1メートル半のパーパット。それまで平然としていた船渡川育宏の表情がこわばった。プロ入り7年目にして、いきなりやってきた初優勝のチャンスとともに、未体験の強烈なプレッシャーもやってきたからだ。
1980年8月24日。日本国土計画サマーズの最終日が行われていたニュー蓼科CC(長野県)は晴天に恵まれ、さわやかな高原の風が吹き渡っていた。しかしここに至るまでの4日間は、前代未聞のトラブルが続発し大変な道のりだった。
■サンドウェッジで打ったボールが消えた……
初日は雨だけでなく霧にもコースが覆われ、スタートが45分も遅れた。だが、こんなことは序の口だった。ぬかるんだコースで抱腹絶倒の珍事が起こったのは9番ホール。船渡川と同じ組で、第1打を左のラフに打ち込んだ森憲二は、第2打をサンドウェッジで振り抜いた。次の瞬間、とんでもないことが起こった。ボールが消えたのだ。
「あれ? ボールはどこだ」と一瞬戸惑った森は、「埋め込んじゃったのかな」と足元を見直したがどこにもない。ふとクラブフェースを見てみると、そこには土と草が団子状になり、ボールもそこにくっついていた。
判断に迷った森は、同伴競技者である金井清一の顔の前にそのクラブヘッドを突き出しながらこう言った。「ねえ、金井さん、これどうしたらいいの?」。困ったのは金井。「え? 分かんないよ」といきなりその場から走って逃げだす。クラブを突き出しながら「そんなこと言わないで教えてよ〜」と追う森。前代未聞の鬼ごっこを見た周囲は、腹を抱えて笑うしかなかったという。
「結局元の場所に戻り、クラブをドン、と地面に置いたらやっとポロリ」(森)。これでも1打の計算になり、このホールはダブルボギーの6だったと、当時の記録にはある。
珍事はさらに続いた。船渡川の目の前だけでなく、この試合はあちこちで珍事が起きていた。ボールの上に乗っかったボールを打つ、トリックショットさながらのプレーを経験したのが石田咲雄。14番の右ラフに入れたボールを見てみると、ボールはラフに隠れたロストボールの真上にちょこんと乗っかっていた。石田はこれをあるがままにプレーしたものの、ボールはあえなく右にOB。
珍事は止まらない。18番のパー5はドラコン賞(4日間通算=50万円)がかかっているものの、左右にOBがありフェアウェイが狭いためほとんどの選手がドライバーの使用を回避するという珍現象。それでもジャンボ尾崎の組は果敢に全員がドライバーでチャレンジし、天野勝ら3人は全員OB。ジャンボだけは豪快にフェアウェイ方向へとかっ飛ばしたが、競技委員がレイアップに備えていたためボールを見失いロストボールの憂き目にあってしまった。
■18番ホールがパー5からパー3に変更?
結局初日は1ホールのプレーを残しサスペンデッドとなり、翌日も雨で中止が決定。土曜日に初日の残りと第2ラウンドを行ったが、霧が晴れないため1番、10番、18番のティイングエリアを「どんなに霧が出ても中断することなく打てる位置」までグリーンに近づける措置を取った。
いわくつきの最終18番は488メートル(当時はメートル表記)のパー5から152メートルのパー3に変更。ギャラリーも目を白黒させながら、選手のあとをついていく珍現象がコースのあちこちで起きていた。
そして最終日、極め付きの珍事が起きた。単独首位の郭吉雄に9打差の10位からスタートした船渡川育宏と謝敏男は、この日ともにベストスコアの68でラウンド。最終組よりも2時間近く前にホールアウトしていた。郭がハーフをこの日2オーバーで折り返したとはいえ、10番以降も14番まで手堅くパーを重ねており、2位との差は残り4ホールで5打もあった。誰もが郭の優勝を信じて疑わなかった。
自分のクルマで来ていた船渡川は、普通ならコースを後にしているところなのだが、最終組近くで回っている鷹巣南雄のクラブを預かる約束をしており、着替えをしてからクラブハウスでくつろいでいた。同じく68で回った謝敏男も、郭吉雄と一緒に帰る約束をしていたためクラブハウスのレストランに上がってきていた。
船渡川は自分のクルマの運転があるため酒は飲めない。謝はこの日運転の予定はないため、船渡川は「ベストスコア賞で奢らせてくださいよ」と謝にビールを勧めた。謝もこれにこたえて杯を重ねた。
ところがここから、運命の歯車が狂いだす。郭は15番ボギーの後、16番でダブルボギーを叩くと、18番は3番アイアンの第2打を左にOB。あっという間に優勝戦線から脱落した。この瞬間、レストランに関係者が血相を変えて駆け込んでくる。あたりを見回し、船渡川と謝がくつろいでいる席に向かってきてこういった。
