記憶の襞をたどってくれたのは原田香里。1993年日本女子プロゴルフ選手権優勝の顛末(てんまつ)だ。のちに日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)理事、副会長となってツアーから離れたが、歴代優勝者として9日からの第54回大会に挑む。最初から最後まで、自分のゴルフを貫いて大きなステップとなった一戦の鮮やかなシーンとは…。
手ではなく、足が震えた。生まれて初めてのことだった。3打差単独首位で迎えた最終日。最終組でスタートした直後の1番でのことだ。「確かグリーンに乗らず、1メートルちょっとに寄せたパーパットが、めちゃめちゃ緊張しました。『今日は、これを入れたら1日うまくいきそうだな』という気がしていました」。独特の予感めいたものは、それまでにも何度かあった。この時も「真ん中からまっすぐ!」と思ってしっかり打ったパットを沈めて、落ち着いた。
強豪、日本大学ゴルフ部4年の時、日本女子学生タイトルを獲得し、89年にプロ入りした原田は、92年のミズノオープンで初優勝。この時「次は公式戦に勝ちたい」と、漠然とだが考えたことを覚えている。そのチャンスが、巡ってきた。
舞台は、鳥取県の旭国際浜村温泉ゴルフ倶楽部。山口県光市の実家から比較的近く、両親が応援に来てくれることになっていた。実家の経営するゴルフ練習場で腕を磨き、プロになった原田にとって、父は“師匠”でもあった。だから「頑張ろう」という気持ちはいつも以上に強かった。
練習を見た父に「オマエ、調子いいな」と言われ、安心もしていた。「そうでしょ、調子いいの、という感じで気合が入りました」と、初日から首位に3打差5位タイ。まずまずの滑り出しを見せると、2日目もしっかりとその位置をキープする。頭一つ抜け出したのは3日目だ。伸び悩む周囲をよそに1つスコアを伸ばし、トータル2アンダー。決勝ラウンドに残った68人のうち、ただ一人通算スコアをアンダーパーにして単独首位に立つ。3打差2位には吉川なよ子、安井純子の実力者2人と前年、プロ入りしたばかりの新鋭、高村亜紀。激戦の予感の中、突入した最終日だった。
6番までスコアカード通りのプレーを続け、7番でこの日最初のバーディ。「前半は全く覚えていないんです」というセリフからは、波風の少ないゴルフだったことがうかがえる。
トータル3アンダーで折り返した時には、同じ組の安井が2つスコアを伸ばし、差を2打に詰めていた。
バックナインに入っても、原田はマイペースのプレーを続けていた。追いかける安井が13番でボギーを叩き、差は再び3打に広がった。だが、安井はしぶとく14、15番で連続バーディ。原田も15番をバーディとして、2打差で残り3ホール。手に汗握る戦いが続いた。
18番は413ヤードと距離のあるパー4。身長152センチと出場選手中でもっとも小柄な原田は、当時のドライバーの平均飛距離が210ヤード。決して飛ぶほうではなく「池越えで、ウッドを持って頑張っても絶対セカンドが(グリーンに)届かない」というホール。それがわかっていたからこそ「17番まで必死に頑張らなきゃいけない」という気持ちで踏ん張り続けていた。プレー中、どれほど有利な展開でも「ゴルフは最後までわからない」と、気を抜かなかった。
「前の週まで台風で地面がぬかるんでいたから、(18番の)池越えはダフったりかんだりする可能性があるから」という18番を迎える前に、安井の17番ボギーで3打差となったことで「(18番で)ボギーを打っても大丈夫」と肩の力が少し抜けた。
それでも最後まで自分のゴルフを貫いた。セカンドショットは迷わず8番アイアンで池の手前にレイアップ。3打目をピンの右上、5メートルに乗せた。上からのパーパットをきっちりと沈めて鮮やかな逃げ切り優勝。「すごいガッツポーズをしたのを覚えています」と笑った。
