日本最高峰のタイトルである日本オープン。相模原CC西コース(神奈川県)が舞台となった1980年の大会に参加した選手の中で、このタイトルに強烈な執着を見せていたのが、当時38歳の青木功だった。
青木はこのときすでに日本プロ1勝、関東オープン3勝、関東プロ5勝、日本プロマッチプレー2勝、日本シリーズ2勝と、日本オープンを除く国内の公式戦はすべて制覇。しかし日本オープンに限っては、直近の10年間で4回も途中首位に立ちながら、タイトルを逃し続けていた。
■大本命は青木功 だが初日首位に立ったのは菊地勝司だった
しかもこの年、青木は6月15日に終了した全米オープンで帝王ジャック・ニクラウスと死闘を演じて2位に入ったばかり。世界のゴルフファンに「アオキ」の名を轟かせてから、わずか5カ月にも満たなかった。大会前の時点で、すでに3年連続の賞金王も確実にしていただけに、大本命の存在となっていた。
初日、首位に飛び出したのはビッグ・スギこと杉本英世の愛弟子である菊地勝司だった。強風の中、日本オープンの難しいセットアップで6バーディ。うち4つまでが1メートル以内のパットとショットの冴えを見せただけでなく、わずか24パットと小技も光り5アンダーのロケットスタートに成功した。
一方、大本命の青木はインからスタートして40を叩く大誤算。初日は4オーバーの78という惨憺たるスコアで、首位の菊地に9打離されての49位と、大きく出遅れた。
2日目。菊地を思わぬアクシデントが襲った。4番をホールアウトして5番に向かう途中、使用していたアクシネット・T型パターのヘッドがネックのところからポッキリ折れた。「びっくりしましたね。歩きながらコンクリートのところにポン、とついたらいきなりポキンと折れたんです」と菊地は振り返る。
しかしこのとき、菊地はツイていた。競技委員の川田太三氏がその場に居合わせており、このアクシデントが不可抗力によるものだと証言。さらに4番ホールが駐車場に近かったことから「応援に来てくれていた人に頼んで、クルマにおいてある予備のパターを持ってきてもらえて」5番のグリーンに間に合った。
「そのパターも、もともと使っていたトミー・アーマーのL字」。川田氏の証言と居合わせた友人のサポート、駐車場が近かったことと、クルマに予備のパターが置いてあったこと……。いくつもの幸運が重なって、スムーズにプレーを続けることができた。
6アンダーにスコアを伸ばし、単独首位をキープしたまま決勝ラウンドに進出。初日に出遅れた青木も8番でチップインバーディーのあと、10番から3連続バーディ。この日ベストスコアの70をマークして通算イーブンパーの9位タイにまで浮上してきた。
2日目に続き、穏やかな気候で行われた3日目。菊地はパープレーの74にまとめ、川田時志春とともに通算6アンダーで首位を守った。青木も74で、首位との差は6のまま、最終日を迎えることとなった。
翌日はまったく逆方向の風が吹きすさび、各選手を悩ませた。最終組の菊地も例外ではなく「風がうまく読めず」グリーンを外し続けた。1番でいきなりボギーを叩いてつまづくと、4番ではダブルボギー。続く5番でもボギーを叩き、通算2アンダーまで後退。序盤からバーディを重ね4アンダーまでスコアを伸ばした吉川一雄にあっさりと首位を明け渡してしまった。
しかし吉川も人の子。13番で3パットのボギーを叩くと、人が変わったようにショットが乱れ始めた。15番でボギー、16番でダボ、17番でボギーと大きく崩れ通算1オーバーでフィニッシュ。
■パーで上がれば優勝の最終18番 菊地は覚悟を決めていた
青木も最終日、8、9番と連続ボギーを叩き、スコアを思うように伸ばせない。17番でも3パットのボギーを叩いた後、最終18番でようやく7メートルのバーディパットを決めてフィニッシュ。吉川と並んで1オーバーでホールアウトし、菊地の上りを待った。
このとき、菊地はイーブンパーまでスコアを落としながらも必死に踏ん張っていた。ひとつでもボギーを叩けば青木と吉川に並ばれる。そんな状況下で16番では2.5メートル、17番でも5メートルのパーパットを沈めた。