「プレーオフだよ」。 戸惑いながら船渡川が聞き返す。「え?誰が?」。関係者はあきれながらこう言った。「あんたたち、ふたりだよ」。
船渡川は鷹巣との、謝は郭との約束があったからこそコースに残っていた。携帯電話がない時代だけに、ふたりに約束がなければプレーオフはないと早合点してコースを離れており、プレーオフが幻となる可能性もゼロではなかったわけだ。
とはいえふたりとも、プレーオフはまったく予想しておらず、船渡川はもう一度クルマからシューズやゴルフウェアを引っ張り出してプレーオフに臨んだ。一方の謝は、船渡川に勧められるままに飲んでしまっており、もはや酩酊状態。勝負はすでに決まっていたようなものだった。
勝負の16番パー3。船渡川はグリーン奥18メートルのエッジ。一方の謝も、稀代のショットメーカーとあって、右15メートルに見事1オンした。先にパターで打った船渡川は、2メートルもショートしてしまう。しかし謝も、さすがに普通の状態ではない。15メートルのファーストパットを「謝さんは揺れながら打って」(船渡川)2メートル半もショートした。さらにこれも外し、3パットのボギーを叩いてしまった。
ここで冒頭のシーンとなるわけだ。「あれ(謝のボギー)で気分的に楽になるはずが、逆にヒザがガクガクしてなかなか打てなかった。でも『謝さんのボギーは確定しているんだから、これを外してもまだ次のホールに行ける』と考えたら楽になった」。
重圧を何とか跳ね返し、優勝を決めるパーパットはど真ん中からカップに吸い込まれた。波乱万丈の4日間。そのフィナーレも、9打差逆転というドラマチックなものだった。(取材・文/日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)
1980年8月24日。日本国土計画サマーズの最終日が行われていたニュー蓼科CC(長野県)は晴天に恵まれ、さわやかな高原の風が吹き渡っていた。しかしここに至るまでの4日間は、前代未聞のトラブルが続発し大変な道のりだった。
■サンドウェッジで打ったボールが消えた……
初日は雨だけでなく霧にもコースが覆われ、スタートが45分も遅れた。だが、こんなことは序の口だった。ぬかるんだコースで抱腹絶倒の珍事が起こったのは9番ホール。船渡川と同じ組で、第1打を左のラフに打ち込んだ森憲二は、第2打をサンドウェッジで振り抜いた。次の瞬間、とんでもないことが起こった。ボールが消えたのだ。
「あれ? ボールはどこだ」と一瞬戸惑った森は、「埋め込んじゃったのかな」と足元を見直したがどこにもない。ふとクラブフェースを見てみると、そこには土と草が団子状になり、ボールもそこにくっついていた。
判断に迷った森は、同伴競技者である金井清一の顔の前にそのクラブヘッドを突き出しながらこう言った。「ねえ、金井さん、これどうしたらいいの?」。困ったのは金井。「え? 分かんないよ」といきなりその場から走って逃げだす。クラブを突き出しながら「そんなこと言わないで教えてよ〜」と追う森。前代未聞の鬼ごっこを見た周囲は、腹を抱えて笑うしかなかったという。
「結局元の場所に戻り、クラブをドン、と地面に置いたらやっとポロリ」(森)。これでも1打の計算になり、このホールはダブルボギーの6だったと、当時の記録にはある。
珍事はさらに続いた。船渡川の目の前だけでなく、この試合はあちこちで珍事が起きていた。ボールの上に乗っかったボールを打つ、トリックショットさながらのプレーを経験したのが石田咲雄。14番の右ラフに入れたボールを見てみると、ボールはラフに隠れたロストボールの真上にちょこんと乗っかっていた。石田はこれをあるがままにプレーしたものの、ボールはあえなく右にOB。
珍事は止まらない。18番のパー5はドラコン賞(4日間通算=50万円)がかかっているものの、左右にOBがありフェアウェイが狭いためほとんどの選手がドライバーの使用を回避するという珍現象。それでもジャンボ尾崎の組は果敢に全員がドライバーでチャレンジし、天野勝ら3人は全員OB。ジャンボだけは豪快にフェアウェイ方向へとかっ飛ばしたが、競技委員がレイアップに備えていたためボールを見失いロストボールの憂き目にあってしまった。
■18番ホールがパー5からパー3に変更?
