で首位に立った勢いそのままに、決勝へと駒を進めた時の心境を、友利はこう振り返る。
「91年から92年のシーズンは頸椎を痛めてゴルフがまったくできなかった。SWで30ヤードくらいのショットをしてみたら、やっぱり痛い。それで体をゆすったら首が痛くない。そういう打ち方をしたらボールが上がらなくなったんです。沖縄の強い風の中だから低いボールが打てる、とよく言われたけど、実は首を痛める前は高いボールを打っていたんです。それから3年くらいしか経っていなくて、あの頃はゴルフが続けられるだけでうれしくて、軽い気持ちで試合に出ていたんです」(友利)。
18ホールで終わる。それは本音で、まさに無欲が生んだ快進撃だとも言えた。
決勝の相手は元気いっぱいの若手、丸山茂樹。だが友利はいきなり3連続バーディを奪うロケットスタートを見せた。しかし丸山も4番、5番と奪い返し、息詰まる展開へもつれ込んでいく。
最初の18ホールの後、アクシデントが起きる。新しいシューズが合わず、靴擦れができてしまった。友利は近くにいた運営スタッフが同じサイズだと聞き、履いていたシューズを借りる。
ところが「シューズの中で足が滑る感じがして」再び元のシューズに戻すことになる。それでも19ホール目、22ホール目とバーディを奪い3アップ。いよいよ優勝が見えてくる。
ここで無欲の友利とは対照的に、バッグを担ぐ広瀬氏には緊張の色が見えてくる。初体験のキャディにもかかわらず、公式戦でいきなりの優勝争い。平常心でいろという方が無理な状況ではあった。
ここで友利は機転を利かせる。試合中にもかかわらず、「歌でも歌いますか」と言い出すと、いきなり「5番街のマリー」を熱唱する。いうまでもなく、2人が参加していたペドロ&カプリシャスの名曲だ。
「♪5番街へ、行ったならば〜マリーの家へ行き〜どんな暮らし、してい〜るのか、見てき〜てほ〜し〜い〜♪」。
聞いていた広瀬さんは、思わず吹き出し、こう言ったという。「友利さん、そりゃ、全然違う歌だよ」。
すっかりリラックスムードに包まれた友利・広瀬コンビ。24ホール目の6番では2オンした丸山に対し、友利は第2打で右のバンカーにつかまってしまう。約20メートルの難しいバンカーショットを残したが、これを見事1メートルにつけるスーパーショット。挽回を確信していた丸山が驚きの声を上げる。相手に行きかけた流れを引き戻す強烈な1打だった。さらに猛攻は続く。7番(25ホール目)でも値千金のチップインバーディ。ついに4アップまで差を広げた。
丸山もこの後反撃に出る。ジワジワと盛り返し、33ホール目となる15番のパー5で2オンに成功。2パットのバーディで、友利の1アップと逆転に望みをつないだ。
しかし、続く16番で友利が中嶋、倉本を撃破した時を再現するかのような2メートルを決めてバーディ。2アップでドーミーホールの17番を迎えた。
若干打ち上げのパー3。190ヤードを5番アイアンで打った友利のショットは奥10メートルに1オン。丸山は8メートルのバーディパットを残した。
友利はファーストパットを1メートルオーバー。丸山はこのバーディパットを決められず絶体絶命となった。
慎重にウィニングパットを沈めた友利は、マッチプレー日本一の座に輝いた。
長い長い、戦いを制してのビッグタイトル。この時、友利の胸に去来したものは「広瀬さんに、ゆっくりしてもらいたい、という気持ち」だったという。「旅行に行く予定もダメになって、したこともないキャディを(本選前日も含めて)8ラウンドもしたんですから。本当はやめたかったんじゃないですかね(笑)」。
エピソードてんこ盛りの4日間。友利もこれが、プロ生活で最も印象に残る優勝だと言い切った。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)