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若い世代は知らない深いラフ「90年代にはありました」 最年長・藤田寛之が懐古する師匠との“剛芝”エピソード
大会最年長・藤田寛之が明かす”剛ラフ”エピソード。
配信日時:配信日時: 2024年10月10日 09時50分
<日本オープン 初日◇10日◇東京ゴルフ倶楽部(埼玉県)◇7251ヤード・パー70>
昨年の「日本シニアオープン」優勝の資格で、2年ぶり26回目となる「日本オープン」の舞台に立っている55歳の藤田寛之。今大会の最年長選手だ。20センチ以上もある“剛ラフ”のタフなセッティングに対し、頭を悩ませながら、歯を食いしばって戦っている。
リーダーボードの上位陣の多くは、ラフに入れないためにドライバーを握らずフェアウェイウッドやユーティリティを使う機会が多いが、藤田は「刻んだのは1回だけ。あとは全部ドライバーです。距離がちょうどいいので」。藤田のドライバーの飛距離は250~260ヤードほどで、若手の刻むクラブの飛距離が同じぐらいだという。若手とはそれほどの差がある。
バーディは4つ奪えたが、ティショットがラフに入るとしっかりボギーになる。14番パー4ではラフから出した3打目をグリーン奥にこぼし、4打目を1.5メートルに寄せるもパットが決まらず、ダブルボギーも喫している。
「最近はショットが腐っているので(笑)。なんとかやりくりしています。きょうは1メートルちょっとのパットを何度か外しましたし…まあボギーはたくさん出ます。いくつ打つかわからなかったので、3オーバーは上出来。70点です」。初日は4バーディ・5ボギー・1ダブルボギーの「73」。予選通過圏内の42位で終えた。
最近の世界的な流行もあり、長すぎるラフのセッティングはあまり作られない。20代の選手は「今まで出た試合で一番難しい」という声が聞かれるが、“極長”ラフに藤田は懐かしさを感じている。
「1990年代の日本オープンのラフは、こういう感じでしたね」。初めて出場したのは茨木カンツリークラブで行われた1996年。ピーター・テラベイネン(米国)が4日間トータル2アンダーで優勝した大会である。
当時のことは鮮明に覚えている。師匠の芹澤信雄と練習ラウンドをしていたときのこと。「芹澤さんが深いラフからバンッ! って打って『イテッ』て言って出ない。もう1回打って『イテッ』て。2回打って出なくて、ボールを拾ってフェアウェイに出したのを思い出します」。
ウェッジでも飛ばすことが難しく、無理に打てば手首や腕を痛めかねない。そんな深いラフは、90年代ではよくあった。それに加えて「フェアウェイがタイト」で、幅12~15ヤードほどに絞られることも珍しくない。過酷なセッティングだった。
「今回はフェアウェイが広めですからね。ちょうどいいバランスじゃないですか、パワーのある今の若手には。グリーンのアンジュレーションがしっかりあるので、求められるショットもわかりやすい。ピン位置にもよりますけど、難しくていいコースですよ」。90年代のラフと近年のワイドフェアウェイが融合したセッティングとも感じている。
2012年、43歳の時に賞金王のタイトルを獲得しているが、そのキャリアに「日本オープン」のタイトルはない。栄冠にあと一歩と迫った10年大会は単独首位で最終日をスタートさせたが、キム・キョンテ(韓国)に逆転負け。単独2位に終わった。
26回目の出場に「(優勝とか)考えてないです(笑)」と自嘲気味に話す。「JGAさんにシニアの資格をいただいているので、シニア代表として4日間戦いたい。グリーンの硬さも速さもちょうどいい。難しいコース、素晴らしいピン位置でやりきりたい」。
中年の星と呼ばれる藤田は、今でも多くのギャラリーを連れている。「倒れそうだからか、ギャラリーの方も『がんばって』と声をかけてくれます」。温かい声援を励みに、最年長選手はタフなセッティングと戦う。
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