1981年12月2日。ゴルフ日本シリーズの初日を控えた大阪よみうりカントリークラブでは、朝からしんしんと雪が降っていた。雪は10センチ積もり、コースは一面、白銀の世界になった。
まるでスキー場のようになってしまったゴルフ場で、報道陣に囲まれながら雪合戦をして無邪気にはしゃぐ若者たちの姿があった。いずれも初出場の倉本昌弘、羽川豊、湯原信光の3人組だった。この年、青木功らトッププロに割って入る大活躍を演じており「新旧交代か」とまで騒がれるほどの注目を集める3人だった。
■この年の日本シリーズは2日間の短期決戦となった
今でこそ東京のみで行われる日本シリーズだが、当時は水曜日と木曜日の第1、第2ラウンドを大阪で、金曜日を移動日として、土曜日と日曜日を東京よみうりカントリークラブで行っていた。しかしこの年は前半戦の大阪シリーズは中止となり、試合は東京のみで36ホールに短縮された。62年の第1回大会以来、18回目にして初めてのことだった。
短期決戦となった東京シリーズ初日は、見事に晴れ上がった。すでに5度目の賞金王を決めていた大本命・青木功が、2ボギーがありながら6番のイーグルと6バーディで「66」。6アンダーのロケットスタートに成功し、単独首位で飛び出した。この日、青木とともに最終組を回ったのが約1カ月前、日本ラインGC(岐阜)で行われた日本オープンで、ツアー初優勝を飾ったばかりの羽川豊だった。
羽川は4バーディ、2ボギーの「70」。青木に4打差をつけられ3位のスタートだった。18ホール、青木と回った感想をこう語っている。「青木さんのゴルフの本当の怖さを知りました。長いパットが入るからスコアがよくなるとか、小技が人一倍上手だから世界に通用する、というのではないのですね。青木さんほどゲームのポイントを知り尽くし、勝負するところは勝負し、きちんとスコアを組み立てていく選手を初めて見ました」。
すっかり青木のゴルフに心酔した羽川。しかし、だからといって優勝をあきらめていたわけでは決してなかった。東京よみうりをラウンドしたのは初めてながら、コースを一歩出ればそこは羽川にとって“準地元”といってもいいエリア。羽川が通った専修大学生田キャンパスと、学生時代に汗を流した小田急線生田駅(川崎市多摩区)前の練習場は目と鼻の先。東京シリーズの期間中は、練習場のオーナー宅からコースに通っていた。
羽川がそのときの心境を振り返る。「優勝者と賞金ランク上位の選手しか出場できない試合ですから、プロなら誰もが出たい試合。それに出られるわけですから、ワクワクしながらプレーしていました」。実は羽川、「若手三羽ガラス」として並び称される倉本、湯原に比べるとゴルフのキャリアは浅かった。小学生時代からクラブを握っているふたりと違い、羽川がゴルフを始めたのは16歳のとき。ヒジを壊し熱中していた野球をあきらめたのと、父・米豊さんが練習場の経営に乗り出したタイミングが合ったことで、ゴルフにのめりこんだ。
努力もあって、才能はいきなり開花。高校2年で早くも日本ジュニアに出場。3年時には4位に入り、専修大学に進学。4年時にはキャプテンとして全日本大学リーグに優勝し、常勝日大の14連覇にストップをかけた。4連覇した朝日杯日本学生のほか日本学生選手権や関東アマなど、主だったタイトルを総なめにもしていた。その翌年のプロテストにトップ合格し、フルシーズン参戦のこの年、ビッグタイトルの日本オープンでプロ初優勝を飾っていた。
■最終日、羽川が若き才能を爆破させた
最終日、熱戦の火ぶたが切って落とされた。わずかゴルフ歴7年の若者の、自信に満ち溢れる積極プレーが青木のひと組前で展開された。前半は4、6、9番と3つのバーディで「33」。後半のインに入っても11、12番と連続バーデイと、キャッシュインのパターから放たれるパットは、面白いようにカップへと吸い込まれた。
圧巻だったのは15番からの3ホール。15番で5メートルをねじ込むと、16番は2メートルにつけてあっさりと1パット。さらに17番のパー5は2番アイアンの第2打を土手にぶつけながら8メートルに2オン。これを2パットに収めて3連続バーディ。一気に青木を抜き去り首位に躍り出た。
