「死にそうで死なない人みたいだった」。中嶋千尋が、そう振り返るのは低迷の中で迎えた1998年のシーズンのことだ。
88年に4人プレーオフで初優勝を飾ったあと、89年から2年間、米ツアーに挑戦。帰国後は国内でプレーを続けていたが、2勝目が遠かった。94年からはシード権も失いながら、必死で戦い続けていた。
気が付けば34歳。体もボロボロになっていた。首、背中、腰に原因不明の痛みが出て練習もままならない。「これが最後」と臨んだシーズンだったが、開幕から3試合予選落ちが続いた。「本当にやめようと思って、家に閉じこもってやめたらどうするんだろう、とか考えた」というほど追い詰められていた。
だが、習慣とは恐ろしい。「チケットがあるから、ってうっかり飛行機に乗って道後(愛媛県)まで行っちゃって」と、出場したのが健勝苑レディス・道後だった。「いつも、自分の意志を持って動いているのに、あんなに流れのまま、行動したことはなかった。試合を開催して下さっている方には本当に申し訳ないくらいただただ、流れで出場した」と打ち明ける。この行動が、復活につながるのだが、そんなことは夢にも思っていなかった。
開催コースの道後ゴルフクラブに行くと、クラブハウスで会った大先輩の柏戸レイ子から声をかけられる。スポンサーとの食事会への誘いだった。こぢんまりした食事会が終わるころ、色紙にサインを頼まれた。「好きなことを書いて」と言われ、書いたのは「ハリアーと着物とジュエリーをください」だった。いずれも優勝副賞だ。
「ゴルフをやめようと思ってるし、優勝なんて考えてもいない。酔って調子に乗って書いただけなんです」。試合が始まる前の一幕が、思わぬ“予告”となることを、この時は知る由もなかった。
そんな状況ではあったが、ふたを開けてみると思わぬスコアが出た。初日は4アンダーで回って、白戸由香に3打差の2位タイ。2日目も3つスコアを伸ばして、首位の野呂奈津子と2打差の2位につけた。もっとも、本人は、この2日間をまったく覚えていない。「(最終日)最終組になったけど、勝つとか全然思ってなかった。ただ、せめて元気な姿を見せよう」と、両親を現地に呼んだことはよく覚えている。
ところが、最終日が始まると、人が変わったようにスイッチが入る。「優勝争いは大好物。どんどんいい感じに集中力が増していった。優勝するとは思っていないけど、ただ優勝争いが楽しくて、ぐんぐんその中に入っていった感じ」と、前半を終えて2打差単独首位に立つ。
後半は大激戦となる。11番バーディの野呂に1打差に迫られると、中嶋は12番でボギーを叩いてトータル9アンダーで並んでしまう。
15番では、気持ちよく打ったティショットが「絶対行っちゃいけない奈落の底みたいな崖下。木につかまりながらボールのあるところまで下りて行った」という状況だった。
折しも、ここからがテレビの中継ホール。のちに、本人が録画を見ると、そのシーンが映ると放送席からの混乱が伝わってきたという。通常、ボールが行くはずのない場所にいる中嶋を、カメラが上から映していたからだ。
林も邪魔になり、グリーン方向に上げていくのは難しい。だが、本人は「アンプレヤブルかな、どうしようかなぁ、とのんびりした気分で降りて行った。(映像を見ると)普段はチャカチャカ速く動くのに、動きがゆっくりなのはゾーンに入っていたからかも」と振り返る。
絶体絶命。だが、辺りを見回すうちに光明を見出した。隣の14番のほうに打つ「逆走ルート」(中嶋)だ。3打目は14番側から、ホールとホールの間にあった石垣を超えるアプローチ。「(15番は)短いミドルなのに長くなっちゃった。プレーを見たいギャラリーが石垣の上にいて、サファリパークの猛獣になった感じがした」と笑う。
残り距離もはっきりしないまま、走って行って確認した見た目の感覚だけで打った3打目は、見事にグリーンを捕らえた。2.5メートルのパーパットは残念ながら入らなかったが、それでもボギーでしのいだ。
