今週の国内男子ツアーは、ダンロップフェニックス。多くのメジャーチャンピオンが歴代優勝者に名を連ね、この大会が世界から日本でナンバーワンのグレードを持つトーナメントとして評価されてきたのは、疑いようのない事実だ。
このトーナメントの生みの親は、大西久光氏。大会が産声を上げるまでのいきさつを、大西氏は振り返る。「1974年の1月に(当時の第一人者であるジャック)ニクラスの家まで行って、直接交渉したんです。本人はもう、秋の時期はオフだから嫌だと渋ったんですが、当時興味を持っていたコース設計を『日本で手伝うから』と条件を出しまして(笑)。それでまだ実績も何もない大会ながら、当時絶頂期のジョニー・ミラーほか20人くらいの選手が来てくれました。条件は旅費と滞在費。あとは賞金で稼いでもらう、という条件だったので、みんな真剣でしたね」。
■第1回大会はトップ10に日本人選手はひとりも入ることができなかった
真剣勝負となれば、当時の米ツアー勢のレベルは、日本勢とは格段に違った。第1回大会は米国でも開幕2連勝など絶頂期にあったジョニー・ミラーが制した。完全なぶっちぎりVで、日本人選手はひとりもトップ10に入ることができなかった。
当時を振り返って大西氏は「フェニックスのフェアウェイはバミューダグラス。高麗芝と違ってボールが浮かないから、ロングアイアンだとボールが上がらない。ところがニクラスは2番アイアンで高々とボールを舞い上げて、グリーンを狙う。明らかに力の差がありました」と話す。
米国勢の強さが目立つ中、大西氏の耳にジョニー・ミラーのマネージャーを通じて「スペインでいい選手がいる」との情報が入った。17歳でプロになり、頭角を現しつつあったセベ・バレステロスだった。18歳でダンロップフェニックスに初来日。一緒に回った日本人選手からは「とんでもない逸材。2年もすれば大変な大物になるだろう」との声が上がっていた。
■20歳になったセベ・バレステロスは圧倒的に強かった
その2年後、20歳となって来日したバレステロスは、想像どおりの大物になっていた。すでに前年のワールドカップではスペイン代表として団体優勝に貢献。この年は英国及び欧州ツアーランクで1位となり、ワールドシリーズにも出場していた。
日本のツアーには千葉・習志野CCで行われた日本オープンから参戦すると、4日間首位を譲らず完全優勝。42回目にして初めて、日本オープンタイトルが欧米の選手に奪われる事態となった。
そして迎えた翌週のダンロップフェニックス。初日こそ68で首位の新井規矩雄に1打遅れて2位発進となったが、2日目からは“指定席”の首位へ。ミラー・バーバー、ヒューバート・グリーン、アンディ・ビーン、ビリー・キャスパーといった強豪を尻目に、快走を続けた。
最終日。2位に3打差の首位でスタートしたバレステロスは、1番ホールの第2打を9番アイアンで50センチにピタリとつけた。いきなりタップインのバーディスタートとすると、スキのないゴルフでホールを重ね、7番のパー5でも3メートルを沈めてバーディ。アウトを終わって7アンダーと、後続を寄せ付けずにサンデーバックナインに突入した。
大西氏の目には、バレステロスが放った強烈なミラクルショットが焼き付いている。「12番で左の林に入れたんです。そこからOBの方向にボールを打ち出して、フックをかけてグリーンを狙っていった。あれには驚かされました。今でもよく覚えています」。
■米ツアーより日本ツアーがお気に入り?
