大観衆の中で2003年日本女子オープンを制した服部道子は35歳。1994年以来2度目のナショナルオープン優勝は、世代交代ムードの中、揺れる気持ちにしっかりと向き合ったからこそできたものだった。
2003年10月。千葉カントリークラブ野田コースは、予選ラウンドから大ギャラリーが詰めかけていた。話題の中心は宮里藍。前週のツアー競技、ミヤギテレビ杯女子オープンで並みいるプロを相手に優勝を飾った高校3年生が、プロ転向を決め、アマチュアとして最後にプレーすることになっていたからだ。
「世界に通用する選手を育成する、という方向でグリーンは速くて固いセッティングでした。印象深いのは、若手と戦い、(李)知姫さんとプレーオフをしたこと。ドライバーからパターまで、全部のクラブが要求される試合でした」。服部は、9月に35歳になったばかり。現在ほど若手中心ではなかったが、宮里の優勝はツアーの流れを大きく変える出来事だった。
高校時代に日本女子アマ、全米女子アマに優勝し、テキサス大学オースティン校時代にはエースとしてNCAAリーグ戦で活躍。“天才少女"と言われた服部は、プロ転向後、ツアー15勝を挙げていた。1998年には賞金女王のタイトルも獲得している。だが、この頃に、迷いがなかったと言ったら嘘になる。
「ドローボールでは厳しいな、と前年フェードに変え、手応えをつかんでシーズンに臨みました。世代交代ムードもあって、言い訳を見つけようと思ったら簡単に流されてしまう。気持ちが揺れている時期ではありました。でも、やるからにはちゃんとやらないと、ゴルフに対しても、自分の人生に対しても失礼になる。だから、今、足りないことは何なのか、とひたすら自分としっかり向き合っていました」と、当時の心境を口にする。
コースに対してリベンジしたい気持ちもあった。1984、85年と日本女子アマに優勝し、85年には全米女子アマも制覇。三連覇のかかった86年日本女子アマの舞台が千葉CC野田Cだった。
「三連覇がかかっていたんですが、気持ちがフワついたまま入ってしまって(最終日の)16番で3パットして1ストローク(差)で負けました」。橋本愛子に1打差の2位に終わった17 年前の記憶もあった。
“藍ちゃん狂騒曲"をよそに、服部は初日から3アンダーで単独首位に立つ。1打差2位にはすでにシーズン3勝を挙げ5年連続賞金女王に向けてひた走る不動裕理(結局年間10勝の記録を打ち立てる)、大山志保、小林浩美、肥後かおり。2日目には1つスコアを落とし、大山に首位の座を譲る。しかし、3日目には3バーディ、2ボギーでプレーしてトータル3アンダー。首位を奪い返した。1打差で上原彩子、2打差で李知姫と山口裕子。最終日、服部は上原と2人最終組でプレーした。
13番まで3バーディ、1ボギーのトータル4アンダー。2位に3打差をつけて独走態勢に見えたが、終盤に苦しい戦いが待っていた。15番でバンカーに2度入れるダブルボギーを叩くと、16、17番で連続ボギー。“貯金"をすべて吐き出して、イーブンパーで18番ティに立った。
バーディを獲ったのは初日だけ。2日目、3日目とパー止まりだったパー5だが「ここを決めないと勝ちはない。ダボ、ボギー、ボギーの自分に対する怒りもありました。守らなきゃ、という気持ちが出てしまったんだと思います。攻めの守りならいいけど、守りだけではだめ。それに気が付いて18番に向かいました」と、勝負に挑んだ。
前の組の知姫は、前年、賞金ランキング2位の脂ののった実力者。しっかりバーディを獲って1打抜け出した。服部と上原はどちらもバーディを取らなければ優勝はない。服部だけがバーディでトータル1アンダー。勝負は李とのプレーオフへと持ち込まれた。
「ジュニアからゴルフをやっていると、体もどんどん変わってくる。クラブ(が変わる)過渡期もどっぷり経験しました。思い描いたこととフィーリングが合わなくなってもきていた。疲れもとれにくくなり、ショットの精度も落ちたもどかしい時期。優勝から離れていて、ここで何かを変えなければ一生勝てないと思ったこともありました」と、臨んだシーズン。5月の廣済堂レディスで2シーズンぶりに優勝し、服部はショットの精度を取り戻しつつあった。
プレーオフ1ホール目の18番はともにパー。2ホール目は17年前の因縁が残る16番パー4。砲台グリーンで上りの403ヤードの難ホールだ。
ピン奥2.5メートルに2オンした知姫に対し、服部は左にグリーンオーバー。6メートルのパーパットも入らない。70センチのパーパットを残すだけの李に「なんとお祝いを言おうかな、と思っていました。完全に負けを覚悟していましたね」。
ところが、勝負は最後までわからない。カップに蹴られた知姫のパットは4メートルも転がり、返しのボギーパットも入らずまさかの4パットでダブルボギー。50センチのボギーパットを沈めた服部に勝利が転がり込んだ。「本当に16番には勝負の神様がいるのかな、と思いました。ボギーで優勝しちゃったのである意味ギフトのような勝ち方。でも、自分が取り組んでいたことに対するご褒美的なものかも、と思うようにしました。正直、ちゃんと勝っていない気がして後ろめたい気持ちもあったので、2009年に知姫さんが日本女子オープンに優勝した時に、勝手に肩の荷が下りました」と、後々まで、気持ちに引っかかりを残す勝利だったことを打ち明けた。
