1990年10月、最後の日曜日。男子ツアー・ラークカップ(兵庫・ABCゴルフ倶楽部)の最終ラウンドは大詰めに差し掛かろうとしていた。残すところ、あと6ホール。13番のグリーン上では、川岸良兼がゆっくりとバーディパットのアドレスに入った。
強烈に速い2メートル、下りのフックライン。外れたら3パット必至のパットは、絶妙のタッチでカップに吸い込まれた。
大歓声が潮が引くように収まると、コースは期待感と緊張感が入り混じった、異様なムードに覆われ始めた。ついにジャンボまでが、23歳の怪物・川岸良兼の軍門に下るのか。川岸が見せる不敵な笑みとそのパワーが、20歳先輩のジャンボ・尾崎将司を追い詰めていく。
13、14番の連続バーディで川岸が1打リードして迎えた15番。535ヤードのパー5のティイングエリアに2人が立ったとき、左から右へ、強烈な風が吹き抜けていた。
ジャンボのティショットはその風に逆らうかのように大きくフックし、ラフでワンバウンドしたボールは左バンカー先の茂みへと消えていった。
追う立場の尾崎が、まさかのOB。打ち直し後の第4打でグリーンをとらえたものの2パットのボギー。一方の川岸は右ラフから2オン狙い。グリーン左バンカーの土手に当たり、右にバウンドしてグリーンをとらえた。楽々2パットで3ホール連続のバーディ。あっという間に3打差がついた。
ジャンボも17番でバーディを奪い返し、その差を「2」に詰め、最終18番を迎えた。ここで川岸のドライバーがうなりを上げた。秋空に舞い上がったボールが、いつまでたっても落ちてこない。おそらくはこのコースのメンバーたちの誰も見たことのない放物線を描いたボールは、ジャンボのショットを30ヤードもオーバーしていく戦慄のショットとなった。
536ヤードもあるパー5の第2打は打ち下ろしとは言え残り180ヤード。8番アイアンで5メートルに楽々2オンさせた。4番アイアンで7メートルに2オンさせていたジャンボも、これでは逆転も難しい。
ともに2パットのバーディで、川岸11アンダー、ジャンボ9アンダー。終わって見れば、パー5の18番を前にしての2打差は完全なセーフティーリードだった。ウィニングパットを拾い上げた川岸は、パターを持った右手と、ボールを握った左手を高々と突き上げバンザイ。その無邪気な表情を目の当たりにして、ジャンボもただただ苦笑を浮かべるしかなかった。
当時を振り返って、川岸が言う。「負けてもともとと思ってましたから、ノンプレッシャーです。怖いものなしでしたね」と笑ってから、謝った。「すいません、なめてました」。
末恐ろしい、大器の出現。スポーツ紙も1面で報じるほどの大騒ぎになったのは、シーズン3勝目が大きな意味を持っていたからだ。この年、川岸は開幕戦で中嶋(当時は中島)常幸と、公式戦の関東オープンで青木功と優勝争いを演じた末に破っていた。ジャンボを直接対決の末に力でねじ伏せることができたことで、当時日本を代表する3強と言われていた「AON」を1シーズンのうちに打ち破ったことにもなったのだ。
当時国内最強と言われていたジャンボとの因縁は、すでに高校時代から始まっていた。父が経営するゴルフ練習場(石川県小松市)に来ていたオリンピック出場経験者からトレーニングの指導を受ける幸運にも恵まれ、150キロだった背筋力は285キロに。ちょうど体が出来てきた頃の高校2年時にデサント北国オープンに出場し、3日目を終えて7位タイ。最終日こそ80を叩いてそれでも33位に入った。
すでにこの試合で、川岸はジャンボと直接対決してアウトドライブ。大騒ぎになっている。だが、このエピソードの裏には、さらなる仰天裏話がある。のちに川岸は週刊誌「パーゴルフ」で仰天告白をしていた。「実は『悪いな』と思って気を使っていたんです。(飛距離で)手を抜いてあげていた。ジャンボと回った時も、ジェットと回った時も」。
この大会では当時米ツアーでもナンバーワンの飛距離を誇っていたジャンボブラザースの次兄ジェット(健夫)ともラウンド。当時、周囲は川岸が全力でチャレンジしていったのだと勝手に思い込んでいたが、実はプロでも名うての飛ばし屋相手に、手加減していたというのだ。川岸は高校2年で、すでに大人に気を使うほどのパワーを秘めていたわけだ。