飛距離はアドバンテージだが、それだけがゴルフではない。それを原田が身をもって証明した瞬間だった。「(この優勝で)自信はつきましたね。公式戦4日間を戦って、飛ばし屋じゃないのに勝ったヤツ、って言われるようになった。ゴルフは飛ばしだけではない。そういうゴルフでも勝てたと思えました」と、誇らしそうに口にする。
この年、ルーキーとしてデビューした福嶋晃子を始め、女子の世界でも急激に飛距離が求められていた時代。原田も飛距離は求めていたが、それにはある程度の身長が必要なこともわかっていた。「それ(身長)だけはどうにもならない。でも、相談してトレーニングを始めたりしながら、正確なショットとグリーンを外した時のアプローチ、パットを磨いていました」と、強みを生かす方法を模索していた。その甲斐あってのビッグタイトル獲得だった。
公式戦優勝者になって自信はついたが、原田自身は特に変わることはなかった。「天狗になると(長くなった鼻を)父にカン!と折られる感じでしたから、なりようがなかった」と笑うほど、変わらない日々。それでも、実績を残すに伴い、様々な方面で扱いが変わることは感じた。「クラブ調整にメーカーさんがそれまで以上に一生懸命、細かい要望に応えてくれるようになったのがうれしかった」と、実力者だからこそ、大切に扱われることを肌で感じるようになった。
原田は、最終戦明治乳業カップでも優勝。1シーズンに2つの公式戦タイトルを獲得した。96年、98年には、賞金女王争いを演じたすえに2位となり、90年代を代表する選手の一人に成長した。そのきっかけとなったのが、26歳で優勝した93年の日本女子プロゴルフ選手権だった。
2011年を最後にレギュラーツアーから離れ、協会理事職に専念したが、今年、10年ぶりにレギュラーツアー出場を決めた。「頑張りたい気持ちが強くなって…。パラリンピックを見ても、年齢を重ねて頑張っている人がいる。『チャレンジしてもいいんだな』と思ったんです」。年齢を重ね、54歳となったた今、思い出深い大会で、若い選手たちに混じってどんなゴルフができるのか。第26代大会優勝者のプレーも楽しみだ。(文・小川淳子)
手ではなく、足が震えた。生まれて初めてのことだった。3打差単独首位で迎えた最終日。最終組でスタートした直後の1番でのことだ。「確かグリーンに乗らず、1メートルちょっとに寄せたパーパットが、めちゃめちゃ緊張しました。『今日は、これを入れたら1日うまくいきそうだな』という気がしていました」。独特の予感めいたものは、それまでにも何度かあった。この時も「真ん中からまっすぐ!」と思ってしっかり打ったパットを沈めて、落ち着いた。
強豪、日本大学ゴルフ部4年の時、日本女子学生タイトルを獲得し、89年にプロ入りした原田は、92年のミズノオープンで初優勝。この時「次は公式戦に勝ちたい」と、漠然とだが考えたことを覚えている。そのチャンスが、巡ってきた。
舞台は、鳥取県の旭国際浜村温泉ゴルフ倶楽部。山口県光市の実家から比較的近く、両親が応援に来てくれることになっていた。実家の経営するゴルフ練習場で腕を磨き、プロになった原田にとって、父は“師匠”でもあった。だから「頑張ろう」という気持ちはいつも以上に強かった。
練習を見た父に「オマエ、調子いいな」と言われ、安心もしていた。「そうでしょ、調子いいの、という感じで気合が入りました」と、初日から首位に3打差5位タイ。まずまずの滑り出しを見せると、2日目もしっかりとその位置をキープする。頭一つ抜け出したのは3日目だ。伸び悩む周囲をよそに1つスコアを伸ばし、トータル2アンダー。決勝ラウンドに残った68人のうち、ただ一人通算スコアをアンダーパーにして単独首位に立つ。3打差2位には吉川なよ子、安井純子の実力者2人と前年、プロ入りしたばかりの新鋭、高村亜紀。激戦の予感の中、突入した最終日だった。
