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    中村寅吉直伝!真冬での素足の特訓がもたらしたビッグタイトル【名勝負ものがたり】

    歳月が流れても、語り継がれる戦いがある。役者や舞台、筋書きはもちろんのこと、芝や空の色、風の音に至るまでの鮮やかな記憶。かたずを飲んで見守る人の息づかいや、その後の喝采まで含めた名勝負の舞台裏が、関わった人の証言で、よみがえる。

    配信日時:2022年3月8日 23時00分

    • JGTO
    吉川と言えばこのトップ
    吉川と言えばこのトップ
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    1979年9月9日。広島カンツリー倶楽部八本松コースでは、女子ゴルファー日本一を決する日本女子オープンゴルフ選手権の最終ラウンドが行われていた。28歳の吉川なよ子と24歳の日蔭温子が一歩も譲らず、マッチレースの様相。本選の18ホールでは決着せず、番外のプレーオフへと持ち越されていた。

    この頃、プレーオフではティショットの順番をじゃんけんで決めていた。吉川は、じゃんけんはグーしか出さないと決めていた。「グー以外だと、その後何だか力が入らなくなる気がする」のがその理由。勝負師独特の感覚なのだろう。だが、その結果、パーの日蔭に負けてしまう。とは言え、これはティショットを打つ順番を決めるだけのもの。勝負とは別なのは言うまでもない。

    オナーを取った日蔭は、ティショットで痛恨のミスを犯してしまう。このホール右サイドに打ってしまうと、木が邪魔になりグリーンが狙えなくなる。日陰はそこに打ってしまった。

    一方の吉川は、フェアウェイの左サイド、絶好の位置をキープした。こうなると日蔭は苦しい。第2打を左のサブグリーンに打つのが精いっぱい。

    吉川は手堅くグリーンに乗せ優位に立った。日蔭はアプローチに勝負をかけるが、寄せられずますます追い詰められていく。

    吉川はこのパットを50センチまでつけプレッシャーをかける。日蔭が一縷の望みをかけたパーセービングパットは外れてボギー。吉川が「ドキドキしながら打った」パットは、カップに消えて心地よい音を発した。ナショナルオープン優勝だ。

    吉川はこの年3勝を挙げ、一気にその素質を開花させた。きっかけは、2年前のオフシーズンにあった。運命を変える瞬間が、1977年の12月に訪れていた。

    吉川はこの時、米女子ツアーのプロテストを1か月半後に控えていた。中村寅吉プロの指導を受けたい一心で、伊勢原カントリークラブ(神奈川)の門を叩いた。

    1957年に埼玉・霞ヶ関CCで行われたカナダカップ(のちのワールドカップ)の個人・団体の優勝で日本に一大ゴルフブームをもたらした中村は、日本女子プロゴルフ協会の初代会長でもあった。まさにこの1977年に全米女子プロ選手権で優勝した樋口久子の師匠としても知られていたが、元々師匠がおらず独学でプロになった吉川にためらいはなかった。

    中村とは浅からぬ縁もあった。吉川が3度目の挑戦でプロ合格を果たしたコースも、中村が所属していた伊勢原CC。台風直後のため、同じ9ホールを2回プレーする形で1ラウンドとする変則開催だった。この時、吉川は中村から直接、激励を受け見事合格している。19歳で滋賀県の皇子山CCでキャディーになるため、母の涙に送られて釧路を出た日から、わずか5年。ゴルフを本格的に始めてからわずか2年後のプロ合格だった。

    プロになった思い出の場所に舞い戻ってみると、そこには多くの研修生がいた。その中に混じった吉川に、中村は驚くべき一言を浴びせる。

    「靴を脱げ。靴下も脱げ。それで打ってみろ」。

    暮れも押し詰まった12月。しんと冷え込んだ練習場で中村は非情に言い放った。極寒の練習場で、吉川は言いつけ通り、裸足でボールを打ち始めた。

    「右のかかとが、上がるからいけない。右足が浮かないようにスイングするんだ」。約2時間。爪には土が入り、足の感覚もなくなっていく。

    「右のかかとが浮いて右ヒザも前に出て、つま先だけが地面についている状態で力が入らないスイングになっていたんだと思います。ダウンスイングで右足を押さえておかないと、左方向に上体が流れてしまう。同時にダウンスイングで右足の蹴りが必要なんだな、と自分なりに解釈しました」。

