ティイングエリアは、今で言えば「密」の状態だった。1984年6月24日。能登半島の中ほどにある朱鷺の台カントリークラブ能州台コースの18番(パー4)には、6人の女子プロゴルファーが集結していた。
男女同時開催の、美津濃トーナメント。隣の眉丈台コースでは男子の最終日が行われ、新井規矩雄が72ホール目で尾崎直道を振り切り1打差で優勝を飾ったが、女子は本選の54ホールでは決着しなかった。
それどころか6人がトータル3オーバーのトップに並んでホールアウト。18番のみで行うプレーオフへともつれ込んだ。通常複数のホールを使うプレーオフだが、この時女子にはテレビカメラが18番にしか設置されていなかったからだ。
現在では日本女子プロゴルフ協会の理事を務める小田美岐にとって、これは降ってわいたようなプロ初優勝のチャンスだった。2日目は14位からのスタートで、最終日は「71」。「ホールアウトした時には、優勝なんて夢にも思わなかった。ところが時間が経つうちに上位陣が落ちてきて『あれ?プレーオフになるかも』と思ったんです」(小田)。
小田はこの頃、周囲から注がれる厳しい視線に対して「優勝」という答えを出さねばならない時期に来ていた。アマチュアだった平安女子高校時代に日本女子学生、関西女子学生の大学タイトルを制覇。1979年の日本女子アマ選手権を制し、日本女子オ―プンのローアマにも3度輝いた。国際大会にも日本代表として出場し、1978年の世界女子アマで2位に入り、アジア女子アマでも2勝。同志社大学を卒業した1982年にアマ史上最高の38冠を手に鳴り物入りでプロ入りした。
しかし周囲の期待をよそに、初優勝は難産だった。プロ3年目のシーズンに入り「なんで勝てないんだと(マスコミから)叩かれ始めた時期だった」(小田)。そうした雑音を封じ込めるためには、優勝しかない。そのチャンスがようやくやってきたわけだ。
しかし初優勝への道は平坦ではなかった。小田の前に大きな壁が立ちはだかった。実はこの大会、当時29歳と心技体とも充実した時を迎え、最強の名を欲しいままにしていたト阿玉の4週連続優勝がかかっていた。トもまた11位からのスタートで72とスコアを伸ばせず、小田と同じ3オーバーでフィニッシュ。半ばあきらめていたところに、プレーオフの権利が転がり込んできた。
この後、場内がざわつき始め、異様なムードに包まれていく。上がっている選手がスコアを伸ばせず、岡田美智子、柏戸レイ子、中尾幸子、石川三江子の4人が3オーバーでホールアウト。6人のプレーオフという前代未聞の事態に発展した。
当時、6人は国内の試合では男女を通じて最多記録だった。女子は1975年の産報チャンピオンズの4人、男子は1936年の日本オープンにおける5人を更新する記録となった。
プレーオフが、始まった。注目はやはりトの4週連続Vがなるかどうかに集まった。小田も「トさんが一番強い時で、所属の美津濃が主催の試合。最終日は(勝負色の)ピンク着てきているし、誰もが『トさんのもの』と思っていましたし、そう、私も(笑)」。
プレーオフの1ホール目。その予感が的中するかのような展開となる。手前のバンカーには入れたくないが、ピンの奥にも打ちたくない設定。ここでトがピン80センチにつけるスーパーショットを見せた。
他の選手は中尾がボギーで、4人がパー。トがこれを決めて、あっさり決着かと思った瞬間--。このパットをポロリと外す。トは1973、74年に樋口久子が記録している4週連続優勝に並ぶ絶好のチャンスを逃してしまった。
中尾の敗退が決まると、プレーオフは1ホールに1人が脱落するシュートアウト方式の様相を呈していく。2ホール目で石川がボギーで外れ、さらに3ホール目でショッキングな事態が起きる。大本命のトが3ホール目でボギー。さらに次の4ホール目で柏戸がボギーと、4ホール目までボギーを叩いたものが1人ずつクラブハウスへと帰っていく。
「簡単にはバーディが取れないホールなので、ボギーで落ちていく展開。これは我慢比べになるなと思いました。私もボギーだけは打ちたくない、と思ってプレーしていた」。こうして小田は、5ホール目から39歳の岡田との一騎打ちの形で戦うことになる。
両者とも一歩も譲らず、プレーオフの6ホール目までスコアカード通りのパーを重ねた。7ホール目になると、25歳と若い小田も疲労を感じるようになる。「日没も近くなって、私も相当疲れていました」。
岡田は左ラフからの第2打を、行ってはいけないグリーン奥のラフにこぼす。一方の小田はピン左16メートルに2オンさせた。こうなると岡田は苦しい。上からのアプローチは3メートルもオーバー。パーパットを外して、万事休す。2パットに収めた小田が、念願の初優勝を飾った。
「鉄人」として知られる岡田をして「最後は体力負けでした」と言わしめた小田の頑張り。小田はプロ入り後、倉本昌弘が率いるマッシ―軍団入りして、オフにはハワイや高知でトレーニングを積んでいた。そうした地道な努力が、2時間を超える死闘を制する原動力となったわけだ。
また、この大会は当時、東海クラシックと並んで男女同じゴルフ場(使用コースは別)で開催されていた。倉本や牧野裕、湯原信光ら同じグループの仲間と同じホテルに泊まっていて「心強かったのも事実でした。プレーオフはみんな飛行機や電車の時間があって帰ってしまいましたが(笑)」。
すでに飛行機も列車も出た後で、通常なら現地に宿泊するところ。だが、小田は初優勝を両親に報告するため、タクシーに飛び乗り一路実家のある京都に向かった。「本当に、うれしかったですね」。後部座席のシートに身を沈め、小田は初優勝の実感をかみ締めた。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
