1985年の日本プロゴルフ選手権。「7メートル、上りのまっすぐのライン」の上を、ボールは生き物のようにグリーンを転がり、カップに消えた。1万人近いギャラリーがぐるりと囲んだ16番。大歓声の中、ジェット・尾崎健夫は何度も両こぶしを天に向かって突き上げるガッツポーズを繰り返した。
プレーオフ1ホール目、劇的なバーディフィニッシュ。当時31歳のジェットにとって、通算5勝目は初めての公式戦タイトル。プロの試合としては日本最古の歴史を持つこの大会で2勝(1971、74年)している兄・ジャンボ尾崎とともに、歴代優勝者としてその名を刻むことになった。大会史上、兄弟制覇は石井哲雄、茂兄弟以来、31年ぶりの快挙だった。
狙って獲ったビッグタイトルではなかったという。この頃、深刻な腰痛に悩まされ始めていたからだ。「前のシーズンにぎっくり腰をやってしまって、この大会前も、順天堂病院でブロック注射を打ってもらってから、宿舎のある潮来(茨城)まで送ってもらった。試合に入ってからも勝ちたい、という気持ちはあまり強くなくて、無欲でプレーしている感じだったね」。
ところがこの腰痛は、ジェットに思わぬ副産物をもたらしていた。「左の腰が痛くて片足打法みたいなスイングになってたの。下半身が動かせない分、腕がよく振れるもんだから飛ぶんだよね」。ジェットは1981年の6月、米ツアープロテストに一発合格。杉本英世、青木功に次ぎ、日本人3人目の正式な米ツアーメンバーとなった。
翌82年は序盤から本格参戦。並みいる飛ばし屋を抑え、常にドライビングディスタンスのランキング首位を走り続けた。1月のボブホープ・デザート・クラシックでは初日「64」で首位タイのスタート。翌日も首位を守り、ジェット尾崎の名は一躍全米にとどろいた(結果は24位)。
そのジェットが、さらに飛ぶようになっている――。この事実は、プロ最高峰の座を虎視眈々と狙うライバルたちに大きな脅威となっていた。初日、海老原清治の腰痛欠場で繰り上げ出場の権利を得た伏兵・野口茂が6アンダーの「67」で飛び出す。ジェット、ジャンボ、ジョー(直道)の尾崎三兄弟はそろって首位から5打差、1アンダーでのスタートとなる。
舞台は距離がたっぷりあって、フェアウェイも広めに設定された茨城・セントラルGC東コース。ジェットに有利なセッティングであることは間違いなかった。
「それまでは日本のコースが狭いせいで、スライス打ってその幅に飛べばいいみたいな感じでプレーしてたんけど、その頃はようやくストレートボールに変えて、かなりその球筋を実感できるようになっていた。コースは距離があるから、自分に有利な条件ではあったよね。プロテストも(75年に)、ここで通っているしね」
2日目、ベストスコアの69をマークした鈴木弘一がトータル5アンダーで首位に立った。ジェットと直道が2打差の6位、さらに1打差でジャンボも追走と、尾崎家の3人はトップグループで前半2日間を折り返した。3日目。ついにジェットが通算4アンダーで宮本康弘、入野太とともに首位に並んだ。しかし1打差の4位にジャンボも浮上し、逆転優勝にピタリと照準を合わせていた。
最終日は3打差以内に12人がひしめく大混戦。壮絶なサバイバルゲームの末、最終18番にトータル4アンダーで首位に踏みとどまったのはジェットと、公式戦になると無類の強さを発揮する45歳のベテラン・金井清一だった。金井はこの試合までに通算11勝を挙げていたが、そのうちこの日本プロに2勝(1972、76年)、関東オープン(1978年)、関東プロ(1981年)と公式戦だけで4勝を挙げていた。
「ロングホールで押して行って押して行って、プレーオフまでこぎつけた感じだった」ジェットと金井による“番外"プレーオフは16番。パーをセーブして次のホールに歩きかけた金井の目の前で、冒頭のウイニングパットが決まった。格上の実力者を破り、歴代優勝者としてジャンボとともにその名を刻み込めただけに、喜びもひとしおだった。
一方、14歳年上の金井は「おれは悔しい。でも兄弟で優勝カップに名前を刻むなんてすばらしいじゃないか」と声をかけたという。「金井さんは当時『公式戦男』と呼ばれ、充実したシーズンを送っていた。あんな状況で、ちゃんとしたコメントをいただけた。つくづく立派だな、と思いました」(ジェット)。
兄・ジャンボと同じく徳島・海南高のエース。プロ野球ヤクルトからのドラフト4位指名を蹴ってプロゴルフの世界に飛び込んでから、プロ生活10年目に、ツアー5勝目となる公式戦制覇。「このビッグタイトルを取れたことで、自分でもなんとかプロでやっていけるだろうと、自信をもらえた優勝だった」とジェットも当時を懐かしそうに、振り返った。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
