17番のパー5、第2打地点。この日28回目の誕生日を迎えた陳清波のドライバーがうなりを上げた。
日本オープン初制覇に向けて、これが勝負の「直ドラ」となった。低く飛び出したボールは一直線にグリーンを目指す。「第2打でもドライバーを使えば40〜50ヤードランが出て、230から240飛ぶ。最後でそれがうまく行ったよね」と陳自らが振り返る会心のショット。ボールは、はるか先のグリーンを、しっかりとらえた。
約10メートルのロングパットを、確実に2パットで収めてバーディ。45歳のベテラン・島村祐正の夢を打ち砕きとどめを刺したのが、この2オンに成功したドライバーでのショットだった。
24回目にして、大会史上初のプレーオフへともつれこんだ1959年日本オープン。大詰めとなった17番のショットだった。63年前、当時の模様を報じる新聞にも、すでに「日本ゴルフ界最大のイベント」という扱いで大きく取り上げられている。1957年、霞ヶ関カンツリー倶楽部で開催されたカナダカップ(現ワールドカップ)で中村寅吉・小野光一のコンビが団体V、中村が個人戦VのW快挙を成し遂げてからわずか2年。ゴルフブームが沸騰し、予選ラウンドで最大の注目を集めていたのもやはり中村だった。
だがその中村、小野を始め小針春芳、石井朝夫といった優勝候補たちが軒並み7255ヤード、パー74のコースにてこずる。相模原特有の距離の長さと巨大なグリーンに各選手が四苦八苦。そんな中、静かなスタートを切ったのがのちに「東洋のベン・ホーガン」と称賛され、自らのショットの特長である「ダウンブロー」を浸透させる陳だった。
初日は「76」で、首位に7打差の21位。2日目も18位ながら、首位に立った島村との差は9に開いていた。
しかし36ホールの長丁場となる最終日に、陳の猛追が開始された。午前の18ホールを1アンダーの73で回ると、午後のアウトを3アンダーの34。首位との差はあっという間に「1」にまで詰まっていた。中村寅吉も午前のラウンドでコースレコードタイの「69」をマーク。一気に首位に並び優勝の行方は混とんとしてきた。
しかし中村は大事な午後のアウトの2番で3パットと急ブレーキがかかる。4,6,9番とボギーを叩きアウトを41。12番のOBが致命傷となり万事休した。
一方、陳にも最後のバック9に入ったところで試練が訪れる。10、11番と連続して3パット。脱落したかに見えたが、13、14番と連続バーディを奪って再び首位戦線に浮上した。
陳はそのまま後半のハーフを「37」のパープレーにまとめ、最終ラウンドは3アンダーの「71」。前年にメキシコで行われたカナダカップで個人9位にも入った実力が、改めて注目を集めることとなった。
陳が通算296のイーブンパーでホールアウトすると、後から回っている島村に重圧がかかってくる。島村はインをパープレーで回れば優勝ながら、16番のパー3で1メートルのパーパットを外してしまう。ついに追いつかれた島村は陳と首位に並んでホールアウト。勝負は大会史上初となる、翌日18ホールのプレーオフに持ち越された。
この時点でダークホース的な存在の陳だったが、手ごたえはつかんでいた。17歳から台湾の近所にあった淡水ゴルフクラブで修行を積んだ。「淡水のフェアウェイは雑草ばかりで、赤土の上にボールがあることも多くてすごく難しい。打ち込まないとボールが上がらないの。だから自然にダウンブローのスイングが身についた」と当時を振り返った。
22歳でプロになると、1954年、55年と半年間来日し、川奈で陳清水の教えを受けた。その後東京ゴルフ倶楽部に所属。日本オープンに備えて相模原を視察した後、東京GCに戻ってみっちり練習を積んでいた。「相模原はコースが長い。だから長いクラブを1か月間、徹底的に練習したんです」。
「日本の芝はコーライだから打ちやすい。フェアウェイがグリーンみたいに感じたほどです(笑)。だから払い打ちが出来るけど、台湾だとフェアウェイウッドもダウンブローに打つ。スプーン(3W)でターフを取るのは難しいんです。淡水育ちの私には、フェアウェイが相当易しく感じた」。陳自身、すでにカナダカップには1956年の英国大会、57年の日本大会、58年のメキシコ大会と3回も出場して国際大会の経験も豊富に積んでいた。日本オープン後の豪州大会の代表選手にも、選ばれていたのだ。