激戦にドラマチックな形で幕が下り、手にした9年ぶりのナショナルオープン2勝目は、服部にとって忘れられない名勝負となった。(文・小川淳子)
2003年10月。千葉カントリークラブ野田コースは、予選ラウンドから大ギャラリーが詰めかけていた。話題の中心は宮里藍。前週のツアー競技、ミヤギテレビ杯女子オープンで並みいるプロを相手に優勝を飾った高校3年生が、プロ転向を決め、アマチュアとして最後にプレーすることになっていたからだ。
「世界に通用する選手を育成する、という方向でグリーンは速くて固いセッティングでした。印象深いのは、若手と戦い、(李)知姫さんとプレーオフをしたこと。ドライバーからパターまで、全部のクラブが要求される試合でした」。服部は、9月に35歳になったばかり。現在ほど若手中心ではなかったが、宮里の優勝はツアーの流れを大きく変える出来事だった。
高校時代に日本女子アマ、全米女子アマに優勝し、テキサス大学オースティン校時代にはエースとしてNCAAリーグ戦で活躍。“天才少女"と言われた服部は、プロ転向後、ツアー15勝を挙げていた。1998年には賞金女王のタイトルも獲得している。だが、この頃に、迷いがなかったと言ったら嘘になる。
「ドローボールでは厳しいな、と前年フェードに変え、手応えをつかんでシーズンに臨みました。世代交代ムードもあって、言い訳を見つけようと思ったら簡単に流されてしまう。気持ちが揺れている時期ではありました。でも、やるからにはちゃんとやらないと、ゴルフに対しても、自分の人生に対しても失礼になる。だから、今、足りないことは何なのか、とひたすら自分としっかり向き合っていました」と、当時の心境を口にする。
コースに対してリベンジしたい気持ちもあった。1984、85年と日本女子アマに優勝し、85年には全米女子アマも制覇。三連覇のかかった86年日本女子アマの舞台が千葉CC野田Cだった。
「三連覇がかかっていたんですが、気持ちがフワついたまま入ってしまって(最終日の)16番で3パットして1ストローク(差)で負けました」。橋本愛子に1打差の2位に終わった17 年前の記憶もあった。
“藍ちゃん狂騒曲"をよそに、服部は初日から3アンダーで単独首位に立つ。1打差2位にはすでにシーズン3勝を挙げ5年連続賞金女王に向けてひた走る不動裕理(結局年間10勝の記録を打ち立てる)、大山志保、小林浩美、肥後かおり。2日目には1つスコアを落とし、大山に首位の座を譲る。しかし、3日目には3バーディ、2ボギーでプレーしてトータル3アンダー。首位を奪い返した。1打差で上原彩子、2打差で李知姫と山口裕子。最終日、服部は上原と2人最終組でプレーした。
13番まで3バーディ、1ボギーのトータル4アンダー。2位に3打差をつけて独走態勢に見えたが、終盤に苦しい戦いが待っていた。15番でバンカーに2度入れるダブルボギーを叩くと、16、17番で連続ボギー。“貯金"をすべて吐き出して、イーブンパーで18番ティに立った。
バーディを獲ったのは初日だけ。2日目、3日目とパー止まりだったパー5だが「ここを決めないと勝ちはない。ダボ、ボギー、ボギーの自分に対する怒りもありました。守らなきゃ、という気持ちが出てしまったんだと思います。攻めの守りならいいけど、守りだけではだめ。それに気が付いて18番に向かいました」と、勝負に挑んだ。
前の組の知姫は、前年、賞金ランキング2位の脂ののった実力者。しっかりバーディを獲って1打抜け出した。服部と上原はどちらもバーディを取らなければ優勝はない。服部だけがバーディでトータル1アンダー。勝負は李とのプレーオフへと持ち込まれた。
「ジュニアからゴルフをやっていると、体もどんどん変わってくる。クラブ(が変わる)過渡期もどっぷり経験しました。思い描いたこととフィーリングが合わなくなってもきていた。疲れもとれにくくなり、ショットの精度も落ちたもどかしい時期。優勝から離れていて、ここで何かを変えなければ一生勝てないと思ったこともありました」と、臨んだシーズン。5月の廣済堂レディスで2シーズンぶりに優勝し、服部はショットの精度を取り戻しつつあった。
プレーオフ1ホール目の18番はともにパー。2ホール目は17年前の因縁が残る16番パー4。砲台グリーンで上りの403ヤードの難ホールだ。
ピン奥2.5メートルに2オンした知姫に対し、服部は左にグリーンオーバー。6メートルのパーパットも入らない。70センチのパーパットを残すだけの李に「なんとお祝いを言おうかな、と思っていました。完全に負けを覚悟していましたね」。
ところが、勝負は最後までわからない。カップに蹴られた知姫のパットは4メートルも転がり、返しのボギーパットも入らずまさかの4パットでダブルボギー。50センチのボギーパットを沈めた服部に勝利が転がり込んだ。「本当に16番には勝負の神様がいるのかな、と思いました。ボギーで優勝しちゃったのである意味ギフトのような勝ち方。でも、自分が取り組んでいたことに対するご褒美的なものかも、と思うようにしました。正直、ちゃんと勝っていない気がして後ろめたい気持ちもあったので、2009年に知姫さんが日本女子オープンに優勝した時に、勝手に肩の荷が下りました」と、後々まで、気持ちに引っかかりを残す勝利だったことを打ち明けた。
激戦にドラマチックな形で幕が下り、手にした9年ぶりのナショナルオープン2勝目は、服部にとって忘れられない名勝負となった。(文・小川淳子)