ツアー通算41勝の永久シード選手、森口祐子には、手の中につかみかけた初優勝を、自ら手放した22歳の苦い思い出がある。1977年ミヤギテレビ杯。2打差単独首位に立ち、残りは2ホール。そんな場面で、悪夢は起きた。
秋の深まる9月末の宮城県。松島チサンCCで、初優勝目前の森口は自信と緊張の中、プレーしていた。2日間、36ホールのミヤギテレビ杯女子オープン。初日を田村算代(算は旧字体)に1打差の2位でプレーし、迎えた最終日の大詰めで、自分が単独首位に立っていることを知った。
「吉持(増田)姿子さんと同じ組だったのは覚えています。16番でスコアボードを確認して2打差で首位なのがわかった。みんなグリーンを外して時間がかかっていたから、何度もボードを見てすごくドキドキしていました。2.5メートルのパーパットが残っていたんですけど『これを入れたら2ストロークリードなんだな。あと2ホールだし、勝てる?』と思ったかもしれません。今思えば、勝てるなんて思ったらだめですね。あの時は自信があったのかもしれないけど」と、苦笑する47年前のその瞬間。思えばこの時、地獄の釜のフタは開いたのかもしれない。
パーパットを沈めて向かった17番は、軽く右にドッグレッグしたパー4だ。ティショットを右に打ち、つま先下がりのライの第2打に臨んだ。「私の少し後ろから、吉持さんが先にグリーンオン。それを見て私も『(グリーンに)乗るもんだ』と思って打ちました。だって、吉持さんより前にボールはあるし、この日は調子もよかったから」。だが、クラブのソールに当たったボールは、右の真下に落ちて、ブッシュの中。最悪の状況だ。
「ボールは探せたけど、グリーン方向に打とうとすればするほど(崖の上までが)遠くなる。でも、私はグリーン方向を狙ってしまった」。ブッシュからの3打目は、再び崖を転がり落ちる。OB。この時キャディに声をかけられたことを覚えている。
「きれいなハウスキャディさんでした。『森口さん、落ち着いて』と、上から言われた。『大丈夫。私、落ち着いているから』と答えたんですけど、たぶん全く落ち着いてなかったんでしょうね。次も同じことをしてしまったのだから」。5打目をOBにしたあたりで、頭が真っ白になった。7打目もOB。優勝争いどころではない。
9打目でようやく、グリーン方向ではなく出すことを考えた。横に出して、打った10打目もグリーンに乗らない。「そのあとはよく覚えていません」と、いうホールのスコアは『13』だった。
実は、このスコアも、自分で数えていたわけではない。次の18番のティグランド(当時)で、マーカーの吉持(増田)に「いくつ?」と聞かれ「すみません。わかりません」と答えた。「『じゃ、数えてあげるね』と言って指を折って数えてくれたのを見ているだけだったのをよく覚えています。でも、18番が残っているからプレーしなくちゃいけなくて…。その頃は、ボードも手で入れ替えていたから、17番の結果がまだ反映されていない。私がトップのままで、グリーン周りから声が聞こえてきました。『優勝するのはあの娘だよ』って。心の中で『違うの、違うの。私じゃないの』って言っていました」。
呆然としたままホールアウトして、クラブハウスの2階に上がった。すると、居合わせた先輩から「祐ちゃんおめでとう」と声をかけられる。これに対して「違うんです」と言った瞬間、ぼろぼろと涙がこぼれおちた。
魔の『13』の原因はどこにあったのか。「とにかく(第2打の)ライがわかっていなかった。吉持さんが乗ったから、私もグリーンに乗るもんだと思って打っているからです」。プロ入り2年目。師匠の井上誠次からは「絶対勝てるぞ」と言われて自信を持ち始めたタイミングでの出来事だった。この試合、結局森口はトータル9オーバーで15位タイに終わり、岡田美智子が優勝している。
森口はこの失敗を決して無駄にしなかった。むしろ、大きな糧にした。練習の仕方を変えたのだ。優勝争いの緊張した場面と同じような状況を作り出すことを考えた。「あの心境を経験したのは大きかったですね。突然のバクバク感を経験しないと乗り越えられないと思った」。編み出したのは、ダッシュしてからパットの練習をすることだった。気持ちからくる緊張とは違うが、とにかくドキドキする状況で打つことに慣れようとしたのだ。奪取してパッティング、ダッシュしてパッティング。所属していた岐阜関CCでは、不思議な練習風景が繰り返されることになった。
もちろん、プレーが終わるまで決して心のスキを作らないことも学んだ。前向きにこれを乗り越えようとしたのだ。その結果が、翌78年、ワールドレディスでの初優勝につながった。
「私の(ツアー通算)41勝は、あの『13』があったからだと思っています」と振り返る強烈な失敗談。どんな優勝の記憶よりも強く心に残る“優勝前夜”の悪夢こそが、永久シードへのターニングポイントだった。(文・小川淳子)
