今回は、1990年の「anクイーンズカップゴルフトーナメント」。飛ぶ鳥を落とす勢いだった20歳の平瀬真由美が、負けて初めて泣いた1戦の記憶に迫る。
静かに、静かに、平瀬は一人悔しさをあふれさせていた。人の気配が消えた白山カントリー倶楽部ロッカールームのさらに奥。自分しかいない風呂場で流していたのは、真夏の戦いで汗だくになった体だけでなく、初めて競り合って負けた試合の、どうしようもない感情だった。
惨敗だった。
第2ラウンドで『64』を叩き出してトータル10アンダーとし、3打差単独首位で臨んだ最終日。平瀬は6番までに3バーディを奪ってトータル13アンダーとしたときには圧勝ムードが漂っていた。しかし、7番でボギーを叩くと状況が一転する。
11番をダブルボギーとした後、12番はバーディとするも流れは引き戻せない。14番ボギー、15番ダブルボギー。16番で何とか最後のバーディを取ったが、結局1つスコアを落としてトータル9アンダー。1組前で『65』の猛チャージをかけ、トータル12アンダーとした樋口久子に逆転負けを喫してしまった。
まさかの4位。「詳しいことは覚えていませんけど。バタバタで自分のゴルフができなくなって立て直せなかったことと、帰りに大泣きしたことははっきり覚えています」と、20歳だった当時のことを振り返る。
熊本市立高校時代に日本ジュニア三連覇。その実績を引っ提げて1988年春のプロテストに合格。フル参戦最初のシーズンとなった1989年には早くも頭角を現していた。ミヤギテレビ杯女子オープンで初優勝を飾ると、ベンホーガン&五木クラシックでも優勝。さらに最終戦で当時は公式戦だったレディーボーデンカップで、この年6勝と絶好調だった小林浩美と、大御所・ト阿玉の2人をプレーオフで撃破。当時の規定で10年シードを獲得していた。
「来年どうなるのか、と言う不安が大きい中、3勝できたのはうれしかったですね」と上出来の1年。これだけの実績を上げたことで、周囲の環境も一変していた。本人は何も変わらないのに、周りが放っておいてくれない。あわただしい身辺を整理するため、師匠と仰ぐ鍋島直要氏の口利きで、ナショナルチームの大先輩である倉本昌弘のマネジメント事務所の世話になり始めた。本拠地も、所属先の練習場があった福岡県から首都圏に移転していた。
心身共にヘトヘトに疲れていた。それを見た鍋島氏に「オフはとにかく休みなさい」と言われ、1月にはまったくクラブを握らなかった。小学校6年生でゴルフを始めてから初めてのこと。2月に、倉本ら先輩プロが土佐CCでキャンプをするのに参加してようやく始動すると、もう、すぐに3月の開幕だった。
「2カ月近く休んだのは生まれて初めてで、とても不安でした。(開幕戦の)ダイキンオーキッドにはみんな準備万端で来るのに、自分はどうだろう?と言う感じ。でも、まぁまぁ上出来だったからホッとしていました」と、優勝した高須愛子に1打差の2位。前年に続く活躍が期待された。
しかし、なかなか勝てないままシーズン半ばを過ぎたところで迎えたのが、anクィーンズだった。
一方の樋口は、言うまでもなく日本女子ツアーの第一人者。通算70勝の実績を誇り、先頭を走り続けていたが、88年2月に長女を出産。産休を経て、カムバックのシーズンだった。平瀬より24歳上の44歳になっても、まだまだ存在感は抜群だった。
単独首位の平瀬を、3打差で寺沢範美が追走。1打遅れて三橋里衣、安井純子、さらに1打遅れて樋口が追う展開だった。樋口はここで圧倒的な強さを見せつける。
2番、3番と連続バーディを奪うと、9番からの3連続バーディでもたつく平瀬をキャッチ。14番、16番もバーディとして、7バーディ、ノーボギーの『65』で回って鮮やかな逆転劇を演じたのだ。
産休からの復帰後最初の優勝。平瀬はなすすべがなかった。
最近のツアーでは、お風呂に入って帰る選手は少なくなったが、当時は、汗を流してからコースを後にするのは珍しいことではない。特に、猛暑の8月。平瀬は多くの選手が引き上げた風呂で、汗と涙を存分に流していた。
少し落ち着いて、トレードマークだったポニーテールをほどいて髪を洗っている時に、人の気配を感じた。入ってきたのは樋口だった。
相手は大先輩。「お疲れ様です」と、挨拶すると、樋口から返ってきたのは驚いたような気配だけだった。「私だと気付いて声がかけにくかったんじゃないですかね。『ハッ』としたような感じでした」と苦笑する。表彰式や会見を終えた後、樋口もまた、戦いの汗を流しにやってきたのだ。
44歳の大ベテラン樋口と、20歳の平瀬。勝負の世界に年齢は関係ないが、勝者と敗者の、何とも言えない時間がそこには流れていた。
自分のゴルフができずに自滅で敗れ、生まれて初めて悔し涙を流したことで、平瀬は、この後さらに大きく成長していく。93年、94年と連続賞金女王に輝くことになる平瀬にとって、大きな糧となった敗戦だった。(文・小川淳子)
