1988年5月8日。ゴールデンウイークの最終日は、良く晴れた日曜日だった。東京都稲城市の東京よみうりカントリークラブでは、国内女子プロゴルフトーナメントのコニカカップワールドレディス最終日が行われていた。
ゴルフ場を、春の装いに身を包んだ1万2519人の大観衆が埋め尽くしていた。主役は、文句なしで岡本綾子。前年のマツダジャパンクラシックで米国人以外で初の米ツアー賞金女王を決めたばかりだった。
すでに1月から米ツアーを転戦していた岡本が、日本で戦うのは年が変わってからは初めてだった。
平日にもかかわらず6131人が詰めかけた大会初日は岡本と同じソフトボールの出身で、仲の良い小林洋子が3アンダーの「69」を叩き出し、単独首位に立つ。これが「綾子ファミリー劇場」のプロローグとなる。
2日目は小田美岐が4アンダーで首位に立つが、前日首位の小林が2位、岡本のマネジメント事務所所属のデボラ・マカフィー(3位)と生駒佳代子(4位)もトップグループに加わった。岡本も生駒と同じく4位にいる。
3日目の組み合わせは、最終組で小田とともに回るのが小林とマカフィー。その1組前で岡本、生駒の師弟直接対決が実現。高須愛子がそこに割って入った。
生駒が綾子ファミリーに入るきっかけを作ってくれたのは、岡本の今治明徳高ソフトボール部の後輩である宮田佳美。生駒が高校卒業後、研修生生活を送った蒲生ゴルフクラブ。その隣の信楽カントリー倶楽部の研修生だった宮田と仲良くなったことで、岡本を紹介されることになる。
岡本も生駒をフロリダやカリフォルニアの拠点に招いて一緒にトレーニングするなど可愛がった。生駒は素質を開花させ1985年の北海道女子オープン、1986年の日本女子オープン、キャノン女子オープンとすでに3勝を挙げていた。しかし岡本は米ツアーに常駐していたためシーズン中に会うことはほとんどなく、当然優勝をした時も岡本は不在だった。
それだけに、生駒にとってこの大会は岡本の前で成長を見せる千載一遇のチャンスだった。3日目、生駒は「72」のパープレー。一方の岡本は「74」に終わった。そこで岡本は生駒にこんな誉め言葉を贈った。
「グリップ直していいスイングになったね。努力してるね」
最終日は難しいコンディションとなった。風速15メートル。のちにジブリ作品「平成ぽんぽこ合戦」の舞台にもなる多摩丘陵に、春の嵐が吹き渡る。
優勝に王手をかけていたのは、3日目69で回りトータル4アンダーまでスコアを伸ばしたマカフィー。2歳下の2位・生駒に4打差をつけてスタートしたが、マカフィーはプロ入り4年目ながら優勝経験はない。2番でボギーが先行すると、4番でもボギーを叩き、初Vの重圧と強風で苦しいゴルフが続く。
強風はショットだけでなく、パットにも影響を及ぼした。「風でボールのラインがたびたび変わった」(生駒)。そんな状況下、生駒にも均等に試練はやってくる。14番で生駒がボギーを叩き、再びマカフィーに並ばれてしまう。
さらに15番、153ヤードのパー3は強烈なアゲンスト。生駒のティショットはその風を突いて、左の奥に大きくグリーンをオーバーしてしまう。多くのプレーヤーが勝機を潰した、16番ティイングエリア近くの崖下。そこにはテレビ塔や椅子などがあったため競技委員を呼んで救済を受ける場所を探すと、ちょうどグリーンを狙える場所にドロップできた。
生駒はダブルボギーの大ピンチをしのぎ、このホールをボギーに収めた。ここで流れは生駒に傾き始める。
マカフィーが16番でボギーを叩き、1打リードして迎えた17番のパー5。生駒は3メートルのバーディチャンスにつける。「タッチ、ラインも思った通り」のパットは、左から右へときれいなラインを描いてカップに消えた。マカフィーとの差は「2」に開き、これが事実上の勝負を決めるパットとなった。
師匠の岡本の前で味わう、初めての優勝。それを見た岡本も、我がことのように喜んでくれた。「良かった、佳代ちゃん。えこひいきかもしれないけど、一番勝ってほしかった人」と最大級の賛辞を残して、9番ホールのフェアウェイに向かった。
そこにはヘリコプターが待っていた。岡本には翌週ディフェンディングチャンピオンとして戦うクライスラー・プリムスクラシック(米ニュージャージー州)が控えていた。そのさらに翌週には、メジャー第2戦の全米女子プロゴルフ選手権も予定されていた。
折しもゴールデンウィーク最後の日曜日。幹線道路の大渋滞を避けるには、空路成田空港に直行するのが最善の策だった。ヘリに向かいながら岡本は自分に贈られた花束のうちひとつを、生駒におすそ分けして機上の人になった。
そんな1日を振りかえって、生駒もこう言った。「やっぱり、一番うれしくて、印象に残る優勝ですよね。綾子さんの前で勝てた、唯一の優勝ですから」。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