「アウトがすべてうまくいったし、12番で4メートルを決めたときに勝てると思った」。まさに天才。「今年はヨーロッパで4勝して10万ドル。日本では2試合で2勝して10万ドル、来年から日本のツアーに参加した方がいいかな」と、バレステロスはすっかり日本が気に入った様子。米ツアーへの参戦については「まだ、行かない」と乗り気ではなかった。
「もともと、アメリカはあまり好きじゃないんです。日本ではアツアツのごはんに目玉焼きをのせて食べるのが好きでしたね」と、大西氏。
その後、バレステロスは日本オープンを連覇。メジャータイトル初制覇となる全英オープンの優勝はその翌年の1979年。さらにその翌年のマスターズで優勝を飾り、名実ともにスーパースターの座を確かなものにしていった。マスターズは83年にも勝って2勝、全英オープンは84、88年にも勝って3勝。世界の主要ツアーで87勝を挙げた“スペインの星”。2011年5月7日、脳腫瘍により、54歳というあまりに短い人生の幕が下りた。
絶望的なピンチに追い込まれた後、奇跡的なリカバリーにより幾度となく優勝をたぐりよせたバレステロス。伝説の起点となったのは、このダンロップフェニックスの優勝だった。(取材・構成/日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)
このトーナメントの生みの親は、大西久光氏。大会が産声を上げるまでのいきさつを、大西氏は振り返る。「1974年の1月に(当時の第一人者であるジャック)ニクラスの家まで行って、直接交渉したんです。本人はもう、秋の時期はオフだから嫌だと渋ったんですが、当時興味を持っていたコース設計を『日本で手伝うから』と条件を出しまして(笑)。それでまだ実績も何もない大会ながら、当時絶頂期のジョニー・ミラーほか20人くらいの選手が来てくれました。条件は旅費と滞在費。あとは賞金で稼いでもらう、という条件だったので、みんな真剣でしたね」。
■第1回大会はトップ10に日本人選手はひとりも入ることができなかった
真剣勝負となれば、当時の米ツアー勢のレベルは、日本勢とは格段に違った。第1回大会は米国でも開幕2連勝など絶頂期にあったジョニー・ミラーが制した。完全なぶっちぎりVで、日本人選手はひとりもトップ10に入ることができなかった。
当時を振り返って大西氏は「フェニックスのフェアウェイはバミューダグラス。高麗芝と違ってボールが浮かないから、ロングアイアンだとボールが上がらない。ところがニクラスは2番アイアンで高々とボールを舞い上げて、グリーンを狙う。明らかに力の差がありました」と話す。
米国勢の強さが目立つ中、大西氏の耳にジョニー・ミラーのマネージャーを通じて「スペインでいい選手がいる」との情報が入った。17歳でプロになり、頭角を現しつつあったセベ・バレステロスだった。18歳でダンロップフェニックスに初来日。一緒に回った日本人選手からは「とんでもない逸材。2年もすれば大変な大物になるだろう」との声が上がっていた。
■20歳になったセベ・バレステロスは圧倒的に強かった
その2年後、20歳となって来日したバレステロスは、想像どおりの大物になっていた。すでに前年のワールドカップではスペイン代表として団体優勝に貢献。この年は英国及び欧州ツアーランクで1位となり、ワールドシリーズにも出場していた。
日本のツアーには千葉・習志野CCで行われた日本オープンから参戦すると、4日間首位を譲らず完全優勝。42回目にして初めて、日本オープンタイトルが欧米の選手に奪われる事態となった。
そして迎えた翌週のダンロップフェニックス。初日こそ68で首位の新井規矩雄に1打遅れて2位発進となったが、2日目からは“指定席”の首位へ。ミラー・バーバー、ヒューバート・グリーン、アンディ・ビーン、ビリー・キャスパーといった強豪を尻目に、快走を続けた。
最終日。2位に3打差の首位でスタートしたバレステロスは、1番ホールの第2打を9番アイアンで50センチにピタリとつけた。いきなりタップインのバーディスタートとすると、スキのないゴルフでホールを重ね、7番のパー5でも3メートルを沈めてバーディ。アウトを終わって7アンダーと、後続を寄せ付けずにサンデーバックナインに突入した。
大西氏の目には、バレステロスが放った強烈なミラクルショットが焼き付いている。「12番で左の林に入れたんです。そこからOBの方向にボールを打ち出して、フックをかけてグリーンを狙っていった。あれには驚かされました。今でもよく覚えています」。
■米ツアーより日本ツアーがお気に入り?
「アウトがすべてうまくいったし、12番で4メートルを決めたときに勝てると思った」。まさに天才。「今年はヨーロッパで4勝して10万ドル。日本では2試合で2勝して10万ドル、来年から日本のツアーに参加した方がいいかな」と、バレステロスはすっかり日本が気に入った様子。米ツアーへの参戦については「まだ、行かない」と乗り気ではなかった。
「もともと、アメリカはあまり好きじゃないんです。日本ではアツアツのごはんに目玉焼きをのせて食べるのが好きでしたね」と、大西氏。
その後、バレステロスは日本オープンを連覇。メジャータイトル初制覇となる全英オープンの優勝はその翌年の1979年。さらにその翌年のマスターズで優勝を飾り、名実ともにスーパースターの座を確かなものにしていった。マスターズは83年にも勝って2勝、全英オープンは84、88年にも勝って3勝。世界の主要ツアーで87勝を挙げた“スペインの星”。2011年5月7日、脳腫瘍により、54歳というあまりに短い人生の幕が下りた。
絶望的なピンチに追い込まれた後、奇跡的なリカバリーにより幾度となく優勝をたぐりよせたバレステロス。伝説の起点となったのは、このダンロップフェニックスの優勝だった。(取材・構成/日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)