「やった!プレーオフだ!」。ツアー未勝利。24歳の中嶋千尋は、2メートルのパーパットを沈めた瞬間、そう、心を躍らせた。「優勝するならプレーオフ」。プロになって3年、ずっとそう思い続けてきたからだ。
優勝した瞬間に、池があったら飛び込みたい。一度、冷静になってスコアカードを提出しなくてはならない普通の優勝では、すぐに勝利の美酒に酔うことはできないからイヤ。だからプレーオフで勝ちたい。ずっとそう思っていた。
夢の中では、何度もプレーオフでの優勝を経験していた。夜中にガッツポーズで目が覚めたことも1度や2度ではなかった。
米ツアー挑戦を心に誓い、練習にも気合が入るオフシーズンを過ごして迎えたプロ3年目の1988年6月。長岡CC(新潟県)で行われたダンロップレディス最終日を、中嶋は2打差単独首位で迎えていた。だが、3つスコアを落としてトータル3オーバー。18番を迎えたときには、吉川なよ子、山田満由美、劉素卿に並ばれていた。
ティショットは右のラフ。木がスタイミーになるためスライスをかけようとした第2打は、ラフからなのでうまくいかずにグリーン左のカラーに止まった。右に切られているピンまでは15メートル。「その頃はいつもパットがオーバーしていた」という傾向通り、バーディパットは2メートルもオーバーしてしまう。
決めなければプレーオフに残れない大事なパーパット。素振りをしているうちに、ふと、こんな誘惑にかられた。
「この間教わった転がりがいいというグリップをやってみようか」
ヘッドに近い右手の人差し指をグリップから外し、人差し指と中指の間にグリップが来る握りに替えて素振りをしてみた。『いやいやいやいや、こういう時はいつも通りがいい』と思い直して元のグリップに戻しました」。後にテレビの放送を見直すと握り方もわからないほど緊張していると思われたのだと思います。「相当緊張してますね〜」と解説されていた。だが、実はやったこともないグリップを急に思いついただけで冷静だった。
元のグリップで打ったパットは見事にど真ん中からカップに沈み、4人のプレーオフが決定。通算24勝で、この年もすでに2勝と絶好調の吉川以外は未勝利の3人が、サドンデスへと駒を進めた。
プレーオフで優勝したい気持ちでいっぱいの中嶋は、うれしくて仕方ない。「リリーフピッチャーみたいにカートに乗って、プレーオフに行くときもニコニコしてギャラリーに手を振ったりしてゴキゲンでした」。こんな出来事もあった。競技委員が決まった打順をレシーバーで伝える際に、あろうことか名前を間違えられてしまったのだ。「佐々木智子って言われたんです。優勝もしたことないし、同じ葛城GC所属で、一緒に練習ラウンドしたりして仲がいいから間違われたんだと思うけど。爆笑しちゃって」というプレーオフの始まりだった。
プレーオフに入る前から、手に汗かくほどずっと緊張はしていたけど、嬉しさの方が勝っていた。自分の前に打った山田がOBを打ったため、さらに緊張した。「もう1回、自分の心を整えて」打ったボールはナイスショットだった。
OBを打った山田が1ホール目で脱落。2ホール目で意外にも大本命の吉川が抜けて、劉との一騎打ちでプレーオフは続いた。4ホール目は、劉が真下から3メートルのバーディチャンスにつけ、横から5メートルを先に打った中嶋のパットはラインに乗った。ガッツポーズをしかけたほどだったが、最後に切れて入らない。絶体絶命、劉の絶好のバーディチャンス、打つときには目をつぶって祈っていた。「神様できることならもう少しプレーオフを続けさせてください」と。 劉のパットも同じように最後に切れた。 「もう1ホールできる!」と心が躍った。
息を吹き返した中嶋はフェアウェイ中央から手前6メートルに2オン。対する劉は、右のクロスバンカーからグリーン手前のバンカーとピンチが続き、パーが取れない。バーディパットを1メートルオーバーさせた中嶋がパーパットを沈め、初優勝が決まった。
「(優勝したら)大泣きすると思ってた」とのことだが、5ホールの長いプレーオフについて歩き、応援してくれた佐々木、前川睦子ら仲間たちが先に泣いてくれたので、嬉し過ぎて涙ひっこんじゃいました。幸せな気持ちでいっぱいになったという。
「当時は珍しい4日間大会で生放送だったから、最後が放送に入らなかったのを覚えています。でも、録画を見てもワクワクしたうれしい気持ちでプレーしているのがよくわかります」という最高の初優勝だった。
残念ながら飛び込むような池はなかったが、中島の夢が一つ、かなった瞬間だった。
2か月後には米ツアーのQTを突破。翌年から参戦している。前年、アメリカ以外で初めて賞金女王になった岡本綾子と同じフィールドへの挑戦だ。日本での実績が少ない中嶋の渡米に対し、無謀扱いして反対する人も多かったが、この優勝で後押ししてくれる人が増えたという。「世間的には調子に乗って(米国に)行ったと思われているけど、勝っても勝たなくても行くつもりだったんですけどね」と笑う。