秋の深まる9月末の宮城県。松島チサンCCで、初優勝目前の森口は自信と緊張の中、プレーしていた。2日間、36ホールのミヤギテレビ杯女子オープン。初日を田村算代(算は旧字体)に1打差の2位でプレーし、迎えた最終日の大詰めで、自分が単独首位に立っていることを知った。
「吉持(増田)姿子さんと同じ組だったのは覚えています。16番でスコアボードを確認して2打差で首位なのがわかった。みんなグリーンを外して時間がかかっていたから、何度もボードを見てすごくドキドキしていました。2.5メートルのパーパットが残っていたんですけど『これを入れたら2ストロークリードなんだな。あと2ホールだし、勝てる?』と思ったかもしれません。今思えば、勝てるなんて思ったらだめですね。あの時は自信があったのかもしれないけど」と、苦笑する47年前のその瞬間。思えばこの時、地獄の釜のフタは開いたのかもしれない。
パーパットを沈めて向かった17番は、軽く右にドッグレッグしたパー4だ。ティショットを右に打ち、つま先下がりのライの第2打に臨んだ。「私の少し後ろから、吉持さんが先にグリーンオン。それを見て私も『(グリーンに)乗るもんだ』と思って打ちました。だって、吉持さんより前にボールはあるし、この日は調子もよかったから」。だが、クラブのソールに当たったボールは、右の真下に落ちて、ブッシュの中。最悪の状況だ。
「ボールは探せたけど、グリーン方向に打とうとすればするほど(崖の上までが)遠くなる。でも、私はグリーン方向を狙ってしまった」。ブッシュからの3打目は、再び崖を転がり落ちる。OB。この時キャディに声をかけられたことを覚えている。
「きれいなハウスキャディさんでした。『森口さん、落ち着いて』と、上から言われた。『大丈夫。私、落ち着いているから』と答えたんですけど、たぶん全く落ち着いてなかったんでしょうね。次も同じことをしてしまったのだから」。5打目をOBにしたあたりで、頭が真っ白になった。7打目もOB。優勝争いどころではない。
9打目でようやく、グリーン方向ではなく出すことを考えた。横に出して、打った10打目もグリーンに乗らない。「そのあとはよく覚えていません」と、いうホールのスコアは『13』だった。
実は、このスコアも、自分で数えていたわけではない。次の18番のティグランド(当時)で、マーカーの吉持(増田)に「いくつ?」と聞かれ「すみません。わかりません」と答えた。「『じゃ、数えてあげるね』と言って指を折って数えてくれたのを見ているだけだったのをよく覚えています。でも、18番が残っているからプレーしなくちゃいけなくて…。その頃は、ボードも手で入れ替えていたから、17番の結果がまだ反映されていない。私がトップのままで、グリーン周りから声が聞こえてきました。『優勝するのはあの娘だよ』って。心の中で『違うの、違うの。私じゃないの』って言っていました」。
呆然としたままホールアウトして、クラブハウスの2階に上がった。すると、居合わせた先輩から「祐ちゃんおめでとう」と声をかけられる。これに対して「違うんです」と言った瞬間、ぼろぼろと涙がこぼれおちた。
魔の『13』の原因はどこにあったのか。「とにかく(第2打の)ライがわかっていなかった。吉持さんが乗ったから、私もグリーンに乗るもんだと思って打っているからです」。プロ入り2年目。師匠の井上誠次からは「絶対勝てるぞ」と言われて自信を持ち始めたタイミングでの出来事だった。この試合、結局森口はトータル9オーバーで15位タイに終わり、岡田美智子が優勝している。
森口はこの失敗を決して無駄にしなかった。むしろ、大きな糧にした。練習の仕方を変えたのだ。優勝争いの緊張した場面と同じような状況を作り出すことを考えた。「あの心境を経験したのは大きかったですね。突然のバクバク感を経験しないと乗り越えられないと思った」。編み出したのは、ダッシュしてからパットの練習をすることだった。気持ちからくる緊張とは違うが、とにかくドキドキする状況で打つことに慣れようとしたのだ。奪取してパッティング、ダッシュしてパッティング。所属していた岐阜関CCでは、不思議な練習風景が繰り返されることになった。
もちろん、プレーが終わるまで決して心のスキを作らないことも学んだ。前向きにこれを乗り越えようとしたのだ。その結果が、翌78年、ワールドレディスでの初優勝につながった。
「私の(ツアー通算)41勝は、あの『13』があったからだと思っています」と振り返る強烈な失敗談。どんな優勝の記憶よりも強く心に残る“優勝前夜”の悪夢こそが、永久シードへのターニングポイントだった。(文・小川淳子)