高見和宏が忘れられないのは、1995年PGAフィランスロピートーナメント。日本プロゴルフ協会の前身である関西プロゴルフ協会、関東プロゴルフ協会それぞれが行っていた公式戦2つ(関西プロゴルフ選手権、関東プロゴルフ選手権)を統合し、1991年に始まった公式戦だ。この年の第5回大会は、石川県のゴルフクラブツインフィールズで開催された。
前年のユナイテッド航空KSBオープンでツアー初優勝を飾った高見は、ジャンボ軍団に身を置いていた。初優勝後、試合には出ていなかったジャンボ・尾崎将司のところに、優勝報告に行った時に、尻を叩かたことをよく覚えている。「『よかったな』とかじゃなくて『一流のプロになるのは2勝目を挙げてからだぞ、2勝目を頑張れ』と言われたんです」。ジャンボならではの激励を胸に、臨んでいたのが1995年のシーズンだった。
シード3年目の35歳。当時のツアーではまだ若手に入るが、そろそろ脂が乗って来るころでもあった。開幕から6月末のこの大会まで、14試合に出場して予選落ちは2回だけと好調だった。5月の日本プロでは最終日に『63』を叩き出した佐々木久行に逆転されたものの、単独2位。札幌とうきゅうでもカルロス・フランコに2打差2位タイと、2勝目の気配が漂っていた。
4バーディ・1ボギーで3アンダーの初日は、13位タイ。首位の松永一成に4打差とまずまずのスタートを切る。「パターが全然入らなかった」という2日目は、1バーディ・ノーボギーと足踏みをしたが、それでもトータル4アンダー。首位の合田洋、倉本昌弘に4打差16位タイと優勝圏内に踏みとどまった。
5バーディ・1ボギーで回った3日目に目には、トータル8アンダーとして3位タイに浮上。追いかける2打差の首位には、米山剛、リチャード・バックウェルの2人がいた。
混戦模様となった最終日、高見は終始、攻め続けた。フロントナインを3バーディ・2ボギーで回ると、バックナインは3バーディ、1ボギー。トータル11アンダーでプレーオフへと駒を進めた。
相手は、百戦練磨のベテラン高橋勝成と、前週のミズノオープンで通算7勝目を挙げたばかりのブライアン・ワッツ。「プレーオフは勝ったことがなくていいイメージがなかった。特に(92年)札幌とうきゅうで負けたのはよく覚えていた」と手探りで挑んだ1ホール目は、442ヤードパー4の18番だ。
「左が低く、右が高い横に2段になっているグリーンで、ピンは左に切ってあるのに、2打目を最初に打った勝成さんが右の段に乗せてしまった。2番目に打った僕のショットは、7番アイアンで完璧な感じで1メートル。バーディチャンスにつけたのに、ワッツはほんの少し、2〜3センチくらいかな、内側につけて来た」という手に汗握る戦いだ。
上の段から打った高橋のファーストパットがピンをオーバーした後、高見はバーディパットに挑んだ。「真横から最後に下りかけた時にちょっと左に切れるフックライン。これが入った」と、バーディを奪う。
先手を取られたワッツがバーディチャンスを外し、高見の優勝が決まった。「ジャンボキラーと呼ばれてた勝成さんと、好調なワッツ相手にプレーオフで勝てたのは本当にうれしかった」。そう振り返るツアー2勝目。一流プロになるために、ジャンボに発破をかけられてから、約1年3か月が経っていた。
公式戦優勝で手にした5年シードも大きかった。「前の年、優勝したことで落ち着いてできたシーズンだったんですけど、複数年シードでもっと計画を立てて試合に出られるようになったのは大きかった。フィランスロピーって言うと『オレだ』っていいイメージになって、トッド・ハミルトンが勝った翌年も2位に入っているんです。賞金は小さい(1260万円)ながらも公式戦だったおかげで、シニア1年目のシードももらえている。僕のゴルフ人生の分岐点になった大会でした」と振り返る激戦だった。
「家族よりもジャンボ軍団といる時間の方が長かったくらい」という環境も、当時の高見を支えていた。「ジャンボさんと一緒にいることで、精神的に落ち着いていられたんだと思います」。
日本男子ツアーゴルフ史上初めて『社会貢献』を盛り込んだ同大会だったが、残念ながらツアーがPGAからJGTOに分離した後、第9回大会でなくなってしまった。だが、第5回大会優勝で「プロゴルファーになってよかったなぁ、と思った」高見は、これで自らの土台を盤石にして、シニア入りし、62歳になった今も試合でプレーを続けている。(文・小川淳子)
