眼前には日本海が広がる。本州最西端の地からほど近いシーサイドコース、下関ゴルフ倶楽部で行われた1991年の日本オープンは、最大瞬間風速14メートルが吹き荒れる難コンディションのもとで開幕した。太平洋上には台風21号があり、離れてはいたが下関にも少なからず影響があった。
この大会、中嶋常幸にとって大きな意味を持っていた。85年の東名古屋大会、翌86年の戸塚・西大会と連覇を成し遂げた中嶋は、前年の90年小樽大秋大会でジャンボ尾崎との接戦を制し日本オープン3勝目。2度目の連覇、戦後最多となる大会V4がかかっていたからだ。
■2日目の上がり3ホールで大叩き■
だが、やはり連覇は容易ではなかった。2日目の大詰め、16番からボギー、ボギー、ダブルボギー。最悪の上り3ホールとなり、初日のイーブンパー・9位から2オーバーの11位に後退した。首位との差は2打から6打まで広がり優勝ははるか彼方へと遠のいた。このとき、中嶋(当時36歳)はキャディーの波場イサク(当時24歳)に対し、つい厳しい言葉を浴びせてしまった。
「まあ、よくある選手がキャディーに当たるということ」と中嶋は当時の状況を振り返った後、「でも、イサクはそれでもへそを曲げることなく『はい、そうですね』と受け入れてくれた。ひと回りも違うけど、彼にはそういう言葉すら受容できる力があった。(中嶋よりも)ひと回りも若いのに、包容力があるんです」と続けた。
雨降って地固まる。このやり取りにより、中嶋と波場の信頼関係はさらに深まった。それが決勝ラウンドに入ると、驚異的な粘りへとつながっていった。3日目も強風と雨がたたきつけ、トータルアンダーパーの選手は誰もいなくなる。悪コンディションの中、中嶋は1アンダーの71で回り通算1オーバー、首位に1打差の4位で最終日へと突入した。
この後、長く語り継がれるドラマの幕が開かれる。トップに並んでいた牧野裕、室田淳、溝口英二の3人がズルズル後退。スコアカードどおりにパーを重ねる中嶋は、早くも5番で単独のトーナメントリーダーとなった。
6番でついにバーディーが来てトータルイーブンパー。ところが優勝への視界が開けた7番、441ヤードのパー4で悪夢のような出来事が起きた。ティーショットが右のラフにつかまり、第2打はボールの下をくぐりまさかのテンプラ。続く3打目が、あろうことかOBゾーンに消える。なんとこのホール、ダブルパーの8を叩いてしまった。
一気に4オーバーまで後退。だがこのとき、中嶋の耳に波場の明るい声が飛び込んできた。「さあ、ここから始めましょう!」。2日目の事件から、ここまでの間に築かれた信頼関係があればこそ、中嶋の心にこの言葉が染み渡る。
■キャディのひと言から再びトップへ■
「よし、やってやろうという気になれた。あんなに平常心で、次のホールに迎えられたことはなかった」と、中嶋は振り返る。
さすがにこれは立ち直れまい。誰もが中嶋の脱落を予想した8番ホール。予想をひっくり返すさらなるドラマが始まった。8番をバーディーでひとつスコアを取り戻すと、9番でも右のラフからグリーンをとらえる。「下りのスライスラインを入れて、トップに並んだ」(中嶋)。11番でボギーを叩いても動じない。難所が続くインコースをしのいでしのいで、最終ホールにたどり着いた。このとき中嶋は3オーバー。すでに1時間近く前に須貝昇が通算2オーバーで上がっていた。最終18番でバーディー以上の結果を残すしか、2連覇の可能性はない状況にまで追い込まれた。
その土壇場で、中嶋のティーショットは右のラフにつかまったが、前は開けておりグリーンが狙えた。第2打はピンの奥25メートルについた。この勝負のパット、やや上りのスライスラインを最後は右カップからねじ込んで、ガッツポーズ。値千金のバーディーをもぎ取り、須貝と一騎打ちのプレーオフに持ち込んだ。
須貝は約1時間待たされていた。最後の最後で追いついた中嶋。プレーオフは17番、224ヤードのパー3から。先に打つのは中嶋。追いついた勢いそのままに、3番アイアンでピン下3メートルにピタリとつけた。一方、須貝は5番ウッドでグリーンを狙うも、左からの風に押されてグリーンを右奥に外してしまった。
■あそこまで『やってやろう』という気持ちになったことはなかった■
追い込まれた須貝は、このアプローチで積極的にカップを狙ったが、ボールは無情にも2.5メートルオーバー。さらに形勢は悪くなった。中嶋は1パットで優勝という場面。狙っていったパットはカップの右フチから滑るように1回転して外れた。思わずヒザから崩れ落ちた中嶋だが、苦笑しながらタップインのパー。一方の須貝は入れれば次の18番ホールへと持ち越せる、勝負のパット。しかしボールは無情にもカップの右を抜けていった。
その瞬間、中嶋は一瞬再び崩れ落ちたが、すぐに立ち上がり、須貝と握手。駆け付けた律子夫人と歓喜の抱擁を交わし、2度目の日本オープン連覇を喜んだ。今、31年前の快挙を振り返って、中嶋は言う。「あの試合は、本当に(キャディーの)イサクに助けられた。8を打ってさえも精神的なダメージがなかったのは、イサクのおかげ。長いこと選手をやってるけど、あそこまで『やってやろう』という気持ちになったことはなかったもの」と。そう一気に語ってから、「キャディーって、ものすごく大事な存在なんだと、改めて分からせてもらった優勝だった」と、締めくくった。
コースの上で、唯一の味方であるキャディーの存在。2人の信頼関係が究極のレベルまで達したとき、コンビの力は3倍、4倍にも膨れ上がる。難所下関で中嶋は、それを多くのファンに証明して見せた。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)
