今週行われるダンロップフェニックスは「日本に世界基準の大会を作ろう」を合言葉に、海外の強豪が大挙して出場してきた歴史を持つ。名実ともに世界トップレベルの試合に成長したことで、第1回大会から1984年まで11年連続で海外強豪が優勝をさらっていた。
その歴史に終止符を打ったのが、中嶋(当時は中島)常幸。自身のツアー48勝中「ベスト・オブ・ベスト」として挙げるべき試合が、日本人初制覇を成し遂げた1985年の今大会だという。
実はこの試合には“前哨戦“がある。さかのぼること4年前の、1981年大会だ。中嶋はこの年、当時全盛期にあったセベ・バレステロスとデッドヒートを演じた。すでに1979年の全英オープン、1980年のマスターズを制していたバレステロスは、あらゆる球筋を操る天才的な技術ですでに1977年のダンロップフェニックスも制していた。この年、バレステロスは日本オープンとフェニックスと日本で2勝しており、翌1978年の日本オープンをも連覇。日本のファンにもスペインの天才という印象が強烈に刻み付けられていた。
バレステロスは中嶋に1打差まで詰め寄られていた12番で、左の松林にぶち込む痛恨のミスショット。わずかに空いているのは右前方にある2本松の間のみ。グリーンの右サイドはOBゾーンで、右手前にはバンカーが大きく口を空けていた。
残り約200ヤード。5番アイアンから放たれたショットは、わずかな隙間をぶち抜く。いったんOBゾーンの上まで出たボールは、大きなフックを描いてグリーンをとらえた。このスーパーショットでピンチを脱したバレステロスは、最終18番のパー5を迎えた時、中嶋に2打差をつけてトップをキープしていた。
このホールで中嶋が選択した攻め方が、のちに物議をかもすことになる。中嶋は第2打を9番アイアンでレイアップ。3打目勝負を選択して結局バレステロスに3打差をつけられて2位に終わった。この時、バレステロスが「トミー(中嶋)があそこで、2打目を刻んでどうする」と発言。論争の火に油を注ぐ形になった。
当時、中嶋とバレステロスは契約先も同じミズノで練習や試合でよくラウンドしていた間柄。それだけに歯に衣着せぬ発言が出たわけだが、中嶋にも言い分があった。この大会に限っては、中嶋自身も心に決めた攻略法に沿って戦っていたからだ。
「それまで、フェニックスはそんなに得意じゃなかった。で、何が悪いのかよくよく考えた。一つ分かったことが、ティショットの攻め方が悪かった。まずドローで攻めるコースであること。たとえドローがかかり切らなくても、右の林からはグリーンに止めやすいスライスで狙える。改造前の当時のフェニックスは、グリーンのセンターから攻めていくことが基本だとも気づいた。というのも、あの頃は周囲の期待に過度に応えようとして、無謀な攻めをすることが、ついついあったから。その年は自分のプランニングに徹することに集中していた」。
中嶋はフェニックスへの対策としてティショットはドローで攻め、無謀な攻め方も極力排して4日間を戦っていたわけだ。「その延長線上で(最終18番に)来ているから2打目で狙うってこと自体、頭に浮かばなかった」(中嶋)。
批判は受けても、中嶋自身に、悔いはなかった。「(レイアップした18番の第2打は)無理に打てば届かない状況ではなかった。でもそういうプランでは来ていなかった。何百分の一の確率でイーグルを取りに行って、仮にバーディだとしてもセベがパーなら自分は勝てない。自分がレイアップして3打目をピッタリ寄せればバーディの可能性もある。セベが2オンを狙っていって、そこからボギーの可能性もゼロじゃない。戦うのはコースなんだっていう、コースマネジメントに徹する原型を作ってくれたのが1981年のこの大会だった」
この大会の2位をキッカケに、中嶋は大きな飛躍を遂げる。「原型ができた(すぐ後の)1982年、83年と賞金王になることができて、海外でも好成績が出るようになった」。大きく成長して迎えた1985年の大会で、中嶋はトータル11アンダーで単独首位。2打差の2位で追うバレステロスと、最終日に1981年以来4年ぶりの対決を演じることになる。
10番までに3バーディ、1ボギーの中嶋は、差を3打に広げていた。対するバレステロスは12番のバーディで中嶋との差を2打に縮める。だが、続く13番のパー4。中嶋は68ヤードの第2打をアプローチウェッジで直接叩き込むイーグルで突き放す。「難しい12番でセベがバーディ。どうしたってこちらのムードは悪くなるところ。でも13番の1発で、セベに『今日のオレは違うぞ』というところを見せられて、セベの追撃の芽を摘むことができた。乾坤一擲の1打だったね」
それでも、上がり5ホールの段階では、まだ気を抜くことはできなかった。「1981年の林の中からの第2打のようなスーパーショットができるのがセベ。日本の選手と違って、計算以上のショットをしてくるから、こっちが逃げの姿勢を見せたら、一発で飲み込まれる」。
緊迫した優勝争いが続いた末、中嶋に、最後のピンチが訪れたのが17番のパー3。「この日は、前半3日間と逆の風になり、17番はアゲンスト。4番アイアンで打ったらアゴのところに突き刺さって目玉になっていた。でもこれをボギーで切り抜けられて、勝利を確信したね。18番は、それこそ刻めばいいんだと(笑い)」。
最終18番は、1981年に批判を浴びたレイアップを選択。2位のバレステロスと陳志忠に3打差をつけて逃げ切った。