しかし青木も意地を見せた。17番は手前3メートルを沈めてバーディ。羽川に並びかけて、難所の最終18番パー3のティイングエリアに立った。羽川はこのとき、グリーンを左に外しながらも9番アイアンでランニングアプローチ。1.2メートルオーバーさせたが、このスライスラインを決めてパーセーブに成功すると「俺の勝ちだ!」とアピールするかのように、ボールをギャラリー席へと放り込んだ。ティショットを待つ青木にプレッシャーをかける形でホールアウトした。
一方、青木も手前から4メートル近いパーパットを残す大ピンチを、羽川が見守る中、ど真ん中から沈めた。プレーオフへと持ち込まれた羽川だが、その胸中は落ち着いていたという。「ああいうパットを、青木さんが外したところを見たことがなかったので、当然入れてくると思っていました」。
プレーオフの舞台は羽川が本戦で2メートルを沈めてバーディを奪っている16番パー4(375ヤード)。うっすらと笑みを浮かべて放った7番アイアンの第2打は、ピン奥1.5メートルにピタリとついた。一方の青木は第2打をグリーン左に外し、約14メートルのアプローチを60センチにつけるのがやっと。羽川はこの1メートルをしっかりと沈め、左手のこぶしを握りしめガッツポーズ。堂々の勝ちっぷりのあと、青木の祝福に笑顔で応じる姿は、ニュースターの誕生を予感させるに十分だった。
当時を振り返って、羽川が言う。「あの頃はホント、パットが上手でした(笑い)。グリーンに上がる前に入るイメージがあって、長めのパットも入れられる自信に満ち溢れていましたね。若さゆえの勢いがあって、思い切ってプレーできたのが、いい結果につながったのだと思います」。
この後、専大ゴルフ部の後輩たちから、胴上げされるうれしいハプニングも待っていた。翌年、マスターズに招待された羽川は、当時のレフティ最高記録である15位のフィニッシュを演じ、世界のマスコミからも大きな注目を浴びることになる。(取材・構成/日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)
まるでスキー場のようになってしまったゴルフ場で、報道陣に囲まれながら雪合戦をして無邪気にはしゃぐ若者たちの姿があった。いずれも初出場の倉本昌弘、羽川豊、湯原信光の3人組だった。この年、青木功らトッププロに割って入る大活躍を演じており「新旧交代か」とまで騒がれるほどの注目を集める3人だった。
■この年の日本シリーズは2日間の短期決戦となった
今でこそ東京のみで行われる日本シリーズだが、当時は水曜日と木曜日の第1、第2ラウンドを大阪で、金曜日を移動日として、土曜日と日曜日を東京よみうりカントリークラブで行っていた。しかしこの年は前半戦の大阪シリーズは中止となり、試合は東京のみで36ホールに短縮された。62年の第1回大会以来、18回目にして初めてのことだった。
短期決戦となった東京シリーズ初日は、見事に晴れ上がった。すでに5度目の賞金王を決めていた大本命・青木功が、2ボギーがありながら6番のイーグルと6バーディで「66」。6アンダーのロケットスタートに成功し、単独首位で飛び出した。この日、青木とともに最終組を回ったのが約1カ月前、日本ラインGC(岐阜)で行われた日本オープンで、ツアー初優勝を飾ったばかりの羽川豊だった。
羽川は4バーディ、2ボギーの「70」。青木に4打差をつけられ3位のスタートだった。18ホール、青木と回った感想をこう語っている。「青木さんのゴルフの本当の怖さを知りました。長いパットが入るからスコアがよくなるとか、小技が人一倍上手だから世界に通用する、というのではないのですね。青木さんほどゲームのポイントを知り尽くし、勝負するところは勝負し、きちんとスコアを組み立てていく選手を初めて見ました」。
すっかり青木のゴルフに心酔した羽川。しかし、だからといって優勝をあきらめていたわけでは決してなかった。東京よみうりをラウンドしたのは初めてながら、コースを一歩出ればそこは羽川にとって“準地元”といってもいいエリア。羽川が通った専修大学生田キャンパスと、学生時代に汗を流した小田急線生田駅(川崎市多摩区)前の練習場は目と鼻の先。東京シリーズの期間中は、練習場のオーナー宅からコースに通っていた。