パーで上がれば優勝の最終18番。菊地はすでに覚悟を決めていた。「プレーオフになったら、間違いなく青木さんには勝てないな、と思った。ここをパーで上がるしかない」。
だが強烈なアゲンストの風が、菊地の体に叩きつけてきていた。「初日はドライバー、スプーンで2オンできたが、この日はウッド3回でも届かない風」(菊地)。そのため、2打目、3打目と得意なクリークでつないだ。ボールはグリーン手前の花道に止まり、アプローチは70センチについた。
苦節10年、悲願の初優勝が目の前にあった。高校時代は伊東高校(静岡県)で野球部のピッチャーだった菊地だが、卒業後は姉が嫁いだ東京・浅草の履物店に3年勤務。その後、野球部の監督に履物を届けたのが縁で杉本英世を紹介され弟子入り。東京よみうりCC、アジア下館、嵐山CCと師・杉本の所属が変わるたびに行動を共にした。
しかし大会2年前には嵐山との契約も切れ、厳しい立場に追い込まれていた。この大会前までは123万円しか稼いでおらず、この年初めて採用されたマンデー競技を突破して大会に駒を進めていた。
日本最高峰のタイトルと、向こう5年に及ぶほとんどの試合に出場できる権利と、優勝賞金800万円、そして副賞の三菱ギャラン。そのすべてが手に入るウイニングパットを、菊地はあっさりと決めてみせた。「最終日、しびれなかったのは、やはり杉本英世という師匠と、常に行動を共にできたおかげ。どんな選手と回っても、師匠に肩を並べるようなショットを打つ選手はいなかったですから」と菊地はいう。
初優勝が、日本オープン。「ラフに行ったら、サンドウェッジで上げたり転がしたり。それが基本」と語るアプローチが冴えに冴えた4日間。最終日も8番以外はすべてグリーンを外し、14ホールで1パット。うち12ホールがパーという、まさにガマンのゴルフによって、達成された快挙だった。
一方、またもしてもタイトル奪取目前で涙をのんだ青木が、悲願を果たすのは83年の六甲国際ゴルフ倶楽部で開催された日本オープン。この日から、さらに3年を要することになる。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)
青木はこのときすでに日本プロ1勝、関東オープン3勝、関東プロ5勝、日本プロマッチプレー2勝、日本シリーズ2勝と、日本オープンを除く国内の公式戦はすべて制覇。しかし日本オープンに限っては、直近の10年間で4回も途中首位に立ちながら、タイトルを逃し続けていた。
■大本命は青木功 だが初日首位に立ったのは菊地勝司だった
しかもこの年、青木は6月15日に終了した全米オープンで帝王ジャック・ニクラウスと死闘を演じて2位に入ったばかり。世界のゴルフファンに「アオキ」の名を轟かせてから、わずか5カ月にも満たなかった。大会前の時点で、すでに3年連続の賞金王も確実にしていただけに、大本命の存在となっていた。
初日、首位に飛び出したのはビッグ・スギこと杉本英世の愛弟子である菊地勝司だった。強風の中、日本オープンの難しいセットアップで6バーディ。うち4つまでが1メートル以内のパットとショットの冴えを見せただけでなく、わずか24パットと小技も光り5アンダーのロケットスタートに成功した。
一方、大本命の青木はインからスタートして40を叩く大誤算。初日は4オーバーの78という惨憺たるスコアで、首位の菊地に9打離されての49位と、大きく出遅れた。
2日目。菊地を思わぬアクシデントが襲った。4番をホールアウトして5番に向かう途中、使用していたアクシネット・T型パターのヘッドがネックのところからポッキリ折れた。「びっくりしましたね。歩きながらコンクリートのところにポン、とついたらいきなりポキンと折れたんです」と菊地は振り返る。
しかしこのとき、菊地はツイていた。競技委員の川田太三氏がその場に居合わせており、このアクシデントが不可抗力によるものだと証言。さらに4番ホールが駐車場に近かったことから「応援に来てくれていた人に頼んで、クルマにおいてある予備のパターを持ってきてもらえて」5番のグリーンに間に合った。