    ふと気づくと、中村はいなかった。先輩の男子プロが「中村先生はラウンド中だから、靴と靴下履いて練習すれば? 上がってきたら教えてあげるから」と言ってくれた。

    夕方、中村が帰ってくる。先輩たちに「先生帰って来たぞ、早く裸足になれ」と促され、また打ち始めた。

    帰って来た中村が「ずっと打っていたのか?」と聞くと、吉川は先輩の手前もあり「ハイ、打っていました」と答える。

    しばらく打った時、かじかんだ右足の甲に激痛を感じた。なんと中村が吉川の右足に、アイアンのヘッドを落としてきたのだ。

    「大体あの寒さの中で、一日中打っていられるはずがない。そんなことはお見通しで、だからこそ足の上にヘッドを落としてきたんだと思います」と懐かしそうに振り返りながら、こう続けた。

    「そりゃあ、痛いのなんのって。寒くて足は凍えていますから。そこに、アイアンのヘッドですから(笑)」。

    1週間に及ぶ「中村塾」は壮絶だった。吉川はその後に予定されていたミズノのスタッフ会議にフラフラになりながら出席。その後39度の高熱を発しダウンした。

    1か月後--。吉川はフロリダの陽光を浴びながら、優勝争いの真っただ中でプレーしていた。フロリダ州サラソタのベントツリーCCで行われたクオリファイイングトーナメント(米QT)を3位で突破。タンパからマイアミに陸路で移動し、アメリカン・キャンサー・ソサエティ・クラシックに出場していた。

    大会の舞台となったケンデールレイクスCCで、吉川は初日5アンダー67のロケットスタート。2日目はパープレーで回り、最終日も前年5勝を挙げ賞金ランク6位のデビー・オースチンとマッチレースを展開した。

    それはまさしく「裸足の特訓」の成果だった。「当時、日本のコースといえば高麗ばかりで、今のような洋芝のフェアウェイがあるのは北海道くらい。ボールが浮いた状態で打てるので、私も払うような打ち方になっていました。でも、アメリカの芝はティフトンで、浮かないで沈んでしまうから、上から打ち込む必要があります。そのためにはダウンスイングでグッと押さえて、右サイドで打つようなイメージが大事なんだと理解しました」。

    米ツアーのコースに対応した鋭いショットを連発する吉川。17番でもグリーンをオーバーするピンチに立たされたが、何とかパーでしのぐ。最終18番のティーグラウンドに上がった時、オースチンとはトータル3アンダーの首位タイで並んでいた。

    最終18番で、吉川は不運に見舞われた。グリーンを外してしまい、アプローチしようと行ってみると、そこは最悪のライだった。カップくらいの大きさをした根っこをカットしたところに、ボールが乗った状態になっていた。

    何とかこのアプローチを1メートルに寄せたものの、このパットは無情にも外れていった。手堅くパーで上がったオースチンに、優勝が転がり込んだ形だった。

    悔しい2位。吉川はそれ以前から惜敗が続き「万年2位」と呼ばれていた。日本に帰って「なぜ勝てないんだろう」と悶々としながら、都内の芝増上寺の前を通った時、貼ってあった「今月の言葉」に目が釘付けになった。

    「敗者にも贈り物が用意されているのに、なぜ気づかないの?」

    吉川はハッと気づいた。「2位はステップアップのチャンスですから、そこで何かを得なきゃいけない」。そんな決意を胸に戦った1979年。日本女子プロ東西対抗で樋口と1位を分け合う、うれしい初優勝。その勢いに乗って、日本女子オープンも制覇。冒頭のシーンとなる。