そんな陳の自信が、一騎打ちのプレーオフでものを言った。島村は出足直後の2番ホール、パー5のティーショットを左に曲げる。3番ウッドで前方にある松の木の間を抜こうとしたが、ボールは幹を直撃。高い音を発してラフに戻る。あげくに4オンした後3パット。大事な立ち上がりでダブルボギーの「7」を叩き、目の前の陳を楽にしてしまう。
いきなり来た勝負時を、陳は逃さない。続く3番で陳が3メートル、右下がりの傾斜を読み切ってバーディ。3ホールで3打差をつけ完全に主導権を奪った。こうなると、リズミカルなスイングが持ち味の島村のゴルフに狂いが生じてくる。
ショットは左、左と曲がり始め、パットも5番で80センチ、7番の1メートルも決められずボギー。アウトを4オーバーの41で、陳との差は5ストローク。13番で第3ラウンド以来45ホールぶりのバーディが来たが、時すでに遅し。ホールを重ねるにつれ勝負の行方は定まっていった。
そして冒頭の17番、パー5を迎える。磨き上げたドライバーを含めたウッドのショットが、長い相模原で絶大な威力を発揮した。「相模原での試合に備えて、長いクラブを徹底的に練習したからね。それが生きた。」と陳はしみじみと振り返り、さらにこう続けた。「淡水は風が強いから、低いボールで攻めないと、風でボールが戻されてしまう。低いボールで攻めて、グリーンに止めるためにはランも計算した上で打って行かなくちゃならない。そうした経験も、生きたと思う」。
圧勝でつかんだビッグタイトル。だが翌年、陳はほぼ手中に収めた2連覇のタイトルを逃してしまう。狙った廣野ゴルフ倶楽部の日本オープンでは最終日、2位に3打差をつけてホールアウトしたものの、11番のボギー(5)を4と記入されたスコアを提出し過少申告で失格。快挙をショッキングな形で逃してしまった。
「2連覇といえば大変なことだったんで、ホールアウトした直後に報道陣に囲まれて、話しているうち、ろくに勘定もしないままサインして提出してしまった。でもその後(スコア)誤記はなくなったし、報道陣も取材の仕方を考えてくれるようになった。ゴルフ界も変わったわけで、そういう意味では、良かったと思うよ」。63年後に笑い話にできるほど、その後の活躍もまた素晴らしかったということ。マスターズにも6年連続して出場し、すべて予選を通過。日本のプロゴルフ殿堂入りも果たしている。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
日本オープン初制覇に向けて、これが勝負の「直ドラ」となった。低く飛び出したボールは一直線にグリーンを目指す。「第2打でもドライバーを使えば40〜50ヤードランが出て、230から240飛ぶ。最後でそれがうまく行ったよね」と陳自らが振り返る会心のショット。ボールは、はるか先のグリーンを、しっかりとらえた。
約10メートルのロングパットを、確実に2パットで収めてバーディ。45歳のベテラン・島村祐正の夢を打ち砕きとどめを刺したのが、この2オンに成功したドライバーでのショットだった。
24回目にして、大会史上初のプレーオフへともつれこんだ1959年日本オープン。大詰めとなった17番のショットだった。63年前、当時の模様を報じる新聞にも、すでに「日本ゴルフ界最大のイベント」という扱いで大きく取り上げられている。1957年、霞ヶ関カンツリー倶楽部で開催されたカナダカップ(現ワールドカップ)で中村寅吉・小野光一のコンビが団体V、中村が個人戦VのW快挙を成し遂げてからわずか2年。ゴルフブームが沸騰し、予選ラウンドで最大の注目を集めていたのもやはり中村だった。
だがその中村、小野を始め小針春芳、石井朝夫といった優勝候補たちが軒並み7255ヤード、パー74のコースにてこずる。相模原特有の距離の長さと巨大なグリーンに各選手が四苦八苦。そんな中、静かなスタートを切ったのがのちに「東洋のベン・ホーガン」と称賛され、自らのショットの特長である「ダウンブロー」を浸透させる陳だった。
初日は「76」で、首位に7打差の21位。2日目も18位ながら、首位に立った島村との差は9に開いていた。
しかし36ホールの長丁場となる最終日に、陳の猛追が開始された。午前の18ホールを1アンダーの73で回ると、午後のアウトを3アンダーの34。首位との差はあっという間に「1」にまで詰まっていた。中村寅吉も午前のラウンドでコースレコードタイの「69」をマーク。一気に首位に並び優勝の行方は混とんとしてきた。
しかし中村は大事な午後のアウトの2番で3パットと急ブレーキがかかる。4,6,9番とボギーを叩きアウトを41。12番のOBが致命傷となり万事休した。