プレーオフ1ホール目、劇的なバーディフィニッシュ。当時31歳のジェットにとって、通算5勝目は初めての公式戦タイトル。プロの試合としては日本最古の歴史を持つこの大会で2勝(1971、74年)している兄・ジャンボ尾崎とともに、歴代優勝者としてその名を刻むことになった。大会史上、兄弟制覇は石井哲雄、茂兄弟以来、31年ぶりの快挙だった。
狙って獲ったビッグタイトルではなかったという。この頃、深刻な腰痛に悩まされ始めていたからだ。「前のシーズンにぎっくり腰をやってしまって、この大会前も、順天堂病院でブロック注射を打ってもらってから、宿舎のある潮来(茨城)まで送ってもらった。試合に入ってからも勝ちたい、という気持ちはあまり強くなくて、無欲でプレーしている感じだったね」。
ところがこの腰痛は、ジェットに思わぬ副産物をもたらしていた。「左の腰が痛くて片足打法みたいなスイングになってたの。下半身が動かせない分、腕がよく振れるもんだから飛ぶんだよね」。ジェットは1981年の6月、米ツアープロテストに一発合格。杉本英世、青木功に次ぎ、日本人3人目の正式な米ツアーメンバーとなった。
翌82年は序盤から本格参戦。並みいる飛ばし屋を抑え、常にドライビングディスタンスのランキング首位を走り続けた。1月のボブホープ・デザート・クラシックでは初日「64」で首位タイのスタート。翌日も首位を守り、ジェット尾崎の名は一躍全米にとどろいた(結果は24位)。
そのジェットが、さらに飛ぶようになっている――。この事実は、プロ最高峰の座を虎視眈々と狙うライバルたちに大きな脅威となっていた。初日、海老原清治の腰痛欠場で繰り上げ出場の権利を得た伏兵・野口茂が6アンダーの「67」で飛び出す。ジェット、ジャンボ、ジョー(直道)の尾崎三兄弟はそろって首位から5打差、1アンダーでのスタートとなる。
舞台は距離がたっぷりあって、フェアウェイも広めに設定された茨城・セントラルGC東コース。ジェットに有利なセッティングであることは間違いなかった。
「それまでは日本のコースが狭いせいで、スライス打ってその幅に飛べばいいみたいな感じでプレーしてたんけど、その頃はようやくストレートボールに変えて、かなりその球筋を実感できるようになっていた。コースは距離があるから、自分に有利な条件ではあったよね。プロテストも(75年に)、ここで通っているしね」
2日目、ベストスコアの69をマークした鈴木弘一がトータル5アンダーで首位に立った。ジェットと直道が2打差の6位、さらに1打差でジャンボも追走と、尾崎家の3人はトップグループで前半2日間を折り返した。3日目。ついにジェットが通算4アンダーで宮本康弘、入野太とともに首位に並んだ。しかし1打差の4位にジャンボも浮上し、逆転優勝にピタリと照準を合わせていた。
最終日は3打差以内に12人がひしめく大混戦。壮絶なサバイバルゲームの末、最終18番にトータル4アンダーで首位に踏みとどまったのはジェットと、公式戦になると無類の強さを発揮する45歳のベテラン・金井清一だった。金井はこの試合までに通算11勝を挙げていたが、そのうちこの日本プロに2勝(1972、76年)、関東オープン(1978年)、関東プロ(1981年)と公式戦だけで4勝を挙げていた。
「ロングホールで押して行って押して行って、プレーオフまでこぎつけた感じだった」ジェットと金井による“番外"プレーオフは16番。パーをセーブして次のホールに歩きかけた金井の目の前で、冒頭のウイニングパットが決まった。格上の実力者を破り、歴代優勝者としてジャンボとともにその名を刻み込めただけに、喜びもひとしおだった。
一方、14歳年上の金井は「おれは悔しい。でも兄弟で優勝カップに名前を刻むなんてすばらしいじゃないか」と声をかけたという。「金井さんは当時『公式戦男』と呼ばれ、充実したシーズンを送っていた。あんな状況で、ちゃんとしたコメントをいただけた。つくづく立派だな、と思いました」(ジェット)。
兄・ジャンボと同じく徳島・海南高のエース。プロ野球ヤクルトからのドラフト4位指名を蹴ってプロゴルフの世界に飛び込んでから、プロ生活10年目に、ツアー5勝目となる公式戦制覇。「このビッグタイトルを取れたことで、自分でもなんとかプロでやっていけるだろうと、自信をもらえた優勝だった」とジェットも当時を懐かしそうに、振り返った。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)