50年、時計を戻そう。1972年10月29日。愛知・三好カントリークラブでは東海クラシックの最終日が行われていた。
当時は男女同時開催。2万2千人の大ギャラリーが見つめる中、男子の部の優勝争いは2人のマッチレースとなっていた。
13アンダーの首位でスタートした松田司郎がアウトで「39」を叩きズルズル後退。変わってトップに浮上したのが新井規矩雄と河野高明だった。
未勝利の28歳・新井にとっては、分の悪い相手には違いなかった。相手は杉本英世、安田春雄とともに「和製ビッグスリー」と称される32歳の河野高明。1969、70年と2年連続してマスターズに出場。69年にはパー5で2つ、パー4で2つのイーグルを出し、3日目に一時的にトップに立ってもいた。162センチと小柄ながらこの年は13位、翌年も12位と健闘し、「リトルコーノ」と異名を取るほどの人気選手だった。
そんな状況ながら大ギャラリーを前に新井の健闘が続く。すでに優勝をもぎ取るにふさわしい実力は身につけていた。この日からさかのぼること約3年。新井はあこがれの選手である戸田藤一郎のもとを訪ねていた。
戸田は1936年に日本選手として初めてマスターズに出場、1939年には日本で年間グランドスラムを達成した「トイチ」と呼ばれる大選手。新井は戸田の本を読み漁ったが、当時はスイングの連続写真すら見つからない。そこでゴルフ週刊誌の取材を兼ねて戸田との面会に成功。京都の田辺カントリー倶楽部で1ホールではあるが「一緒にラウンドして、ダウンブローに打つ打ち方を教えてもらった」(新井)。その技術を自分のものにするため、必死に練習を重ねてすでに3年が経過していた。
勝たねばならぬ時期にも来ていた。この年の1月に結婚したばかりの操夫人は、この大会も4日間、プレーを見守り続けていた。地元紙にはキャディーの目撃談として「新井さんがミスプレーした時など、奥様の『忘れて次頑張りましょう』の声援は新井さんにとっては何よりの励まし」という証言も掲載されていた。
運も味方した。サンデーバックナインに入る時点で、トップは13アンダーの河野。1打差の2位で1組前の新井が追う展開となっていた。新井は10番ボギーの後11番でバーディを奪い返して迎えた12番のティーショットを、行ってはいけない右方向へプッシュアウト。万事休すかと思われたが、ボールはOBゾーンから2メートル手前に止まっておりセーフ。この大ピンチから一転、連続バーディに結び付けると13番もパーで切り抜ける。しかし後ろの組の河野も10番から新井と全くの同スコア。1打リードをキープしていた。
14番で新井がバーディを奪い、河野と14アンダーで並んだが、続く15番で河野がバーディ。再び首位の河野を新井が1打差で追走する形で上がり3ホールを迎えることになる。
河野は16番のパー3で左の崖下に落としボギーを叩き、新井に並ばれたが今度は新井が続く17番で3パットのボギー。自らのミスで首位を明け渡した。すると今度は河野が同じ17番で致命的なミスを犯す。8番アイアンで手前から攻める慎重策を捨て、7番アイアンでピンを狙った強硬策は完全に裏目。右のバンカーにつかまり、3打目はピンを5メートルもショート。このパーパットが1メートルオーバーしてしまう。下りのフックライン。この日好調だったパットがカップをなめただけで入らない。3オン3パットのダブルボギーで、新井はタナボタの首位に立った。
しかし新井はそれを知らないまま、18番のティショットを振り抜いた。第2打もピン左6メートルに2オンしたが、バーディパットを決められず2パットのパーでホールアウトした。この時点で新井は河野に1打差の2位だと思い込んでいた。
その後18番グリーンで待つうちに、河野が17番で3オン3パットのダボを叩き、1打リードしていることを知る。河野の18番パーが決定的となり、新井は自らの勝利を確信した。クラブハウス2階のロビーで、新井と操夫人はしっかり抱き合いうれし涙を流したという描写も、当時の地元紙には散見される。
河野とともに、ビッグスリーの一角を担っていた安田春雄は、新井夫妻とは旧知の間柄の先輩だ。結婚の挨拶にも来たほどの関係だけに、2人を祝福し名古屋から愛車で東京まで送り届けた。
「私たち3人だけで、東京まで人に会わないまま帰ることが出来ましたから。安田さんには、助けられました」。
この試合で操夫人から勧められ、かぶり始めたチロリアンハットがトレードマークにもなる。「ハットマン」として輝き始めた新井は、かつらメーカーのアデランスとも契約。「大丈夫ですよ」のCMで、一躍お茶の間の人気者にもなった。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