羽川がそのときの心境を振り返る。「優勝者と賞金ランク上位の選手しか出場できない試合ですから、プロなら誰もが出たい試合。それに出られるわけですから、ワクワクしながらプレーしていました」。実は羽川、「若手三羽ガラス」として並び称される倉本、湯原に比べるとゴルフのキャリアは浅かった。小学生時代からクラブを握っているふたりと違い、羽川がゴルフを始めたのは16歳のとき。ヒジを壊し熱中していた野球をあきらめたのと、父・米豊さんが練習場の経営に乗り出したタイミングが合ったことで、ゴルフにのめりこんだ。
努力もあって、才能はいきなり開花。高校2年で早くも日本ジュニアに出場。3年時には4位に入り、専修大学に進学。4年時にはキャプテンとして全日本大学リーグに優勝し、常勝日大の14連覇にストップをかけた。4連覇した朝日杯日本学生のほか日本学生選手権や関東アマなど、主だったタイトルを総なめにもしていた。その翌年のプロテストにトップ合格し、フルシーズン参戦のこの年、ビッグタイトルの日本オープンでプロ初優勝を飾っていた。
■最終日、羽川が若き才能を爆破させた
最終日、熱戦の火ぶたが切って落とされた。わずかゴルフ歴7年の若者の、自信に満ち溢れる積極プレーが青木のひと組前で展開された。前半は4、6、9番と3つのバーディで「33」。後半のインに入っても11、12番と連続バーデイと、キャッシュインのパターから放たれるパットは、面白いようにカップへと吸い込まれた。
圧巻だったのは15番からの3ホール。15番で5メートルをねじ込むと、16番は2メートルにつけてあっさりと1パット。さらに17番のパー5は2番アイアンの第2打を土手にぶつけながら8メートルに2オン。これを2パットに収めて3連続バーディ。一気に青木を抜き去り首位に躍り出た。
しかし青木も意地を見せた。17番は手前3メートルを沈めてバーディ。羽川に並びかけて、難所の最終18番パー3のティイングエリアに立った。羽川はこのとき、グリーンを左に外しながらも9番アイアンでランニングアプローチ。1.2メートルオーバーさせたが、このスライスラインを決めてパーセーブに成功すると「俺の勝ちだ!」とアピールするかのように、ボールをギャラリー席へと放り込んだ。ティショットを待つ青木にプレッシャーをかける形でホールアウトした。
一方、青木も手前から4メートル近いパーパットを残す大ピンチを、羽川が見守る中、ど真ん中から沈めた。プレーオフへと持ち込まれた羽川だが、その胸中は落ち着いていたという。「ああいうパットを、青木さんが外したところを見たことがなかったので、当然入れてくると思っていました」。
プレーオフの舞台は羽川が本戦で2メートルを沈めてバーディを奪っている16番パー4(375ヤード)。うっすらと笑みを浮かべて放った7番アイアンの第2打は、ピン奥1.5メートルにピタリとついた。一方の青木は第2打をグリーン左に外し、約14メートルのアプローチを60センチにつけるのがやっと。羽川はこの1メートルをしっかりと沈め、左手のこぶしを握りしめガッツポーズ。堂々の勝ちっぷりのあと、青木の祝福に笑顔で応じる姿は、ニュースターの誕生を予感させるに十分だった。
当時を振り返って、羽川が言う。「あの頃はホント、パットが上手でした(笑い)。グリーンに上がる前に入るイメージがあって、長めのパットも入れられる自信に満ち溢れていましたね。若さゆえの勢いがあって、思い切ってプレーできたのが、いい結果につながったのだと思います」。
この後、専大ゴルフ部の後輩たちから、胴上げされるうれしいハプニングも待っていた。翌年、マスターズに招待された羽川は、当時のレフティ最高記録である15位のフィニッシュを演じ、世界のマスコミからも大きな注目を浴びることになる。(取材・構成/日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)