その後名門日大ゴルフ部に進み関東アマ、朝日杯日本学生(1987年)、日本アマ、日本学生、文部大臣杯(1988年)とタイトルを総なめにした。特に日本アマは「優勝できなければ(プロ入りを伸ばして)就職してでも日本アマを取りたい」と背水の陣を敷いてのタイトル奪取だった。
1989年秋にプロ入りし、翌年のシーズンにAONを倒してしまった川岸は、米ツアーでも「準メジャー」にランクされていた同年5月のメモリアル・トーナメントでも13位に入っていた。その実績もあって1991年は「夏までに許される米ツアーの試合をこなし、何としても13万ドルを獲得してライセンスを取る。もしだめなら年末のテスト受験を目指す」と海外へと舵を切ったが、逆にこれが苦難の道に入り込むキッカケとなった。予選落ちの連続となり、再渡米した8月のジ・インターナショナルで11位に入ったもののライセンス獲得には至らなかった。その末に臨んだQTにも落選。川岸は米ツアーの大きな壁にぶち当たった。
ジャンボを破ったあの日から、川岸に何が起こっていたのか。川岸は今、さばさばとした口調でこう語る。「海外の芝に、適応できなかったのが大きいですね。ラフは日本と違って、上から打ち込んでも全く飛ばせない。それでフェアウェイに打つしかなくなって、手打ちのようなスイングになっていったんです」。
AONを超える逸材と言われた川岸はイバラの道へと迷い込む。その後見かねたジャンボからジュンクラシックの会場で声をかけられ、川岸は軍団のトレーニングにも参加した。その甲斐もあって1999年、ラークカップから名称変更したフィリップモリスで優勝。思い出のABCGCでの復活劇となった。
それにしてもツアー通算7勝という数字は快進撃を演じた1990年のシーズンを振り返るたびに、誰もが物足りなさを感じるはずだ。川岸は今もシニアツアーで活躍中。「シャンクが出るんですよ」とぼやくものの、その顔に暗さは微塵もない。その飛び抜けたパワーは健在であるだけに、シニアでもう一花咲かせる可能性は十分にある。1年のうちにまだまだ強かったAON全員を撃破した男が、このまま終わってしまっていいはずがない。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)
強烈に速い2メートル、下りのフックライン。外れたら3パット必至のパットは、絶妙のタッチでカップに吸い込まれた。
大歓声が潮が引くように収まると、コースは期待感と緊張感が入り混じった、異様なムードに覆われ始めた。ついにジャンボまでが、23歳の怪物・川岸良兼の軍門に下るのか。川岸が見せる不敵な笑みとそのパワーが、20歳先輩のジャンボ・尾崎将司を追い詰めていく。
13、14番の連続バーディで川岸が1打リードして迎えた15番。535ヤードのパー5のティイングエリアに2人が立ったとき、左から右へ、強烈な風が吹き抜けていた。
ジャンボのティショットはその風に逆らうかのように大きくフックし、ラフでワンバウンドしたボールは左バンカー先の茂みへと消えていった。
追う立場の尾崎が、まさかのOB。打ち直し後の第4打でグリーンをとらえたものの2パットのボギー。一方の川岸は右ラフから2オン狙い。グリーン左バンカーの土手に当たり、右にバウンドしてグリーンをとらえた。楽々2パットで3ホール連続のバーディ。あっという間に3打差がついた。
ジャンボも17番でバーディを奪い返し、その差を「2」に詰め、最終18番を迎えた。ここで川岸のドライバーがうなりを上げた。秋空に舞い上がったボールが、いつまでたっても落ちてこない。おそらくはこのコースのメンバーたちの誰も見たことのない放物線を描いたボールは、ジャンボのショットを30ヤードもオーバーしていく戦慄のショットとなった。
536ヤードもあるパー5の第2打は打ち下ろしとは言え残り180ヤード。8番アイアンで5メートルに楽々2オンさせた。4番アイアンで7メートルに2オンさせていたジャンボも、これでは逆転も難しい。
ともに2パットのバーディで、川岸11アンダー、ジャンボ9アンダー。終わって見れば、パー5の18番を前にしての2打差は完全なセーフティーリードだった。ウィニングパットを拾い上げた川岸は、パターを持った右手と、ボールを握った左手を高々と突き上げバンザイ。その無邪気な表情を目の当たりにして、ジャンボもただただ苦笑を浮かべるしかなかった。