6番までスコアカード通りのプレーを続け、7番でこの日最初のバーディ。「前半は全く覚えていないんです」というセリフからは、波風の少ないゴルフだったことがうかがえる。
トータル3アンダーで折り返した時には、同じ組の安井が2つスコアを伸ばし、差を2打に詰めていた。
バックナインに入っても、原田はマイペースのプレーを続けていた。追いかける安井が13番でボギーを叩き、差は再び3打に広がった。だが、安井はしぶとく14、15番で連続バーディ。原田も15番をバーディとして、2打差で残り3ホール。手に汗握る戦いが続いた。
18番は413ヤードと距離のあるパー4。身長152センチと出場選手中でもっとも小柄な原田は、当時のドライバーの平均飛距離が210ヤード。決して飛ぶほうではなく「池越えで、ウッドを持って頑張っても絶対セカンドが(グリーンに)届かない」というホール。それがわかっていたからこそ「17番まで必死に頑張らなきゃいけない」という気持ちで踏ん張り続けていた。プレー中、どれほど有利な展開でも「ゴルフは最後までわからない」と、気を抜かなかった。
「前の週まで台風で地面がぬかるんでいたから、(18番の)池越えはダフったりかんだりする可能性があるから」という18番を迎える前に、安井の17番ボギーで3打差となったことで「(18番で)ボギーを打っても大丈夫」と肩の力が少し抜けた。
それでも最後まで自分のゴルフを貫いた。セカンドショットは迷わず8番アイアンで池の手前にレイアップ。3打目をピンの右上、5メートルに乗せた。上からのパーパットをきっちりと沈めて鮮やかな逃げ切り優勝。「すごいガッツポーズをしたのを覚えています」と笑った。
飛距離はアドバンテージだが、それだけがゴルフではない。それを原田が身をもって証明した瞬間だった。「(この優勝で)自信はつきましたね。公式戦4日間を戦って、飛ばし屋じゃないのに勝ったヤツ、って言われるようになった。ゴルフは飛ばしだけではない。そういうゴルフでも勝てたと思えました」と、誇らしそうに口にする。
この年、ルーキーとしてデビューした福嶋晃子を始め、女子の世界でも急激に飛距離が求められていた時代。原田も飛距離は求めていたが、それにはある程度の身長が必要なこともわかっていた。「それ(身長)だけはどうにもならない。でも、相談してトレーニングを始めたりしながら、正確なショットとグリーンを外した時のアプローチ、パットを磨いていました」と、強みを生かす方法を模索していた。その甲斐あってのビッグタイトル獲得だった。
公式戦優勝者になって自信はついたが、原田自身は特に変わることはなかった。「天狗になると(長くなった鼻を)父にカン!と折られる感じでしたから、なりようがなかった」と笑うほど、変わらない日々。それでも、実績を残すに伴い、様々な方面で扱いが変わることは感じた。「クラブ調整にメーカーさんがそれまで以上に一生懸命、細かい要望に応えてくれるようになったのがうれしかった」と、実力者だからこそ、大切に扱われることを肌で感じるようになった。
原田は、最終戦明治乳業カップでも優勝。1シーズンに2つの公式戦タイトルを獲得した。96年、98年には、賞金女王争いを演じたすえに2位となり、90年代を代表する選手の一人に成長した。そのきっかけとなったのが、26歳で優勝した93年の日本女子プロゴルフ選手権だった。
2011年を最後にレギュラーツアーから離れ、協会理事職に専念したが、今年、10年ぶりにレギュラーツアー出場を決めた。「頑張りたい気持ちが強くなって…。パラリンピックを見ても、年齢を重ねて頑張っている人がいる。『チャレンジしてもいいんだな』と思ったんです」。年齢を重ね、54歳となったた今、思い出深い大会で、若い選手たちに混じってどんなゴルフができるのか。第26代大会優勝者のプレーも楽しみだ。(文・小川淳子)