    この年の3勝を皮切りに、29勝を積み上げることになる。輝けるプロ人生の中を続ける中で「ゴルフ界のおしん」と呼ばれたこともあった。

    それは8歳の時に父親を事故で亡くし、プロになるまで相当な苦労をした人生に、多くの人が「おしん」のイメージをダブらせたからだった。

    通算30勝に王手をかけた29勝目の前から、甲状腺がんの宣告も受け闘病生活も経験。結局永久シードの30勝には、あと1歩の所で届かなかった。

    今も手術の後遺症はあるという。かつて「おしん」と呼ばれたことについても「いやですよ。私、あんなに不幸じゃないもの」と明るく笑った。そんな吉川が「最も印象に残る試合」として挙げたのが、この日本女子オープンだった。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
    1979年9月9日。広島カンツリー倶楽部八本松コースでは、女子ゴルファー日本一を決する日本女子オープンゴルフ選手権の最終ラウンドが行われていた。28歳の吉川なよ子と24歳の日蔭温子が一歩も譲らず、マッチレースの様相。本選の18ホールでは決着せず、番外のプレーオフへと持ち越されていた。

    この頃、プレーオフではティショットの順番をじゃんけんで決めていた。吉川は、じゃんけんはグーしか出さないと決めていた。「グー以外だと、その後何だか力が入らなくなる気がする」のがその理由。勝負師独特の感覚なのだろう。だが、その結果、パーの日蔭に負けてしまう。とは言え、これはティショットを打つ順番を決めるだけのもの。勝負とは別なのは言うまでもない。

    オナーを取った日蔭は、ティショットで痛恨のミスを犯してしまう。このホール右サイドに打ってしまうと、木が邪魔になりグリーンが狙えなくなる。日陰はそこに打ってしまった。

    一方の吉川は、フェアウェイの左サイド、絶好の位置をキープした。こうなると日蔭は苦しい。第2打を左のサブグリーンに打つのが精いっぱい。

    吉川は手堅くグリーンに乗せ優位に立った。日蔭はアプローチに勝負をかけるが、寄せられずますます追い詰められていく。

    吉川はこのパットを50センチまでつけプレッシャーをかける。日蔭が一縷の望みをかけたパーセービングパットは外れてボギー。吉川が「ドキドキしながら打った」パットは、カップに消えて心地よい音を発した。ナショナルオープン優勝だ。

    吉川はこの年3勝を挙げ、一気にその素質を開花させた。きっかけは、2年前のオフシーズンにあった。運命を変える瞬間が、1977年の12月に訪れていた。

    吉川はこの時、米女子ツアーのプロテストを1か月半後に控えていた。中村寅吉プロの指導を受けたい一心で、伊勢原カントリークラブ(神奈川)の門を叩いた。

    1957年に埼玉・霞ヶ関CCで行われたカナダカップ(のちのワールドカップ)の個人・団体の優勝で日本に一大ゴルフブームをもたらした中村は、日本女子プロゴルフ協会の初代会長でもあった。まさにこの1977年に全米女子プロ選手権で優勝した樋口久子の師匠としても知られていたが、元々師匠がおらず独学でプロになった吉川にためらいはなかった。

    中村とは浅からぬ縁もあった。吉川が3度目の挑戦でプロ合格を果たしたコースも、中村が所属していた伊勢原CC。台風直後のため、同じ9ホールを2回プレーする形で1ラウンドとする変則開催だった。この時、吉川は中村から直接、激励を受け見事合格している。19歳で滋賀県の皇子山CCでキャディーになるため、母の涙に送られて釧路を出た日から、わずか5年。ゴルフを本格的に始めてからわずか2年後のプロ合格だった。

    プロになった思い出の場所に舞い戻ってみると、そこには多くの研修生がいた。その中に混じった吉川に、中村は驚くべき一言を浴びせる。

    「靴を脱げ。靴下も脱げ。それで打ってみろ」。

    暮れも押し詰まった12月。しんと冷え込んだ練習場で中村は非情に言い放った。極寒の練習場で、吉川は言いつけ通り、裸足でボールを打ち始めた。

    「右のかかとが、上がるからいけない。右足が浮かないようにスイングするんだ」。約2時間。爪には土が入り、足の感覚もなくなっていく。

    「右のかかとが浮いて右ヒザも前に出て、つま先だけが地面についている状態で力が入らないスイングになっていたんだと思います。ダウンスイングで右足を押さえておかないと、左方向に上体が流れてしまう。同時にダウンスイングで右足の蹴りが必要なんだな、と自分なりに解釈しました」。