4人プレーオフの大混戦を5ホールで制した中嶋の初優勝の記憶は、30年以上たった今でも、楽しさがよみがえるようなものだった。(文・小川淳子)
優勝した瞬間に、池があったら飛び込みたい。一度、冷静になってスコアカードを提出しなくてはならない普通の優勝では、すぐに勝利の美酒に酔うことはできないからイヤ。だからプレーオフで勝ちたい。ずっとそう思っていた。
夢の中では、何度もプレーオフでの優勝を経験していた。夜中にガッツポーズで目が覚めたことも1度や2度ではなかった。
米ツアー挑戦を心に誓い、練習にも気合が入るオフシーズンを過ごして迎えたプロ3年目の1988年6月。長岡CC(新潟県)で行われたダンロップレディス最終日を、中嶋は2打差単独首位で迎えていた。だが、3つスコアを落としてトータル3オーバー。18番を迎えたときには、吉川なよ子、山田満由美、劉素卿に並ばれていた。
ティショットは右のラフ。木がスタイミーになるためスライスをかけようとした第2打は、ラフからなのでうまくいかずにグリーン左のカラーに止まった。右に切られているピンまでは15メートル。「その頃はいつもパットがオーバーしていた」という傾向通り、バーディパットは2メートルもオーバーしてしまう。
決めなければプレーオフに残れない大事なパーパット。素振りをしているうちに、ふと、こんな誘惑にかられた。
「この間教わった転がりがいいというグリップをやってみようか」
ヘッドに近い右手の人差し指をグリップから外し、人差し指と中指の間にグリップが来る握りに替えて素振りをしてみた。『いやいやいやいや、こういう時はいつも通りがいい』と思い直して元のグリップに戻しました」。後にテレビの放送を見直すと握り方もわからないほど緊張していると思われたのだと思います。「相当緊張してますね〜」と解説されていた。だが、実はやったこともないグリップを急に思いついただけで冷静だった。
元のグリップで打ったパットは見事にど真ん中からカップに沈み、4人のプレーオフが決定。通算24勝で、この年もすでに2勝と絶好調の吉川以外は未勝利の3人が、サドンデスへと駒を進めた。
プレーオフで優勝したい気持ちでいっぱいの中嶋は、うれしくて仕方ない。「リリーフピッチャーみたいにカートに乗って、プレーオフに行くときもニコニコしてギャラリーに手を振ったりしてゴキゲンでした」。こんな出来事もあった。競技委員が決まった打順をレシーバーで伝える際に、あろうことか名前を間違えられてしまったのだ。「佐々木智子って言われたんです。優勝もしたことないし、同じ葛城GC所属で、一緒に練習ラウンドしたりして仲がいいから間違われたんだと思うけど。爆笑しちゃって」というプレーオフの始まりだった。
プレーオフに入る前から、手に汗かくほどずっと緊張はしていたけど、嬉しさの方が勝っていた。自分の前に打った山田がOBを打ったため、さらに緊張した。「もう1回、自分の心を整えて」打ったボールはナイスショットだった。
OBを打った山田が1ホール目で脱落。2ホール目で意外にも大本命の吉川が抜けて、劉との一騎打ちでプレーオフは続いた。4ホール目は、劉が真下から3メートルのバーディチャンスにつけ、横から5メートルを先に打った中嶋のパットはラインに乗った。ガッツポーズをしかけたほどだったが、最後に切れて入らない。絶体絶命、劉の絶好のバーディチャンス、打つときには目をつぶって祈っていた。「神様できることならもう少しプレーオフを続けさせてください」と。 劉のパットも同じように最後に切れた。 「もう1ホールできる!」と心が躍った。
息を吹き返した中嶋はフェアウェイ中央から手前6メートルに2オン。対する劉は、右のクロスバンカーからグリーン手前のバンカーとピンチが続き、パーが取れない。バーディパットを1メートルオーバーさせた中嶋がパーパットを沈め、初優勝が決まった。
「(優勝したら)大泣きすると思ってた」とのことだが、5ホールの長いプレーオフについて歩き、応援してくれた佐々木、前川睦子ら仲間たちが先に泣いてくれたので、嬉し過ぎて涙ひっこんじゃいました。幸せな気持ちでいっぱいになったという。
「当時は珍しい4日間大会で生放送だったから、最後が放送に入らなかったのを覚えています。でも、録画を見てもワクワクしたうれしい気持ちでプレーしているのがよくわかります」という最高の初優勝だった。
残念ながら飛び込むような池はなかったが、中島の夢が一つ、かなった瞬間だった。
2か月後には米ツアーのQTを突破。翌年から参戦している。前年、アメリカ以外で初めて賞金女王になった岡本綾子と同じフィールドへの挑戦だ。日本での実績が少ない中嶋の渡米に対し、無謀扱いして反対する人も多かったが、この優勝で後押ししてくれる人が増えたという。「世間的には調子に乗って(米国に)行ったと思われているけど、勝っても勝たなくても行くつもりだったんですけどね」と笑う。
4人プレーオフの大混戦を5ホールで制した中嶋の初優勝の記憶は、30年以上たった今でも、楽しさがよみがえるようなものだった。(文・小川淳子)