<サマンサタバサ ガールズコレクション・レディース 最終日◇15日◇イーグルポイントゴルフクラブ(6,588ヤード・パー72)>
涙と笑顔にあふれた優勝となった。首位と2打差の8位タイから最終日をスタートした有村智恵が、6バーディ・ノーボギーの「66」をマーク。終盤までもつれ込んだ争いを制し、2012年「日本女子プロゴルフ選手権 コニカミノルタ杯」以来、6季ぶりとなるツアー優勝。通算14勝目を手にした。
【写真】表彰式で涙をぬぐう有村智恵
トータル12アンダーで迎えた18番。優勝を決定的にする2.5mのバーディパットを沈めると、右手で何度もガッツポーズを繰り返す。ホールアウト後は、後続の選手たちの戦況を凛とした表情で眺める。そして、優勝が確定した瞬間、それまで厳しさすら浮かべていた目からは大粒の涙がこぼれた。久しぶりに味わう優勝の瞬間は、歓喜と同時に苦悩から解放された瞬間でもあった。
「最終ホールでパットを入れたとき、一瞬ですが色々と思い返すことがあった。長く苦しい日々がやっと終わると思いました」
08年に「プロミスレディス」を制してツアー初優勝を挙げると、そこから12年までは毎年勝利を重ねた。11、12年には3勝ずつを挙げ、押しも押されもせぬ日本ツアー屈指の選手の一人となった。12年には米国女子ツアーの予選会を通り翌年から本格参戦。しかし、そこからは結果を残せない日々が続いた。15年には下部ツアーも経験。自らバックを担ぎコースを回るなど厳しい環境でのプレーを強いられた。翌16年には故郷・熊本を襲った震災をきっかけに日本復帰を果たしたが、そこからは優勝はおろか、賞金シード確保もできないシーズンを経験。長く暗い時代が続いた。
この低迷について有村は、11年の夏に負った左手首の負傷が原因だったと語る。「ケガをして以来、ショット、アプローチのインパクトの瞬間が怖くて、反射で手が浮いてしまった。自分はしっかりと打ち込むタイプなのに、そこからはできなくなった」。それ以降、スイング改造によって、持ち球のフェードを維持しようとしたもののうまくいかず。それに加えて、飛距離が求められる米国参戦をしたことで「どんどん変な方向に行ってしまった」と振り返った。
今の有村にとっての一番の敵は 、「いいときの自分に早く戻りたいと思う自分」だと語る。「もう落ちるところまで落ちた。いいときの自分と比べるのはやめよう。先週より、昨日の自分より良ければいいかな」。そう思うことで、気持ちが楽になった。そして、最近ではこんなことすら思うようになった。
「若いときよりも、今のプレーの方がいいと思える。グリーン周りがうまくなったし、昔はフェード1本だったショットが、ドローも使い分け、精度が上がっています」
そんな実感も抱いている。今季は6月の「宮里藍 サントリーレディス」でプレーオフのすえに敗れたものの、日本ツアー復帰後最高位の2位に入るなど、復活のときが待たれていた。そしてその期待は有村自身も感じていたものだった。「今年5月のほけんの窓口(レディース)で4位になって、意外と優勝は遠くないかもと思った。そしてサントリーで大きな手ごたえを感じました」。それが今日、現実のものとなった。
20代で一時代を築いた有村が手にした30代での初優勝。これについては「あまり実感がない」と話したものの、優勝インタビューでは「この先も勝って、30代でもやれるところを見せたいです!」と笑顔で宣言した。長いトンネルはようやくその出口を見せた。そして、今日は「今は日本ツアーにできるだけいたいと思う。こんなに恵まれたツアーはない」と話す場所で再び勝利を積み重ねるため、意義深い重要な一日となった。(文・間宮輝憲)
涙と笑顔にあふれた優勝となった。首位と2打差の8位タイから最終日をスタートした有村智恵が、6バーディ・ノーボギーの「66」をマーク。終盤までもつれ込んだ争いを制し、2012年「日本女子プロゴルフ選手権 コニカミノルタ杯」以来、6季ぶりとなるツアー優勝。通算14勝目を手にした。
【写真】表彰式で涙をぬぐう有村智恵
トータル12アンダーで迎えた18番。優勝を決定的にする2.5mのバーディパットを沈めると、右手で何度もガッツポーズを繰り返す。ホールアウト後は、後続の選手たちの戦況を凛とした表情で眺める。そして、優勝が確定した瞬間、それまで厳しさすら浮かべていた目からは大粒の涙がこぼれた。久しぶりに味わう優勝の瞬間は、歓喜と同時に苦悩から解放された瞬間でもあった。
「最終ホールでパットを入れたとき、一瞬ですが色々と思い返すことがあった。長く苦しい日々がやっと終わると思いました」
08年に「プロミスレディス」を制してツアー初優勝を挙げると、そこから12年までは毎年勝利を重ねた。11、12年には3勝ずつを挙げ、押しも押されもせぬ日本ツアー屈指の選手の一人となった。12年には米国女子ツアーの予選会を通り翌年から本格参戦。しかし、そこからは結果を残せない日々が続いた。15年には下部ツアーも経験。自らバックを担ぎコースを回るなど厳しい環境でのプレーを強いられた。翌16年には故郷・熊本を襲った震災をきっかけに日本復帰を果たしたが、そこからは優勝はおろか、賞金シード確保もできないシーズンを経験。長く暗い時代が続いた。
この低迷について有村は、11年の夏に負った左手首の負傷が原因だったと語る。「ケガをして以来、ショット、アプローチのインパクトの瞬間が怖くて、反射で手が浮いてしまった。自分はしっかりと打ち込むタイプなのに、そこからはできなくなった」。それ以降、スイング改造によって、持ち球のフェードを維持しようとしたもののうまくいかず。それに加えて、飛距離が求められる米国参戦をしたことで「どんどん変な方向に行ってしまった」と振り返った。
今の有村にとっての一番の敵は 、「いいときの自分に早く戻りたいと思う自分」だと語る。「もう落ちるところまで落ちた。いいときの自分と比べるのはやめよう。先週より、昨日の自分より良ければいいかな」。そう思うことで、気持ちが楽になった。そして、最近ではこんなことすら思うようになった。
「若いときよりも、今のプレーの方がいいと思える。グリーン周りがうまくなったし、昔はフェード1本だったショットが、ドローも使い分け、精度が上がっています」
そんな実感も抱いている。今季は6月の「宮里藍 サントリーレディス」でプレーオフのすえに敗れたものの、日本ツアー復帰後最高位の2位に入るなど、復活のときが待たれていた。そしてその期待は有村自身も感じていたものだった。「今年5月のほけんの窓口(レディース)で4位になって、意外と優勝は遠くないかもと思った。そしてサントリーで大きな手ごたえを感じました」。それが今日、現実のものとなった。
20代で一時代を築いた有村が手にした30代での初優勝。これについては「あまり実感がない」と話したものの、優勝インタビューでは「この先も勝って、30代でもやれるところを見せたいです!」と笑顔で宣言した。長いトンネルはようやくその出口を見せた。そして、今日は「今は日本ツアーにできるだけいたいと思う。こんなに恵まれたツアーはない」と話す場所で再び勝利を積み重ねるため、意義深い重要な一日となった。(文・間宮輝憲)