大会12年目にして、待望の日本人チャンピオンが誕生した瞬間だった。(文・小川朗)
その歴史に終止符を打ったのが、中嶋(当時は中島)常幸。自身のツアー48勝中「ベスト・オブ・ベスト」として挙げるべき試合が、日本人初制覇を成し遂げた1985年の今大会だという。
実はこの試合には“前哨戦“がある。さかのぼること4年前の、1981年大会だ。中嶋はこの年、当時全盛期にあったセベ・バレステロスとデッドヒートを演じた。すでに1979年の全英オープン、1980年のマスターズを制していたバレステロスは、あらゆる球筋を操る天才的な技術ですでに1977年のダンロップフェニックスも制していた。この年、バレステロスは日本オープンとフェニックスと日本で2勝しており、翌1978年の日本オープンをも連覇。日本のファンにもスペインの天才という印象が強烈に刻み付けられていた。
バレステロスは中嶋に1打差まで詰め寄られていた12番で、左の松林にぶち込む痛恨のミスショット。わずかに空いているのは右前方にある2本松の間のみ。グリーンの右サイドはOBゾーンで、右手前にはバンカーが大きく口を空けていた。
残り約200ヤード。5番アイアンから放たれたショットは、わずかな隙間をぶち抜く。いったんOBゾーンの上まで出たボールは、大きなフックを描いてグリーンをとらえた。このスーパーショットでピンチを脱したバレステロスは、最終18番のパー5を迎えた時、中嶋に2打差をつけてトップをキープしていた。
このホールで中嶋が選択した攻め方が、のちに物議をかもすことになる。中嶋は第2打を9番アイアンでレイアップ。3打目勝負を選択して結局バレステロスに3打差をつけられて2位に終わった。この時、バレステロスが「トミー(中嶋)があそこで、2打目を刻んでどうする」と発言。論争の火に油を注ぐ形になった。
当時、中嶋とバレステロスは契約先も同じミズノで練習や試合でよくラウンドしていた間柄。それだけに歯に衣着せぬ発言が出たわけだが、中嶋にも言い分があった。この大会に限っては、中嶋自身も心に決めた攻略法に沿って戦っていたからだ。
「それまで、フェニックスはそんなに得意じゃなかった。で、何が悪いのかよくよく考えた。一つ分かったことが、ティショットの攻め方が悪かった。まずドローで攻めるコースであること。たとえドローがかかり切らなくても、右の林からはグリーンに止めやすいスライスで狙える。改造前の当時のフェニックスは、グリーンのセンターから攻めていくことが基本だとも気づいた。というのも、あの頃は周囲の期待に過度に応えようとして、無謀な攻めをすることが、ついついあったから。その年は自分のプランニングに徹することに集中していた」。
中嶋はフェニックスへの対策としてティショットはドローで攻め、無謀な攻め方も極力排して4日間を戦っていたわけだ。「その延長線上で(最終18番に)来ているから2打目で狙うってこと自体、頭に浮かばなかった」(中嶋)。
批判は受けても、中嶋自身に、悔いはなかった。「(レイアップした18番の第2打は)無理に打てば届かない状況ではなかった。でもそういうプランでは来ていなかった。何百分の一の確率でイーグルを取りに行って、仮にバーディだとしてもセベがパーなら自分は勝てない。自分がレイアップして3打目をピッタリ寄せればバーディの可能性もある。セベが2オンを狙っていって、そこからボギーの可能性もゼロじゃない。戦うのはコースなんだっていう、コースマネジメントに徹する原型を作ってくれたのが1981年のこの大会だった」
この大会の2位をキッカケに、中嶋は大きな飛躍を遂げる。「原型ができた(すぐ後の)1982年、83年と賞金王になることができて、海外でも好成績が出るようになった」。大きく成長して迎えた1985年の大会で、中嶋はトータル11アンダーで単独首位。2打差の2位で追うバレステロスと、最終日に1981年以来4年ぶりの対決を演じることになる。
10番までに3バーディ、1ボギーの中嶋は、差を3打に広げていた。対するバレステロスは12番のバーディで中嶋との差を2打に縮める。だが、続く13番のパー4。中嶋は68ヤードの第2打をアプローチウェッジで直接叩き込むイーグルで突き放す。「難しい12番でセベがバーディ。どうしたってこちらのムードは悪くなるところ。でも13番の1発で、セベに『今日のオレは違うぞ』というところを見せられて、セベの追撃の芽を摘むことができた。乾坤一擲の1打だったね」
それでも、上がり5ホールの段階では、まだ気を抜くことはできなかった。「1981年の林の中からの第2打のようなスーパーショットができるのがセベ。日本の選手と違って、計算以上のショットをしてくるから、こっちが逃げの姿勢を見せたら、一発で飲み込まれる」。
緊迫した優勝争いが続いた末、中嶋に、最後のピンチが訪れたのが17番のパー3。「この日は、前半3日間と逆の風になり、17番はアゲンスト。4番アイアンで打ったらアゴのところに突き刺さって目玉になっていた。でもこれをボギーで切り抜けられて、勝利を確信したね。18番は、それこそ刻めばいいんだと(笑い)」。
最終18番は、1981年に批判を浴びたレイアップを選択。2位のバレステロスと陳志忠に3打差をつけて逃げ切った。
大会12年目にして、待望の日本人チャンピオンが誕生した瞬間だった。(文・小川朗)