国内通算113勝(ツアー94勝)を誇るジャンボこと尾崎将司には、得意とする大会がいくつかある。その中のひとつが広島オープンだ。
1973年に広島テレビ開局10周年記念事業として始まり、2007年まで25回開催されたこの大会は、97年に冠スポンサーとなったヨネックスの新しいコース(ヨネックスCC・新潟県)で1度だけ開催されたが、それ以外はすべて広島カンツリー倶楽部が舞台となっている。多くは八本松コースだが、西条コースの年もあった。ジャンボは、25回の歴史の約3分の1に当たる8勝を挙げている。その最初の1勝が、西条コースで行われた76年の第4回大会だった。
今回、その記憶を掘り起こしてくれたのはジャンボのエースキャディとして知られる佐野木計至氏だ。ツアー通算32勝を誇るこのコンビの、最初の優勝が実はこの大会だった。
ジャンボとは同じ徳島県宍喰町(現在は合併して海部郡海陽町)出身の幼馴染で1歳年下。徳島県立海南高校(現在は他2校と合併して県立海部高校)野球部時代の64(昭和39)年には、春の甲子園(第36回選抜高校野球大会)優勝を飾ったチームメイトでもある。
まだ本名の正司を名乗っていた3年生のジャンボはエースで4番、佐野木氏は一塁手として、母校の甲子園初出場、初優勝を手にしている。
それほどふたりの付き合いは長い。だが高校卒業後、プロ野球西鉄ライオンズを経てプロゴルファーになったジャンボと、早稲田大学を中退して「ゴルフ場の研修生をして、心の片隅にプロゴルファーになろうと思ったこともある」という佐野木氏が会う機会は、そう多くなかった。
■突然ジャンボから「広島に遊びに出てこい」と呼び出された
76年当時、ジャンボはすでにツアーで活躍。縁あって愛媛県松山市のゴルフ練習場で仕事をしていた佐野木氏に、ジャンボから連絡があった。「広島に遊びに出てこい」。松山からは瀬戸内海を渡れば広島はそう遠くない。旧交を温める軽い気持ちでコースに行った。すると、ジャンボがコースのヘッドプロに「同伴キャディにしていいですか」と言い出した。佐野木氏が、驚く間もなく”宍喰コンビ“で試合を戦うことになった。
「遊びに行ったつもりだからゴルフウェアを着てただけ。いきなりバッグを担いだんだ」と、笑いながら、当時の心境を口にする佐野木氏。キャディは初めてだったが、ゴルフ場で練習に明け暮れた日々もあるからゴルフは知らないわけではない。高校時代こそ、野球部の先輩として「尾崎さん」と呼ばなければならなかったが、もともとは近所の「(正司の)まっちゃん」と話しかける間柄。ジャンボの性格はよくわかっており、話し相手にもなった。
残暑の残る9月第1週の広島。初日、1イーグル・4バーディ・1ボギーで5アンダー。首位の田中文雄に1打差2位タイと好発進したジャンボだったが、実は肋骨に痛みを抱えていた。2週間前にガードレールを飛び越えるときに滑って胸を打ち、後に肋骨にひびが入っていたことがわかったからだ。テーピングという言葉も、まだ一部で使われ始めたばかりの頃に、胸をグルグル巻きにして、痛みをだましながらの出場だった。
2日目は雨で中止となり、大会は54ホールに短縮。一転して晴れ上がった3日目、ジャンボは6バーディ・1ボギーで10アンダーまでスコアを伸ばし、謝敏男とともに首位に立つ。3打差で杉原輝雄、島田幸作ら4人が追走する展開となった。
そして迎えた最終日。猛追してきたのは3打差で前の組をプレーしていた杉原だった。前半を4バーディでプレーして。3バーディ・1ボギーのジャンボに1打差に迫った。
ジャンボは、10番、11番の連続バーディを決めたが、杉原は11番でバーディ。ジャンボが13番ボギーで、1打差のまま終盤に向かった。その後杉原の勢いも止まり、ジャンボは1打差で逃げ切り優勝を飾った。
73年に史上最年少の26歳で賞金王になり、翌74年も続けて頂点に立ったジャンボだったが、75年は1勝しかできず、タイトルを逃していた。それだけに76年の2勝目となった広島オープン優勝は、翌77年の王座奪還につながるものとなった。
「この1勝は貴重だ。今後の試合が楽にできる。プレーに余裕が生まれると思うんだ」。優勝についてこう口にしていたジャンボ。その言葉どおり、ツアー史上最多の12回、賞金王に輝くことになる。
「“デビュー戦”でいきなり優勝だからな」と、胸を張る佐野木氏。後に大きな金字塔を打ちたてることになるジャンボを支えたエースキャディがコンビを組んだ『最初の1戦』が、76年の広島オープンだった。(取材・文/清流舎 小川淳子)