この大会、中嶋常幸にとって大きな意味を持っていた。85年の東名古屋大会、翌86年の戸塚・西大会と連覇を成し遂げた中嶋は、前年の90年小樽大秋大会でジャンボ尾崎との接戦を制し日本オープン3勝目。2度目の連覇、戦後最多となる大会V4がかかっていたからだ。
■2日目の上がり3ホールで大叩き■
だが、やはり連覇は容易ではなかった。2日目の大詰め、16番からボギー、ボギー、ダブルボギー。最悪の上り3ホールとなり、初日のイーブンパー・9位から2オーバーの11位に後退した。首位との差は2打から6打まで広がり優勝ははるか彼方へと遠のいた。このとき、中嶋(当時36歳)はキャディーの波場イサク(当時24歳)に対し、つい厳しい言葉を浴びせてしまった。
「まあ、よくある選手がキャディーに当たるということ」と中嶋は当時の状況を振り返った後、「でも、イサクはそれでもへそを曲げることなく『はい、そうですね』と受け入れてくれた。ひと回りも違うけど、彼にはそういう言葉すら受容できる力があった。(中嶋よりも)ひと回りも若いのに、包容力があるんです」と続けた。
雨降って地固まる。このやり取りにより、中嶋と波場の信頼関係はさらに深まった。それが決勝ラウンドに入ると、驚異的な粘りへとつながっていった。3日目も強風と雨がたたきつけ、トータルアンダーパーの選手は誰もいなくなる。悪コンディションの中、中嶋は1アンダーの71で回り通算1オーバー、首位に1打差の4位で最終日へと突入した。
この後、長く語り継がれるドラマの幕が開かれる。トップに並んでいた牧野裕、室田淳、溝口英二の3人がズルズル後退。スコアカードどおりにパーを重ねる中嶋は、早くも5番で単独のトーナメントリーダーとなった。
6番でついにバーディーが来てトータルイーブンパー。ところが優勝への視界が開けた7番、441ヤードのパー4で悪夢のような出来事が起きた。ティーショットが右のラフにつかまり、第2打はボールの下をくぐりまさかのテンプラ。続く3打目が、あろうことかOBゾーンに消える。なんとこのホール、ダブルパーの8を叩いてしまった。
一気に4オーバーまで後退。だがこのとき、中嶋の耳に波場の明るい声が飛び込んできた。「さあ、ここから始めましょう!」。2日目の事件から、ここまでの間に築かれた信頼関係があればこそ、中嶋の心にこの言葉が染み渡る。
■キャディのひと言から再びトップへ■
「よし、やってやろうという気になれた。あんなに平常心で、次のホールに迎えられたことはなかった」と、中嶋は振り返る。
さすがにこれは立ち直れまい。誰もが中嶋の脱落を予想した8番ホール。予想をひっくり返すさらなるドラマが始まった。8番をバーディーでひとつスコアを取り戻すと、9番でも右のラフからグリーンをとらえる。「下りのスライスラインを入れて、トップに並んだ」(中嶋)。11番でボギーを叩いても動じない。難所が続くインコースをしのいでしのいで、最終ホールにたどり着いた。このとき中嶋は3オーバー。すでに1時間近く前に須貝昇が通算2オーバーで上がっていた。最終18番でバーディー以上の結果を残すしか、2連覇の可能性はない状況にまで追い込まれた。
その土壇場で、中嶋のティーショットは右のラフにつかまったが、前は開けておりグリーンが狙えた。第2打はピンの奥25メートルについた。この勝負のパット、やや上りのスライスラインを最後は右カップからねじ込んで、ガッツポーズ。値千金のバーディーをもぎ取り、須貝と一騎打ちのプレーオフに持ち込んだ。
須貝は約1時間待たされていた。最後の最後で追いついた中嶋。プレーオフは17番、224ヤードのパー3から。先に打つのは中嶋。追いついた勢いそのままに、3番アイアンでピン下3メートルにピタリとつけた。一方、須貝は5番ウッドでグリーンを狙うも、左からの風に押されてグリーンを右奥に外してしまった。
■あそこまで『やってやろう』という気持ちになったことはなかった■
追い込まれた須貝は、このアプローチで積極的にカップを狙ったが、ボールは無情にも2.5メートルオーバー。さらに形勢は悪くなった。中嶋は1パットで優勝という場面。狙っていったパットはカップの右フチから滑るように1回転して外れた。思わずヒザから崩れ落ちた中嶋だが、苦笑しながらタップインのパー。一方の須貝は入れれば次の18番ホールへと持ち越せる、勝負のパット。しかしボールは無情にもカップの右を抜けていった。
その瞬間、中嶋は一瞬再び崩れ落ちたが、すぐに立ち上がり、須貝と握手。駆け付けた律子夫人と歓喜の抱擁を交わし、2度目の日本オープン連覇を喜んだ。今、31年前の快挙を振り返って、中嶋は言う。「あの試合は、本当に(キャディーの)イサクに助けられた。8を打ってさえも精神的なダメージがなかったのは、イサクのおかげ。長いこと選手をやってるけど、あそこまで『やってやろう』という気持ちになったことはなかったもの」と。そう一気に語ってから、「キャディーって、ものすごく大事な存在なんだと、改めて分からせてもらった優勝だった」と、締めくくった。
コースの上で、唯一の味方であるキャディーの存在。2人の信頼関係が究極のレベルまで達したとき、コンビの力は3倍、4倍にも膨れ上がる。難所下関で中嶋は、それを多くのファンに証明して見せた。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)