18番グリーンを取り巻く大観衆から「オーッ!!」という驚きの声が上がった。誰も想像していない方向から飛んできたボールが、見事にグリーンをとらえたからだ。スーパーショットの主はジャンボブラザースの次兄・“ジェット”こと尾崎健夫だった。
1989年のジュンクラシック最終日。首位を走る尾崎3兄弟の末弟“ジョー”直道に、「66」で猛追した次兄の健夫がトータル9アンダーで並びかけた。勝負は日本ゴルフツアー史上初の兄弟によるプレーオフにもつれこんでいた。
ファンにとって、待ちに待った「黄金カード」の実現だった。1988年の日本オープンで長兄“ジャンボ”こと将司がAON三つ巴の決戦を制して完全復活。黄金時代に入ると、ジェットも1985、88年と2度の日本プロ王者に輝き存在感を高めていた。ジョーもその前年まで2年連続してジャンボに次ぐ賞金ランク2位に入り、この年の春にはジャンボとともにマスターズからも招待を受けていた。3兄弟が同じフィールドに身を置く以上、この日が来るのも当然と言えば当然だった。
冒頭のシーンは、その1ホール目、18番で起こっていた。ジェットのティショットはいきなり大きく右に飛び出し池ポチャ。一方のジョーは確実にフェアウェイをキープ。早々に決着かと思われた。誰よりも、当のジェットが「半分負けを認めながら」池の手前でドロップし、第3打のアドレスに入った。
だが、ここからドラマが起きる。
「右の池は(みんなが見ているところから)ずいぶん離れているからね。俺がどこから打ったのか、誰も分からなかった。5番アイアンで50メートルの高さで、30ヤードのフックをかけて、残り230ヤードを打って行ったんだから」。秋の気配を感じさせる栃木の空に高々と舞い上がったボールは、ジェットの思い描いた弾道を描き、グリーンに弾む。「自分で自分の身体能力に驚いたね。『乗るんだな、俺は』って(笑)」
絶体絶命のピンチを脱するこのショットで「潮目が変わった」(ジェット)。「安全にグリーンに乗せようとした」ジョーの第2打は、3段グリーンの一番下に乗っただけ。約20メートルを残してしまい、3パットのボギーを叩いてしまう。ジェットはピン手前10メートルから手堅く2パットのボギーに収め、勝負は2ホール目に持ち越された。
その頃、長兄のジャンボはクラブハウスのモニターテレビで、二人の勝負を見守っていた。うどんを口に運びながら、1打ごとに箸が止まる。「夢にまで見た兄弟プレーオフだったが…いざ実現すると難しいもんだね」。その顔には複雑な表情が、広がっていた。
兄弟だけが知る、頂点を目指した壮絶なトレーニングの歴史がある。苦楽を共にしてきた日々がある。そこに勝者は一人しかいないという、とうに分かっていたはずの厳しい現実が、プレーオフ2ホール目にしてのしかかっていた。
ジェットが振り返る。「オンもオフも一緒で、遊びの中でも負けたくないわけだから(笑い)。最初は3人でトレーニングしていて足もジャンボが一番速かった。プロ野球の本格的な、厳しいトレーニングが持ち込まれて、ノックなんかもそれはきつかった。ジャンボにやっとの思いでついていく毎日だったもの。25歳くらいになって、ようやく激しいトレーニングについていけるようになったんだよね。それからジャンボ軍団でもいい選手が育って、常勝ムードが高まっていったよね。強い人間が集まって来て『再生工場』なんて呼ばれ方もした」
ジャンボが安定した実力を発揮し、日本のゴルフをリードしていた時期ではあったが、ジェット、ジョーも海外のメジャーを経験し、メキメキ力をつけていた時期。3人の力が接近していく中で、ジャンボ抜きの形でプレーオフが実現したわけだ。2人の弟による“骨肉の争い”を、蚊帳の外で見守ることになってしまったジャンボが、複雑な表情が浮かべるのも無理はなかった。
勝負は次のホール、16番のパー4でケリがつく。ピンチから脱出し「勝とう勝とうという気持ちが失せた」ジェットが、第2打で3.5メートルのバーディチャンスにつける。一方のジョーは「ジェットを生涯のライバルだと思っているのに、へんてこりんな気持ちになって」第2打でグリーンを外してしまう。
2パットのパーで収めたジェットに対し、ジョーは1メートルにつけながら、これをポロリと外してボギー。軍配はジェットに上がった。だが、一番つらかったのもジェットなのかもしれない。表彰式でぽつりともらした一言が、その心境を物語る。
「今日は悪役になったようで、気持ちが晴れません」
プレーオフの激闘の中に、垣間見えた人生ドラマ。居合わせた大観衆だけでなく、中継を観ていたファンにも、その感動が広がる名勝負ではあった。かつて河野高明・光隆兄弟、中島(現中嶋)常幸・和也兄弟、陳志明・志忠兄弟、宮里聖志・優作兄弟など第一線で活躍した兄弟プロは多いが、その後も国内男子ツアーにおける兄弟プレーオフは実現していない。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