前年のユナイテッド航空KSBオープンでツアー初優勝を飾った高見は、ジャンボ軍団に身を置いていた。初優勝後、試合には出ていなかったジャンボ・尾崎将司のところに、優勝報告に行った時に、尻を叩かたことをよく覚えている。「『よかったな』とかじゃなくて『一流のプロになるのは2勝目を挙げてからだぞ、2勝目を頑張れ』と言われたんです」。ジャンボならではの激励を胸に、臨んでいたのが1995年のシーズンだった。
シード3年目の35歳。当時のツアーではまだ若手に入るが、そろそろ脂が乗って来るころでもあった。開幕から6月末のこの大会まで、14試合に出場して予選落ちは2回だけと好調だった。5月の日本プロでは最終日に『63』を叩き出した佐々木久行に逆転されたものの、単独2位。札幌とうきゅうでもカルロス・フランコに2打差2位タイと、2勝目の気配が漂っていた。
4バーディ・1ボギーで3アンダーの初日は、13位タイ。首位の松永一成に4打差とまずまずのスタートを切る。「パターが全然入らなかった」という2日目は、1バーディ・ノーボギーと足踏みをしたが、それでもトータル4アンダー。首位の合田洋、倉本昌弘に4打差16位タイと優勝圏内に踏みとどまった。
5バーディ・1ボギーで回った3日目に目には、トータル8アンダーとして3位タイに浮上。追いかける2打差の首位には、米山剛、リチャード・バックウェルの2人がいた。
混戦模様となった最終日、高見は終始、攻め続けた。フロントナインを3バーディ・2ボギーで回ると、バックナインは3バーディ、1ボギー。トータル11アンダーでプレーオフへと駒を進めた。
相手は、百戦練磨のベテラン高橋勝成と、前週のミズノオープンで通算7勝目を挙げたばかりのブライアン・ワッツ。「プレーオフは勝ったことがなくていいイメージがなかった。特に(92年)札幌とうきゅうで負けたのはよく覚えていた」と手探りで挑んだ1ホール目は、442ヤードパー4の18番だ。
「左が低く、右が高い横に2段になっているグリーンで、ピンは左に切ってあるのに、2打目を最初に打った勝成さんが右の段に乗せてしまった。2番目に打った僕のショットは、7番アイアンで完璧な感じで1メートル。バーディチャンスにつけたのに、ワッツはほんの少し、2〜3センチくらいかな、内側につけて来た」という手に汗握る戦いだ。
上の段から打った高橋のファーストパットがピンをオーバーした後、高見はバーディパットに挑んだ。「真横から最後に下りかけた時にちょっと左に切れるフックライン。これが入った」と、バーディを奪う。
先手を取られたワッツがバーディチャンスを外し、高見の優勝が決まった。「ジャンボキラーと呼ばれてた勝成さんと、好調なワッツ相手にプレーオフで勝てたのは本当にうれしかった」。そう振り返るツアー2勝目。一流プロになるために、ジャンボに発破をかけられてから、約1年3か月が経っていた。
公式戦優勝で手にした5年シードも大きかった。「前の年、優勝したことで落ち着いてできたシーズンだったんですけど、複数年シードでもっと計画を立てて試合に出られるようになったのは大きかった。フィランスロピーって言うと『オレだ』っていいイメージになって、トッド・ハミルトンが勝った翌年も2位に入っているんです。賞金は小さい(1260万円)ながらも公式戦だったおかげで、シニア1年目のシードももらえている。僕のゴルフ人生の分岐点になった大会でした」と振り返る激戦だった。
「家族よりもジャンボ軍団といる時間の方が長かったくらい」という環境も、当時の高見を支えていた。「ジャンボさんと一緒にいることで、精神的に落ち着いていられたんだと思います」。
日本男子ツアーゴルフ史上初めて『社会貢献』を盛り込んだ同大会だったが、残念ながらツアーがPGAからJGTOに分離した後、第9回大会でなくなってしまった。だが、第5回大会優勝で「プロゴルファーになってよかったなぁ、と思った」高見は、これで自らの土台を盤石にして、シニア入りし、62歳になった今も試合でプレーを続けている。(文・小川淳子)