「そのパターも、もともと使っていたトミー・アーマーのL字」。川田氏の証言と居合わせた友人のサポート、駐車場が近かったことと、クルマに予備のパターが置いてあったこと……。いくつもの幸運が重なって、スムーズにプレーを続けることができた。
6アンダーにスコアを伸ばし、単独首位をキープしたまま決勝ラウンドに進出。初日に出遅れた青木も8番でチップインバーディーのあと、10番から3連続バーディ。この日ベストスコアの70をマークして通算イーブンパーの9位タイにまで浮上してきた。
2日目に続き、穏やかな気候で行われた3日目。菊地はパープレーの74にまとめ、川田時志春とともに通算6アンダーで首位を守った。青木も74で、首位との差は6のまま、最終日を迎えることとなった。
翌日はまったく逆方向の風が吹きすさび、各選手を悩ませた。最終組の菊地も例外ではなく「風がうまく読めず」グリーンを外し続けた。1番でいきなりボギーを叩いてつまづくと、4番ではダブルボギー。続く5番でもボギーを叩き、通算2アンダーまで後退。序盤からバーディを重ね4アンダーまでスコアを伸ばした吉川一雄にあっさりと首位を明け渡してしまった。
しかし吉川も人の子。13番で3パットのボギーを叩くと、人が変わったようにショットが乱れ始めた。15番でボギー、16番でダボ、17番でボギーと大きく崩れ通算1オーバーでフィニッシュ。
■パーで上がれば優勝の最終18番 菊地は覚悟を決めていた
青木も最終日、8、9番と連続ボギーを叩き、スコアを思うように伸ばせない。17番でも3パットのボギーを叩いた後、最終18番でようやく7メートルのバーディパットを決めてフィニッシュ。吉川と並んで1オーバーでホールアウトし、菊地の上りを待った。
このとき、菊地はイーブンパーまでスコアを落としながらも必死に踏ん張っていた。ひとつでもボギーを叩けば青木と吉川に並ばれる。そんな状況下で16番では2.5メートル、17番でも5メートルのパーパットを沈めた。
パーで上がれば優勝の最終18番。菊地はすでに覚悟を決めていた。「プレーオフになったら、間違いなく青木さんには勝てないな、と思った。ここをパーで上がるしかない」。
だが強烈なアゲンストの風が、菊地の体に叩きつけてきていた。「初日はドライバー、スプーンで2オンできたが、この日はウッド3回でも届かない風」(菊地)。そのため、2打目、3打目と得意なクリークでつないだ。ボールはグリーン手前の花道に止まり、アプローチは70センチについた。
苦節10年、悲願の初優勝が目の前にあった。高校時代は伊東高校(静岡県)で野球部のピッチャーだった菊地だが、卒業後は姉が嫁いだ東京・浅草の履物店に3年勤務。その後、野球部の監督に履物を届けたのが縁で杉本英世を紹介され弟子入り。東京よみうりCC、アジア下館、嵐山CCと師・杉本の所属が変わるたびに行動を共にした。
しかし大会2年前には嵐山との契約も切れ、厳しい立場に追い込まれていた。この大会前までは123万円しか稼いでおらず、この年初めて採用されたマンデー競技を突破して大会に駒を進めていた。
日本最高峰のタイトルと、向こう5年に及ぶほとんどの試合に出場できる権利と、優勝賞金800万円、そして副賞の三菱ギャラン。そのすべてが手に入るウイニングパットを、菊地はあっさりと決めてみせた。「最終日、しびれなかったのは、やはり杉本英世という師匠と、常に行動を共にできたおかげ。どんな選手と回っても、師匠に肩を並べるようなショットを打つ選手はいなかったですから」と菊地はいう。
初優勝が、日本オープン。「ラフに行ったら、サンドウェッジで上げたり転がしたり。それが基本」と語るアプローチが冴えに冴えた4日間。最終日も8番以外はすべてグリーンを外し、14ホールで1パット。うち12ホールがパーという、まさにガマンのゴルフによって、達成された快挙だった。
一方、またもしてもタイトル奪取目前で涙をのんだ青木が、悲願を果たすのは83年の六甲国際ゴルフ倶楽部で開催された日本オープン。この日から、さらに3年を要することになる。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)