この“ド派手”な試合は、渋野自身も「ターニングポイントですか?この『81』しか思い浮かばないですね」と語るほど。実際に、続く「フジサンケイレディス」で2位タイ、「パナソニックオープンレディース」13位タイと急激に安定し、上位争いが当たり前という選手となった。
そして、この流れのなか迎えたのがサロンパスカップだった。初日11位タイとまずまずの滑り出しを見せると、2日目には「68」で一気に2位タイに浮上した。そして3日目に「66」でトータル11アンダーまで伸ばすと、最後まで優勝争いを続けるペ・ソンウ(韓国)と並ぶトップタイへと躍り出た。3位の選手とは4打差。勝負は“一騎打ち”の様相を呈した。最後はその争いを制し優勝。20歳178日(当時)という同大会最年少優勝という記録も打ち立てた。
「この試合はパターが神がかっていたし、ピンチというピンチもなかった。(最終日)16番のセカンドが明暗を分けましたが、ここをしっかりと乗せることができたのも、よかったかな(ソンウがここでダブルボギー)。最終日の出だしでボギーを打ったんですけど、すぐにバーディを獲って。こういうのも今までにはないパターンでした。なんか『お〜。お〜!お〜!!』みたいな感じで、気づいたら優勝していました(笑)」
試合後のインタビューで、「(優勝者が)私でいいんですかね?」と呆然ともいえる表情を見せていた渋野の姿は記憶に新しいが、こうして“当初の狙い”だった賞金シードどころか、メジャー大会の優勝者に名を連ねることになった。さらにその会見でも「3年もシードをもらえるんですか?賞金で50位までに入ればシードを獲ることができる、というのしか考えていなくて…」とメジャー大会で優勝者が得る権利も知らないほど、まさに望外のできごとだった。
「次の日、地元(岡山県)の新聞の1面にドーンって優勝のことが載っていたんです。他にも2ページ私のことが掲載されていて…、1ページでまとめればいいのにって(笑)。あと岡山で観光大使を務める話が来て、 なんか、エライことしちゃったんだなって思いました」
渋野に、この優勝がどんなものだったかを改めて振り返ってもらった。すると、少し考えた後、返ってきたのは「突然のできごとでした」という答え。そして、すぐに「(優勝するのが)早すぎたのかなというのも今は思います」と付け加えた。
そして、この流れのなか迎えたのがサロンパスカップだった。初日11位タイとまずまずの滑り出しを見せると、2日目には「68」で一気に2位タイに浮上した。そして3日目に「66」でトータル11アンダーまで伸ばすと、最後まで優勝争いを続けるペ・ソンウ(韓国)と並ぶトップタイへと躍り出た。3位の選手とは4打差。勝負は“一騎打ち”の様相を呈した。最後はその争いを制し優勝。20歳178日(当時)という同大会最年少優勝という記録も打ち立てた。
「この試合はパターが神がかっていたし、ピンチというピンチもなかった。(最終日)16番のセカンドが明暗を分けましたが、ここをしっかりと乗せることができたのも、よかったかな(ソンウがここでダブルボギー)。最終日の出だしでボギーを打ったんですけど、すぐにバーディを獲って。こういうのも今までにはないパターンでした。なんか『お〜。お〜!お〜!!』みたいな感じで、気づいたら優勝していました(笑)」
試合後のインタビューで、「(優勝者が)私でいいんですかね?」と呆然ともいえる表情を見せていた渋野の姿は記憶に新しいが、こうして“当初の狙い”だった賞金シードどころか、メジャー大会の優勝者に名を連ねることになった。さらにその会見でも「3年もシードをもらえるんですか?賞金で50位までに入ればシードを獲ることができる、というのしか考えていなくて…」とメジャー大会で優勝者が得る権利も知らないほど、まさに望外のできごとだった。
「次の日、地元(岡山県)の新聞の1面にドーンって優勝のことが載っていたんです。他にも2ページ私のことが掲載されていて…、1ページでまとめればいいのにって(笑)。あと岡山で観光大使を務める話が来て、 なんか、エライことしちゃったんだなって思いました」
渋野に、この優勝がどんなものだったかを改めて振り返ってもらった。すると、少し考えた後、返ってきたのは「突然のできごとでした」という答え。そして、すぐに「(優勝するのが)早すぎたのかなというのも今は思います」と付け加えた。