結局初日は1ホールのプレーを残しサスペンデッドとなり、翌日も雨で中止が決定。土曜日に初日の残りと第2ラウンドを行ったが、霧が晴れないため1番、10番、18番のティイングエリアを「どんなに霧が出ても中断することなく打てる位置」までグリーンに近づける措置を取った。
いわくつきの最終18番は488メートル(当時はメートル表記)のパー5から152メートルのパー3に変更。ギャラリーも目を白黒させながら、選手のあとをついていく珍現象がコースのあちこちで起きていた。
そして最終日、極め付きの珍事が起きた。単独首位の郭吉雄に9打差の10位からスタートした船渡川育宏と謝敏男は、この日ともにベストスコアの68でラウンド。最終組よりも2時間近く前にホールアウトしていた。郭がハーフをこの日2オーバーで折り返したとはいえ、10番以降も14番まで手堅くパーを重ねており、2位との差は残り4ホールで5打もあった。誰もが郭の優勝を信じて疑わなかった。
自分のクルマで来ていた船渡川は、普通ならコースを後にしているところなのだが、最終組近くで回っている鷹巣南雄のクラブを預かる約束をしており、着替えをしてからクラブハウスでくつろいでいた。同じく68で回った謝敏男も、郭吉雄と一緒に帰る約束をしていたためクラブハウスのレストランに上がってきていた。
船渡川は自分のクルマの運転があるため酒は飲めない。謝はこの日運転の予定はないため、船渡川は「ベストスコア賞で奢らせてくださいよ」と謝にビールを勧めた。謝もこれにこたえて杯を重ねた。
ところがここから、運命の歯車が狂いだす。郭は15番ボギーの後、16番でダブルボギーを叩くと、18番は3番アイアンの第2打を左にOB。あっという間に優勝戦線から脱落した。この瞬間、レストランに関係者が血相を変えて駆け込んでくる。あたりを見回し、船渡川と謝がくつろいでいる席に向かってきてこういった。
「プレーオフだよ」。 戸惑いながら船渡川が聞き返す。「え?誰が?」。関係者はあきれながらこう言った。「あんたたち、ふたりだよ」。
船渡川は鷹巣との、謝は郭との約束があったからこそコースに残っていた。携帯電話がない時代だけに、ふたりに約束がなければプレーオフはないと早合点してコースを離れており、プレーオフが幻となる可能性もゼロではなかったわけだ。
とはいえふたりとも、プレーオフはまったく予想しておらず、船渡川はもう一度クルマからシューズやゴルフウェアを引っ張り出してプレーオフに臨んだ。一方の謝は、船渡川に勧められるままに飲んでしまっており、もはや酩酊状態。勝負はすでに決まっていたようなものだった。
勝負の16番パー3。船渡川はグリーン奥18メートルのエッジ。一方の謝も、稀代のショットメーカーとあって、右15メートルに見事1オンした。先にパターで打った船渡川は、2メートルもショートしてしまう。しかし謝も、さすがに普通の状態ではない。15メートルのファーストパットを「謝さんは揺れながら打って」(船渡川)2メートル半もショートした。さらにこれも外し、3パットのボギーを叩いてしまった。
ここで冒頭のシーンとなるわけだ。「あれ(謝のボギー)で気分的に楽になるはずが、逆にヒザがガクガクしてなかなか打てなかった。でも『謝さんのボギーは確定しているんだから、これを外してもまだ次のホールに行ける』と考えたら楽になった」。
重圧を何とか跳ね返し、優勝を決めるパーパットはど真ん中からカップに吸い込まれた。波乱万丈の4日間。そのフィナーレも、9打差逆転というドラマチックなものだった。(取材・文/日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)