男女同時開催の、美津濃トーナメント。隣の眉丈台コースでは男子の最終日が行われ、新井規矩雄が72ホール目で尾崎直道を振り切り1打差で優勝を飾ったが、女子は本選の54ホールでは決着しなかった。
それどころか6人がトータル3オーバーのトップに並んでホールアウト。18番のみで行うプレーオフへともつれ込んだ。通常複数のホールを使うプレーオフだが、この時女子にはテレビカメラが18番にしか設置されていなかったからだ。
現在では日本女子プロゴルフ協会の理事を務める小田美岐にとって、これは降ってわいたようなプロ初優勝のチャンスだった。2日目は14位からのスタートで、最終日は「71」。「ホールアウトした時には、優勝なんて夢にも思わなかった。ところが時間が経つうちに上位陣が落ちてきて『あれ?プレーオフになるかも』と思ったんです」(小田)。
小田はこの頃、周囲から注がれる厳しい視線に対して「優勝」という答えを出さねばならない時期に来ていた。アマチュアだった平安女子高校時代に日本女子学生、関西女子学生の大学タイトルを制覇。1979年の日本女子アマ選手権を制し、日本女子オ―プンのローアマにも3度輝いた。国際大会にも日本代表として出場し、1978年の世界女子アマで2位に入り、アジア女子アマでも2勝。同志社大学を卒業した1982年にアマ史上最高の38冠を手に鳴り物入りでプロ入りした。
しかし周囲の期待をよそに、初優勝は難産だった。プロ3年目のシーズンに入り「なんで勝てないんだと(マスコミから)叩かれ始めた時期だった」(小田)。そうした雑音を封じ込めるためには、優勝しかない。そのチャンスがようやくやってきたわけだ。
しかし初優勝への道は平坦ではなかった。小田の前に大きな壁が立ちはだかった。実はこの大会、当時29歳と心技体とも充実した時を迎え、最強の名を欲しいままにしていたト阿玉の4週連続優勝がかかっていた。トもまた11位からのスタートで72とスコアを伸ばせず、小田と同じ3オーバーでフィニッシュ。半ばあきらめていたところに、プレーオフの権利が転がり込んできた。
この後、場内がざわつき始め、異様なムードに包まれていく。上がっている選手がスコアを伸ばせず、岡田美智子、柏戸レイ子、中尾幸子、石川三江子の4人が3オーバーでホールアウト。6人のプレーオフという前代未聞の事態に発展した。
当時、6人は国内の試合では男女を通じて最多記録だった。女子は1975年の産報チャンピオンズの4人、男子は1936年の日本オープンにおける5人を更新する記録となった。
プレーオフが、始まった。注目はやはりトの4週連続Vがなるかどうかに集まった。小田も「トさんが一番強い時で、所属の美津濃が主催の試合。最終日は(勝負色の)ピンク着てきているし、誰もが『トさんのもの』と思っていましたし、そう、私も(笑)」。
プレーオフの1ホール目。その予感が的中するかのような展開となる。手前のバンカーには入れたくないが、ピンの奥にも打ちたくない設定。ここでトがピン80センチにつけるスーパーショットを見せた。
他の選手は中尾がボギーで、4人がパー。トがこれを決めて、あっさり決着かと思った瞬間--。このパットをポロリと外す。トは1973、74年に樋口久子が記録している4週連続優勝に並ぶ絶好のチャンスを逃してしまった。
中尾の敗退が決まると、プレーオフは1ホールに1人が脱落するシュートアウト方式の様相を呈していく。2ホール目で石川がボギーで外れ、さらに3ホール目でショッキングな事態が起きる。大本命のトが3ホール目でボギー。さらに次の4ホール目で柏戸がボギーと、4ホール目までボギーを叩いたものが1人ずつクラブハウスへと帰っていく。
「簡単にはバーディが取れないホールなので、ボギーで落ちていく展開。これは我慢比べになるなと思いました。私もボギーだけは打ちたくない、と思ってプレーしていた」。こうして小田は、5ホール目から39歳の岡田との一騎打ちの形で戦うことになる。
両者とも一歩も譲らず、プレーオフの6ホール目までスコアカード通りのパーを重ねた。7ホール目になると、25歳と若い小田も疲労を感じるようになる。「日没も近くなって、私も相当疲れていました」。
岡田は左ラフからの第2打を、行ってはいけないグリーン奥のラフにこぼす。一方の小田はピン左16メートルに2オンさせた。こうなると岡田は苦しい。上からのアプローチは3メートルもオーバー。パーパットを外して、万事休す。2パットに収めた小田が、念願の初優勝を飾った。
「鉄人」として知られる岡田をして「最後は体力負けでした」と言わしめた小田の頑張り。小田はプロ入り後、倉本昌弘が率いるマッシ―軍団入りして、オフにはハワイや高知でトレーニングを積んでいた。そうした地道な努力が、2時間を超える死闘を制する原動力となったわけだ。
また、この大会は当時、東海クラシックと並んで男女同じゴルフ場(使用コースは別)で開催されていた。倉本や牧野裕、湯原信光ら同じグループの仲間と同じホテルに泊まっていて「心強かったのも事実でした。プレーオフはみんな飛行機や電車の時間があって帰ってしまいましたが(笑)」。
すでに飛行機も列車も出た後で、通常なら現地に宿泊するところ。だが、小田は初優勝を両親に報告するため、タクシーに飛び乗り一路実家のある京都に向かった。「本当に、うれしかったですね」。後部座席のシートに身を沈め、小田は初優勝の実感をかみ締めた。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)