当時を振り返って、川岸が言う。「負けてもともとと思ってましたから、ノンプレッシャーです。怖いものなしでしたね」と笑ってから、謝った。「すいません、なめてました」。
末恐ろしい、大器の出現。スポーツ紙も1面で報じるほどの大騒ぎになったのは、シーズン3勝目が大きな意味を持っていたからだ。この年、川岸は開幕戦で中嶋(当時は中島)常幸と、公式戦の関東オープンで青木功と優勝争いを演じた末に破っていた。ジャンボを直接対決の末に力でねじ伏せることができたことで、当時日本を代表する3強と言われていた「AON」を1シーズンのうちに打ち破ったことにもなったのだ。
当時国内最強と言われていたジャンボとの因縁は、すでに高校時代から始まっていた。父が経営するゴルフ練習場(石川県小松市)に来ていたオリンピック出場経験者からトレーニングの指導を受ける幸運にも恵まれ、150キロだった背筋力は285キロに。ちょうど体が出来てきた頃の高校2年時にデサント北国オープンに出場し、3日目を終えて7位タイ。最終日こそ80を叩いてそれでも33位に入った。
すでにこの試合で、川岸はジャンボと直接対決してアウトドライブ。大騒ぎになっている。だが、このエピソードの裏には、さらなる仰天裏話がある。のちに川岸は週刊誌「パーゴルフ」で仰天告白をしていた。「実は『悪いな』と思って気を使っていたんです。(飛距離で)手を抜いてあげていた。ジャンボと回った時も、ジェットと回った時も」。
この大会では当時米ツアーでもナンバーワンの飛距離を誇っていたジャンボブラザースの次兄ジェット(健夫)ともラウンド。当時、周囲は川岸が全力でチャレンジしていったのだと勝手に思い込んでいたが、実はプロでも名うての飛ばし屋相手に、手加減していたというのだ。川岸は高校2年で、すでに大人に気を使うほどのパワーを秘めていたわけだ。
その後名門日大ゴルフ部に進み関東アマ、朝日杯日本学生(1987年)、日本アマ、日本学生、文部大臣杯(1988年)とタイトルを総なめにした。特に日本アマは「優勝できなければ(プロ入りを伸ばして)就職してでも日本アマを取りたい」と背水の陣を敷いてのタイトル奪取だった。
1989年秋にプロ入りし、翌年のシーズンにAONを倒してしまった川岸は、米ツアーでも「準メジャー」にランクされていた同年5月のメモリアル・トーナメントでも13位に入っていた。その実績もあって1991年は「夏までに許される米ツアーの試合をこなし、何としても13万ドルを獲得してライセンスを取る。もしだめなら年末のテスト受験を目指す」と海外へと舵を切ったが、逆にこれが苦難の道に入り込むキッカケとなった。予選落ちの連続となり、再渡米した8月のジ・インターナショナルで11位に入ったもののライセンス獲得には至らなかった。その末に臨んだQTにも落選。川岸は米ツアーの大きな壁にぶち当たった。
ジャンボを破ったあの日から、川岸に何が起こっていたのか。川岸は今、さばさばとした口調でこう語る。「海外の芝に、適応できなかったのが大きいですね。ラフは日本と違って、上から打ち込んでも全く飛ばせない。それでフェアウェイに打つしかなくなって、手打ちのようなスイングになっていったんです」。
AONを超える逸材と言われた川岸はイバラの道へと迷い込む。その後見かねたジャンボからジュンクラシックの会場で声をかけられ、川岸は軍団のトレーニングにも参加した。その甲斐もあって1999年、ラークカップから名称変更したフィリップモリスで優勝。思い出のABCGCでの復活劇となった。
それにしてもツアー通算7勝という数字は快進撃を演じた1990年のシーズンを振り返るたびに、誰もが物足りなさを感じるはずだ。川岸は今もシニアツアーで活躍中。「シャンクが出るんですよ」とぼやくものの、その顔に暗さは微塵もない。その飛び抜けたパワーは健在であるだけに、シニアでもう一花咲かせる可能性は十分にある。1年のうちにまだまだ強かったAON全員を撃破した男が、このまま終わってしまっていいはずがない。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)