1989年のジュンクラシック最終日。首位を走る尾崎3兄弟の末弟“ジョー”直道に、「66」で猛追した次兄の健夫がトータル9アンダーで並びかけた。勝負は日本ゴルフツアー史上初の兄弟によるプレーオフにもつれこんでいた。
ファンにとって、待ちに待った「黄金カード」の実現だった。1988年の日本オープンで長兄“ジャンボ”こと将司がAON三つ巴の決戦を制して完全復活。黄金時代に入ると、ジェットも1985、88年と2度の日本プロ王者に輝き存在感を高めていた。ジョーもその前年まで2年連続してジャンボに次ぐ賞金ランク2位に入り、この年の春にはジャンボとともにマスターズからも招待を受けていた。3兄弟が同じフィールドに身を置く以上、この日が来るのも当然と言えば当然だった。
冒頭のシーンは、その1ホール目、18番で起こっていた。ジェットのティショットはいきなり大きく右に飛び出し池ポチャ。一方のジョーは確実にフェアウェイをキープ。早々に決着かと思われた。誰よりも、当のジェットが「半分負けを認めながら」池の手前でドロップし、第3打のアドレスに入った。
だが、ここからドラマが起きる。
「右の池は(みんなが見ているところから)ずいぶん離れているからね。俺がどこから打ったのか、誰も分からなかった。5番アイアンで50メートルの高さで、30ヤードのフックをかけて、残り230ヤードを打って行ったんだから」。秋の気配を感じさせる栃木の空に高々と舞い上がったボールは、ジェットの思い描いた弾道を描き、グリーンに弾む。「自分で自分の身体能力に驚いたね。『乗るんだな、俺は』って(笑)」
絶体絶命のピンチを脱するこのショットで「潮目が変わった」(ジェット)。「安全にグリーンに乗せようとした」ジョーの第2打は、3段グリーンの一番下に乗っただけ。約20メートルを残してしまい、3パットのボギーを叩いてしまう。ジェットはピン手前10メートルから手堅く2パットのボギーに収め、勝負は2ホール目に持ち越された。
その頃、長兄のジャンボはクラブハウスのモニターテレビで、二人の勝負を見守っていた。うどんを口に運びながら、1打ごとに箸が止まる。「夢にまで見た兄弟プレーオフだったが…いざ実現すると難しいもんだね」。その顔には複雑な表情が、広がっていた。
兄弟だけが知る、頂点を目指した壮絶なトレーニングの歴史がある。苦楽を共にしてきた日々がある。そこに勝者は一人しかいないという、とうに分かっていたはずの厳しい現実が、プレーオフ2ホール目にしてのしかかっていた。
ジェットが振り返る。「オンもオフも一緒で、遊びの中でも負けたくないわけだから(笑い)。最初は3人でトレーニングしていて足もジャンボが一番速かった。プロ野球の本格的な、厳しいトレーニングが持ち込まれて、ノックなんかもそれはきつかった。ジャンボにやっとの思いでついていく毎日だったもの。25歳くらいになって、ようやく激しいトレーニングについていけるようになったんだよね。それからジャンボ軍団でもいい選手が育って、常勝ムードが高まっていったよね。強い人間が集まって来て『再生工場』なんて呼ばれ方もした」
ジャンボが安定した実力を発揮し、日本のゴルフをリードしていた時期ではあったが、ジェット、ジョーも海外のメジャーを経験し、メキメキ力をつけていた時期。3人の力が接近していく中で、ジャンボ抜きの形でプレーオフが実現したわけだ。2人の弟による“骨肉の争い”を、蚊帳の外で見守ることになってしまったジャンボが、複雑な表情が浮かべるのも無理はなかった。
勝負は次のホール、16番のパー4でケリがつく。ピンチから脱出し「勝とう勝とうという気持ちが失せた」ジェットが、第2打で3.5メートルのバーディチャンスにつける。一方のジョーは「ジェットを生涯のライバルだと思っているのに、へんてこりんな気持ちになって」第2打でグリーンを外してしまう。
2パットのパーで収めたジェットに対し、ジョーは1メートルにつけながら、これをポロリと外してボギー。軍配はジェットに上がった。だが、一番つらかったのもジェットなのかもしれない。表彰式でぽつりともらした一言が、その心境を物語る。
「今日は悪役になったようで、気持ちが晴れません」
プレーオフの激闘の中に、垣間見えた人生ドラマ。居合わせた大観衆だけでなく、中継を観ていたファンにも、その感動が広がる名勝負ではあった。かつて河野高明・光隆兄弟、中島(現中嶋)常幸・和也兄弟、陳志明・志忠兄弟、宮里聖志・優作兄弟など第一線で活躍した兄弟プロは多いが、その後も国内男子ツアーにおける兄弟プレーオフは実現していない。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)