    ふと気づくと、中村はいなかった。先輩の男子プロが「中村先生はラウンド中だから、靴と靴下履いて練習すれば? 上がってきたら教えてあげるから」と言ってくれた。

    夕方、中村が帰ってくる。先輩たちに「先生帰って来たぞ、早く裸足になれ」と促され、また打ち始めた。

    帰って来た中村が「ずっと打っていたのか?」と聞くと、吉川は先輩の手前もあり「ハイ、打っていました」と答える。

    しばらく打った時、かじかんだ右足の甲に激痛を感じた。なんと中村が吉川の右足に、アイアンのヘッドを落としてきたのだ。

    「大体あの寒さの中で、一日中打っていられるはずがない。そんなことはお見通しで、だからこそ足の上にヘッドを落としてきたんだと思います」と懐かしそうに振り返りながら、こう続けた。

    「そりゃあ、痛いのなんのって。寒くて足は凍えていますから。そこに、アイアンのヘッドですから(笑)」。

    1週間に及ぶ「中村塾」は壮絶だった。吉川はその後に予定されていたミズノのスタッフ会議にフラフラになりながら出席。その後39度の高熱を発しダウンした。

    1か月後--。吉川はフロリダの陽光を浴びながら、優勝争いの真っただ中でプレーしていた。フロリダ州サラソタのベントツリーCCで行われたクオリファイイングトーナメント(米QT)を3位で突破。タンパからマイアミに陸路で移動し、アメリカン・キャンサー・ソサエティ・クラシックに出場していた。

    大会の舞台となったケンデールレイクスCCで、吉川は初日5アンダー67のロケットスタート。2日目はパープレーで回り、最終日も前年5勝を挙げ賞金ランク6位のデビー・オースチンとマッチレースを展開した。

    それはまさしく「裸足の特訓」の成果だった。「当時、日本のコースといえば高麗ばかりで、今のような洋芝のフェアウェイがあるのは北海道くらい。ボールが浮いた状態で打てるので、私も払うような打ち方になっていました。でも、アメリカの芝はティフトンで、浮かないで沈んでしまうから、上から打ち込む必要があります。そのためにはダウンスイングでグッと押さえて、右サイドで打つようなイメージが大事なんだと理解しました」。

    米ツアーのコースに対応した鋭いショットを連発する吉川。17番でもグリーンをオーバーするピンチに立たされたが、何とかパーでしのぐ。最終18番のティーグラウンドに上がった時、オースチンとはトータル3アンダーの首位タイで並んでいた。

    最終18番で、吉川は不運に見舞われた。グリーンを外してしまい、アプローチしようと行ってみると、そこは最悪のライだった。カップくらいの大きさをした根っこをカットしたところに、ボールが乗った状態になっていた。

    何とかこのアプローチを1メートルに寄せたものの、このパットは無情にも外れていった。手堅くパーで上がったオースチンに、優勝が転がり込んだ形だった。

    悔しい2位。吉川はそれ以前から惜敗が続き「万年2位」と呼ばれていた。日本に帰って「なぜ勝てないんだろう」と悶々としながら、都内の芝増上寺の前を通った時、貼ってあった「今月の言葉」に目が釘付けになった。

    「敗者にも贈り物が用意されているのに、なぜ気づかないの?」

    吉川はハッと気づいた。「2位はステップアップのチャンスですから、そこで何かを得なきゃいけない」。そんな決意を胸に戦った1979年。日本女子プロ東西対抗で樋口と1位を分け合う、うれしい初優勝。その勢いに乗って、日本女子オープンも制覇。冒頭のシーンとなる。

    この年の3勝を皮切りに、29勝を積み上げることになる。輝けるプロ人生の中を続ける中で「ゴルフ界のおしん」と呼ばれたこともあった。

    それは8歳の時に父親を事故で亡くし、プロになるまで相当な苦労をした人生に、多くの人が「おしん」のイメージをダブらせたからだった。

    通算30勝に王手をかけた29勝目の前から、甲状腺がんの宣告も受け闘病生活も経験。結局永久シードの30勝には、あと1歩の所で届かなかった。

    今も手術の後遺症はあるという。かつて「おしん」と呼ばれたことについても「いやですよ。私、あんなに不幸じゃないもの」と明るく笑った。そんな吉川が「最も印象に残る試合」として挙げたのが、この日本女子オープンだった。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
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