静かに、静かに、平瀬は一人悔しさをあふれさせていた。人の気配が消えた白山カントリー倶楽部ロッカールームのさらに奥。自分しかいない風呂場で流していたのは、真夏の戦いで汗だくになった体だけでなく、初めて競り合って負けた試合の、どうしようもない感情だった。
惨敗だった。
第2ラウンドで『64』を叩き出してトータル10アンダーとし、3打差単独首位で臨んだ最終日。平瀬は6番までに3バーディを奪ってトータル13アンダーとしたときには圧勝ムードが漂っていた。しかし、7番でボギーを叩くと状況が一転する。
11番をダブルボギーとした後、12番はバーディとするも流れは引き戻せない。14番ボギー、15番ダブルボギー。16番で何とか最後のバーディを取ったが、結局1つスコアを落としてトータル9アンダー。1組前で『65』の猛チャージをかけ、トータル12アンダーとした樋口久子に逆転負けを喫してしまった。
まさかの4位。「詳しいことは覚えていませんけど。バタバタで自分のゴルフができなくなって立て直せなかったことと、帰りに大泣きしたことははっきり覚えています」と、20歳だった当時のことを振り返る。
熊本市立高校時代に日本ジュニア三連覇。その実績を引っ提げて1988年春のプロテストに合格。フル参戦最初のシーズンとなった1989年には早くも頭角を現していた。ミヤギテレビ杯女子オープンで初優勝を飾ると、ベンホーガン&五木クラシックでも優勝。さらに最終戦で当時は公式戦だったレディーボーデンカップで、この年6勝と絶好調だった小林浩美と、大御所・ト阿玉の2人をプレーオフで撃破。当時の規定で10年シードを獲得していた。
「来年どうなるのか、と言う不安が大きい中、3勝できたのはうれしかったですね」と上出来の1年。これだけの実績を上げたことで、周囲の環境も一変していた。本人は何も変わらないのに、周りが放っておいてくれない。あわただしい身辺を整理するため、師匠と仰ぐ鍋島直要氏の口利きで、ナショナルチームの大先輩である倉本昌弘のマネジメント事務所の世話になり始めた。本拠地も、所属先の練習場があった福岡県から首都圏に移転していた。
心身共にヘトヘトに疲れていた。それを見た鍋島氏に「オフはとにかく休みなさい」と言われ、1月にはまったくクラブを握らなかった。小学校6年生でゴルフを始めてから初めてのこと。2月に、倉本ら先輩プロが土佐CCでキャンプをするのに参加してようやく始動すると、もう、すぐに3月の開幕だった。
「2カ月近く休んだのは生まれて初めてで、とても不安でした。(開幕戦の)ダイキンオーキッドにはみんな準備万端で来るのに、自分はどうだろう?と言う感じ。でも、まぁまぁ上出来だったからホッとしていました」と、優勝した高須愛子に1打差の2位。前年に続く活躍が期待された。
しかし、なかなか勝てないままシーズン半ばを過ぎたところで迎えたのが、anクィーンズだった。
一方の樋口は、言うまでもなく日本女子ツアーの第一人者。通算70勝の実績を誇り、先頭を走り続けていたが、88年2月に長女を出産。産休を経て、カムバックのシーズンだった。平瀬より24歳上の44歳になっても、まだまだ存在感は抜群だった。
単独首位の平瀬を、3打差で寺沢範美が追走。1打遅れて三橋里衣、安井純子、さらに1打遅れて樋口が追う展開だった。樋口はここで圧倒的な強さを見せつける。
2番、3番と連続バーディを奪うと、9番からの3連続バーディでもたつく平瀬をキャッチ。14番、16番もバーディとして、7バーディ、ノーボギーの『65』で回って鮮やかな逆転劇を演じたのだ。
産休からの復帰後最初の優勝。平瀬はなすすべがなかった。
最近のツアーでは、お風呂に入って帰る選手は少なくなったが、当時は、汗を流してからコースを後にするのは珍しいことではない。特に、猛暑の8月。平瀬は多くの選手が引き上げた風呂で、汗と涙を存分に流していた。
少し落ち着いて、トレードマークだったポニーテールをほどいて髪を洗っている時に、人の気配を感じた。入ってきたのは樋口だった。
相手は大先輩。「お疲れ様です」と、挨拶すると、樋口から返ってきたのは驚いたような気配だけだった。「私だと気付いて声がかけにくかったんじゃないですかね。『ハッ』としたような感じでした」と苦笑する。表彰式や会見を終えた後、樋口もまた、戦いの汗を流しにやってきたのだ。
44歳の大ベテラン樋口と、20歳の平瀬。勝負の世界に年齢は関係ないが、勝者と敗者の、何とも言えない時間がそこには流れていた。
自分のゴルフができずに自滅で敗れ、生まれて初めて悔し涙を流したことで、平瀬は、この後さらに大きく成長していく。93年、94年と連続賞金女王に輝くことになる平瀬にとって、大きな糧となった敗戦だった。(文・小川淳子)