一方、陳にも最後のバック9に入ったところで試練が訪れる。10、11番と連続して3パット。脱落したかに見えたが、13、14番と連続バーディを奪って再び首位戦線に浮上した。
陳はそのまま後半のハーフを「37」のパープレーにまとめ、最終ラウンドは3アンダーの「71」。前年にメキシコで行われたカナダカップで個人9位にも入った実力が、改めて注目を集めることとなった。
陳が通算296のイーブンパーでホールアウトすると、後から回っている島村に重圧がかかってくる。島村はインをパープレーで回れば優勝ながら、16番のパー3で1メートルのパーパットを外してしまう。ついに追いつかれた島村は陳と首位に並んでホールアウト。勝負は大会史上初となる、翌日18ホールのプレーオフに持ち越された。
この時点でダークホース的な存在の陳だったが、手ごたえはつかんでいた。17歳から台湾の近所にあった淡水ゴルフクラブで修行を積んだ。「淡水のフェアウェイは雑草ばかりで、赤土の上にボールがあることも多くてすごく難しい。打ち込まないとボールが上がらないの。だから自然にダウンブローのスイングが身についた」と当時を振り返った。
22歳でプロになると、1954年、55年と半年間来日し、川奈で陳清水の教えを受けた。その後東京ゴルフ倶楽部に所属。日本オープンに備えて相模原を視察した後、東京GCに戻ってみっちり練習を積んでいた。「相模原はコースが長い。だから長いクラブを1か月間、徹底的に練習したんです」。
「日本の芝はコーライだから打ちやすい。フェアウェイがグリーンみたいに感じたほどです(笑)。だから払い打ちが出来るけど、台湾だとフェアウェイウッドもダウンブローに打つ。スプーン(3W)でターフを取るのは難しいんです。淡水育ちの私には、フェアウェイが相当易しく感じた」。陳自身、すでにカナダカップには1956年の英国大会、57年の日本大会、58年のメキシコ大会と3回も出場して国際大会の経験も豊富に積んでいた。日本オープン後の豪州大会の代表選手にも、選ばれていたのだ。
そんな陳の自信が、一騎打ちのプレーオフでものを言った。島村は出足直後の2番ホール、パー5のティーショットを左に曲げる。3番ウッドで前方にある松の木の間を抜こうとしたが、ボールは幹を直撃。高い音を発してラフに戻る。あげくに4オンした後3パット。大事な立ち上がりでダブルボギーの「7」を叩き、目の前の陳を楽にしてしまう。
いきなり来た勝負時を、陳は逃さない。続く3番で陳が3メートル、右下がりの傾斜を読み切ってバーディ。3ホールで3打差をつけ完全に主導権を奪った。こうなると、リズミカルなスイングが持ち味の島村のゴルフに狂いが生じてくる。
ショットは左、左と曲がり始め、パットも5番で80センチ、7番の1メートルも決められずボギー。アウトを4オーバーの41で、陳との差は5ストローク。13番で第3ラウンド以来45ホールぶりのバーディが来たが、時すでに遅し。ホールを重ねるにつれ勝負の行方は定まっていった。
そして冒頭の17番、パー5を迎える。磨き上げたドライバーを含めたウッドのショットが、長い相模原で絶大な威力を発揮した。「相模原での試合に備えて、長いクラブを徹底的に練習したからね。それが生きた。」と陳はしみじみと振り返り、さらにこう続けた。「淡水は風が強いから、低いボールで攻めないと、風でボールが戻されてしまう。低いボールで攻めて、グリーンに止めるためにはランも計算した上で打って行かなくちゃならない。そうした経験も、生きたと思う」。
圧勝でつかんだビッグタイトル。だが翌年、陳はほぼ手中に収めた2連覇のタイトルを逃してしまう。狙った廣野ゴルフ倶楽部の日本オープンでは最終日、2位に3打差をつけてホールアウトしたものの、11番のボギー(5)を4と記入されたスコアを提出し過少申告で失格。快挙をショッキングな形で逃してしまった。
「2連覇といえば大変なことだったんで、ホールアウトした直後に報道陣に囲まれて、話しているうち、ろくに勘定もしないままサインして提出してしまった。でもその後(スコア)誤記はなくなったし、報道陣も取材の仕方を考えてくれるようになった。ゴルフ界も変わったわけで、そういう意味では、良かったと思うよ」。63年後に笑い話にできるほど、その後の活躍もまた素晴らしかったということ。マスターズにも6年連続して出場し、すべて予選を通過。日本のプロゴルフ殿堂入りも果たしている。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)