当時は男女同時開催。2万2千人の大ギャラリーが見つめる中、男子の部の優勝争いは2人のマッチレースとなっていた。
13アンダーの首位でスタートした松田司郎がアウトで「39」を叩きズルズル後退。変わってトップに浮上したのが新井規矩雄と河野高明だった。
未勝利の28歳・新井にとっては、分の悪い相手には違いなかった。相手は杉本英世、安田春雄とともに「和製ビッグスリー」と称される32歳の河野高明。1969、70年と2年連続してマスターズに出場。69年にはパー5で2つ、パー4で2つのイーグルを出し、3日目に一時的にトップに立ってもいた。162センチと小柄ながらこの年は13位、翌年も12位と健闘し、「リトルコーノ」と異名を取るほどの人気選手だった。
そんな状況ながら大ギャラリーを前に新井の健闘が続く。すでに優勝をもぎ取るにふさわしい実力は身につけていた。この日からさかのぼること約3年。新井はあこがれの選手である戸田藤一郎のもとを訪ねていた。
戸田は1936年に日本選手として初めてマスターズに出場、1939年には日本で年間グランドスラムを達成した「トイチ」と呼ばれる大選手。新井は戸田の本を読み漁ったが、当時はスイングの連続写真すら見つからない。そこでゴルフ週刊誌の取材を兼ねて戸田との面会に成功。京都の田辺カントリー倶楽部で1ホールではあるが「一緒にラウンドして、ダウンブローに打つ打ち方を教えてもらった」(新井)。その技術を自分のものにするため、必死に練習を重ねてすでに3年が経過していた。
勝たねばならぬ時期にも来ていた。この年の1月に結婚したばかりの操夫人は、この大会も4日間、プレーを見守り続けていた。地元紙にはキャディーの目撃談として「新井さんがミスプレーした時など、奥様の『忘れて次頑張りましょう』の声援は新井さんにとっては何よりの励まし」という証言も掲載されていた。
運も味方した。サンデーバックナインに入る時点で、トップは13アンダーの河野。1打差の2位で1組前の新井が追う展開となっていた。新井は10番ボギーの後11番でバーディを奪い返して迎えた12番のティーショットを、行ってはいけない右方向へプッシュアウト。万事休すかと思われたが、ボールはOBゾーンから2メートル手前に止まっておりセーフ。この大ピンチから一転、連続バーディに結び付けると13番もパーで切り抜ける。しかし後ろの組の河野も10番から新井と全くの同スコア。1打リードをキープしていた。
14番で新井がバーディを奪い、河野と14アンダーで並んだが、続く15番で河野がバーディ。再び首位の河野を新井が1打差で追走する形で上がり3ホールを迎えることになる。
河野は16番のパー3で左の崖下に落としボギーを叩き、新井に並ばれたが今度は新井が続く17番で3パットのボギー。自らのミスで首位を明け渡した。すると今度は河野が同じ17番で致命的なミスを犯す。8番アイアンで手前から攻める慎重策を捨て、7番アイアンでピンを狙った強硬策は完全に裏目。右のバンカーにつかまり、3打目はピンを5メートルもショート。このパーパットが1メートルオーバーしてしまう。下りのフックライン。この日好調だったパットがカップをなめただけで入らない。3オン3パットのダブルボギーで、新井はタナボタの首位に立った。
しかし新井はそれを知らないまま、18番のティショットを振り抜いた。第2打もピン左6メートルに2オンしたが、バーディパットを決められず2パットのパーでホールアウトした。この時点で新井は河野に1打差の2位だと思い込んでいた。
その後18番グリーンで待つうちに、河野が17番で3オン3パットのダボを叩き、1打リードしていることを知る。河野の18番パーが決定的となり、新井は自らの勝利を確信した。クラブハウス2階のロビーで、新井と操夫人はしっかり抱き合いうれし涙を流したという描写も、当時の地元紙には散見される。
河野とともに、ビッグスリーの一角を担っていた安田春雄は、新井夫妻とは旧知の間柄の先輩だ。結婚の挨拶にも来たほどの関係だけに、2人を祝福し名古屋から愛車で東京まで送り届けた。
「私たち3人だけで、東京まで人に会わないまま帰ることが出来ましたから。安田さんには、助けられました」。
この試合で操夫人から勧められ、かぶり始めたチロリアンハットがトレードマークにもなる。「ハットマン」として輝き始めた新井は、かつらメーカーのアデランスとも契約。「大丈夫ですよ」のCMで、一躍お茶の間の人気者にもなった。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)