ゴルフ場を、春の装いに身を包んだ1万2519人の大観衆が埋め尽くしていた。主役は、文句なしで岡本綾子。前年のマツダジャパンクラシックで米国人以外で初の米ツアー賞金女王を決めたばかりだった。
すでに1月から米ツアーを転戦していた岡本が、日本で戦うのは年が変わってからは初めてだった。
平日にもかかわらず6131人が詰めかけた大会初日は岡本と同じソフトボールの出身で、仲の良い小林洋子が3アンダーの「69」を叩き出し、単独首位に立つ。これが「綾子ファミリー劇場」のプロローグとなる。
2日目は小田美岐が4アンダーで首位に立つが、前日首位の小林が2位、岡本のマネジメント事務所所属のデボラ・マカフィー(3位)と生駒佳代子(4位)もトップグループに加わった。岡本も生駒と同じく4位にいる。
3日目の組み合わせは、最終組で小田とともに回るのが小林とマカフィー。その1組前で岡本、生駒の師弟直接対決が実現。高須愛子がそこに割って入った。
生駒が綾子ファミリーに入るきっかけを作ってくれたのは、岡本の今治明徳高ソフトボール部の後輩である宮田佳美。生駒が高校卒業後、研修生生活を送った蒲生ゴルフクラブ。その隣の信楽カントリー倶楽部の研修生だった宮田と仲良くなったことで、岡本を紹介されることになる。
岡本も生駒をフロリダやカリフォルニアの拠点に招いて一緒にトレーニングするなど可愛がった。生駒は素質を開花させ1985年の北海道女子オープン、1986年の日本女子オープン、キャノン女子オープンとすでに3勝を挙げていた。しかし岡本は米ツアーに常駐していたためシーズン中に会うことはほとんどなく、当然優勝をした時も岡本は不在だった。
それだけに、生駒にとってこの大会は岡本の前で成長を見せる千載一遇のチャンスだった。3日目、生駒は「72」のパープレー。一方の岡本は「74」に終わった。そこで岡本は生駒にこんな誉め言葉を贈った。
「グリップ直していいスイングになったね。努力してるね」
最終日は難しいコンディションとなった。風速15メートル。のちにジブリ作品「平成ぽんぽこ合戦」の舞台にもなる多摩丘陵に、春の嵐が吹き渡る。
優勝に王手をかけていたのは、3日目69で回りトータル4アンダーまでスコアを伸ばしたマカフィー。2歳下の2位・生駒に4打差をつけてスタートしたが、マカフィーはプロ入り4年目ながら優勝経験はない。2番でボギーが先行すると、4番でもボギーを叩き、初Vの重圧と強風で苦しいゴルフが続く。
強風はショットだけでなく、パットにも影響を及ぼした。「風でボールのラインがたびたび変わった」(生駒)。そんな状況下、生駒にも均等に試練はやってくる。14番で生駒がボギーを叩き、再びマカフィーに並ばれてしまう。
さらに15番、153ヤードのパー3は強烈なアゲンスト。生駒のティショットはその風を突いて、左の奥に大きくグリーンをオーバーしてしまう。多くのプレーヤーが勝機を潰した、16番ティイングエリア近くの崖下。そこにはテレビ塔や椅子などがあったため競技委員を呼んで救済を受ける場所を探すと、ちょうどグリーンを狙える場所にドロップできた。
生駒はダブルボギーの大ピンチをしのぎ、このホールをボギーに収めた。ここで流れは生駒に傾き始める。
マカフィーが16番でボギーを叩き、1打リードして迎えた17番のパー5。生駒は3メートルのバーディチャンスにつける。「タッチ、ラインも思った通り」のパットは、左から右へときれいなラインを描いてカップに消えた。マカフィーとの差は「2」に開き、これが事実上の勝負を決めるパットとなった。
師匠の岡本の前で味わう、初めての優勝。それを見た岡本も、我がことのように喜んでくれた。「良かった、佳代ちゃん。えこひいきかもしれないけど、一番勝ってほしかった人」と最大級の賛辞を残して、9番ホールのフェアウェイに向かった。
そこにはヘリコプターが待っていた。岡本には翌週ディフェンディングチャンピオンとして戦うクライスラー・プリムスクラシック(米ニュージャージー州)が控えていた。そのさらに翌週には、メジャー第2戦の全米女子プロゴルフ選手権も予定されていた。
折しもゴールデンウィーク最後の日曜日。幹線道路の大渋滞を避けるには、空路成田空港に直行するのが最善の策だった。ヘリに向かいながら岡本は自分に贈られた花束のうちひとつを、生駒におすそ分けして機上の人になった。
そんな1日を振りかえって、生駒もこう言った。「やっぱり、一番うれしくて、印象に残る優勝ですよね。綾子さんの前で勝てた、唯一の優勝ですから」。(取材・構成=日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)