1973年に広島テレビ開局10周年記念事業として始まり、2007年まで25回開催されたこの大会は、97年に冠スポンサーとなったヨネックスの新しいコース(ヨネックスCC・新潟県)で1度だけ開催されたが、それ以外はすべて広島カンツリー倶楽部が舞台となっている。多くは八本松コースだが、西条コースの年もあった。ジャンボは、25回の歴史の約3分の1に当たる8勝を挙げている。その最初の1勝が、西条コースで行われた76年の第4回大会だった。
今回、その記憶を掘り起こしてくれたのはジャンボのエースキャディとして知られる佐野木計至氏だ。ツアー通算32勝を誇るこのコンビの、最初の優勝が実はこの大会だった。
ジャンボとは同じ徳島県宍喰町(現在は合併して海部郡海陽町)出身の幼馴染で1歳年下。徳島県立海南高校(現在は他2校と合併して県立海部高校)野球部時代の64(昭和39)年には、春の甲子園(第36回選抜高校野球大会)優勝を飾ったチームメイトでもある。
まだ本名の正司を名乗っていた3年生のジャンボはエースで4番、佐野木氏は一塁手として、母校の甲子園初出場、初優勝を手にしている。
それほどふたりの付き合いは長い。だが高校卒業後、プロ野球西鉄ライオンズを経てプロゴルファーになったジャンボと、早稲田大学を中退して「ゴルフ場の研修生をして、心の片隅にプロゴルファーになろうと思ったこともある」という佐野木氏が会う機会は、そう多くなかった。
■突然ジャンボから「広島に遊びに出てこい」と呼び出された
76年当時、ジャンボはすでにツアーで活躍。縁あって愛媛県松山市のゴルフ練習場で仕事をしていた佐野木氏に、ジャンボから連絡があった。「広島に遊びに出てこい」。松山からは瀬戸内海を渡れば広島はそう遠くない。旧交を温める軽い気持ちでコースに行った。すると、ジャンボがコースのヘッドプロに「同伴キャディにしていいですか」と言い出した。佐野木氏が、驚く間もなく”宍喰コンビ“で試合を戦うことになった。
「遊びに行ったつもりだからゴルフウェアを着てただけ。いきなりバッグを担いだんだ」と、笑いながら、当時の心境を口にする佐野木氏。キャディは初めてだったが、ゴルフ場で練習に明け暮れた日々もあるからゴルフは知らないわけではない。高校時代こそ、野球部の先輩として「尾崎さん」と呼ばなければならなかったが、もともとは近所の「(正司の)まっちゃん」と話しかける間柄。ジャンボの性格はよくわかっており、話し相手にもなった。
残暑の残る9月第1週の広島。初日、1イーグル・4バーディ・1ボギーで5アンダー。首位の田中文雄に1打差2位タイと好発進したジャンボだったが、実は肋骨に痛みを抱えていた。2週間前にガードレールを飛び越えるときに滑って胸を打ち、後に肋骨にひびが入っていたことがわかったからだ。テーピングという言葉も、まだ一部で使われ始めたばかりの頃に、胸をグルグル巻きにして、痛みをだましながらの出場だった。
2日目は雨で中止となり、大会は54ホールに短縮。一転して晴れ上がった3日目、ジャンボは6バーディ・1ボギーで10アンダーまでスコアを伸ばし、謝敏男とともに首位に立つ。3打差で杉原輝雄、島田幸作ら4人が追走する展開となった。
そして迎えた最終日。猛追してきたのは3打差で前の組をプレーしていた杉原だった。前半を4バーディでプレーして。3バーディ・1ボギーのジャンボに1打差に迫った。
ジャンボは、10番、11番の連続バーディを決めたが、杉原は11番でバーディ。ジャンボが13番ボギーで、1打差のまま終盤に向かった。その後杉原の勢いも止まり、ジャンボは1打差で逃げ切り優勝を飾った。
73年に史上最年少の26歳で賞金王になり、翌74年も続けて頂点に立ったジャンボだったが、75年は1勝しかできず、タイトルを逃していた。それだけに76年の2勝目となった広島オープン優勝は、翌77年の王座奪還につながるものとなった。
「この1勝は貴重だ。今後の試合が楽にできる。プレーに余裕が生まれると思うんだ」。優勝についてこう口にしていたジャンボ。その言葉どおり、ツアー史上最多の12回、賞金王に輝くことになる。
「“デビュー戦”でいきなり優勝だからな」と、胸を張る佐野木氏。後に大きな金字塔を打ちたてることになるジャンボを支えたエースキャディがコンビを組んだ『最初の1戦』が、76年の広島オープンだった。(取材・文/清流舎 小川淳子)