残り3ホールで首位転落。野呂が16番でボギーを叩いたことで、トータル8アンダーで再び首位を並走する。
勝負を決めたのは17番だった。「長いパットが入って」バーディ奪取。18番は2人ともパーで、中嶋が9年297日ぶりのツアー2勝目を飾った。
「つらい時期も応援して下さった方にお礼が言いたいという気持ちが勝因だと思います」。思いがかなえられた瞬間だった。周囲が涙を流して喜んでくれるのを見て、うれしくなって大泣きした。
米国時代を一緒に過ごした仲間でもある入江由香にも驚いた。「世界一の幸せ者」と書かれタスキとくす玉で祝ってくれたからだ。「(自分は)下り調子の人なんだし、優勝したのは大穴も大穴。使わない可能性のほうが高いのに。いつ用意してくれたんだろう?」と、首をかしげながらうれし涙が止まらなかった。
「いつもポジティブな私が、1回だけ『どうせダメだろう』と思った試合でした」という見事な復活劇。色紙に書いた通り、副賞をみな手にしたのは言うまでもない。
ここで復活した中嶋は翌年、シードを再び失うが、ツアーを去るどころか再度復活。2002年にはさらに2勝を挙げている。(取材/構成・小川淳子)
88年に4人プレーオフで初優勝を飾ったあと、89年から2年間、米ツアーに挑戦。帰国後は国内でプレーを続けていたが、2勝目が遠かった。94年からはシード権も失いながら、必死で戦い続けていた。
気が付けば34歳。体もボロボロになっていた。首、背中、腰に原因不明の痛みが出て練習もままならない。「これが最後」と臨んだシーズンだったが、開幕から3試合予選落ちが続いた。「本当にやめようと思って、家に閉じこもってやめたらどうするんだろう、とか考えた」というほど追い詰められていた。
だが、習慣とは恐ろしい。「チケットがあるから、ってうっかり飛行機に乗って道後(愛媛県)まで行っちゃって」と、出場したのが健勝苑レディス・道後だった。「いつも、自分の意志を持って動いているのに、あんなに流れのまま、行動したことはなかった。試合を開催して下さっている方には本当に申し訳ないくらいただただ、流れで出場した」と打ち明ける。この行動が、復活につながるのだが、そんなことは夢にも思っていなかった。
開催コースの道後ゴルフクラブに行くと、クラブハウスで会った大先輩の柏戸レイ子から声をかけられる。スポンサーとの食事会への誘いだった。こぢんまりした食事会が終わるころ、色紙にサインを頼まれた。「好きなことを書いて」と言われ、書いたのは「ハリアーと着物とジュエリーをください」だった。いずれも優勝副賞だ。
「ゴルフをやめようと思ってるし、優勝なんて考えてもいない。酔って調子に乗って書いただけなんです」。試合が始まる前の一幕が、思わぬ“予告”となることを、この時は知る由もなかった。
そんな状況ではあったが、ふたを開けてみると思わぬスコアが出た。初日は4アンダーで回って、白戸由香に3打差の2位タイ。2日目も3つスコアを伸ばして、首位の野呂奈津子と2打差の2位につけた。もっとも、本人は、この2日間をまったく覚えていない。「(最終日)最終組になったけど、勝つとか全然思ってなかった。ただ、せめて元気な姿を見せよう」と、両親を現地に呼んだことはよく覚えている。
ところが、最終日が始まると、人が変わったようにスイッチが入る。「優勝争いは大好物。どんどんいい感じに集中力が増していった。優勝するとは思っていないけど、ただ優勝争いが楽しくて、ぐんぐんその中に入っていった感じ」と、前半を終えて2打差単独首位に立つ。
後半は大激戦となる。11番バーディの野呂に1打差に迫られると、中嶋は12番でボギーを叩いてトータル9アンダーで並んでしまう。
15番では、気持ちよく打ったティショットが「絶対行っちゃいけない奈落の底みたいな崖下。木につかまりながらボールのあるところまで下りて行った」という状況だった。
折しも、ここからがテレビの中継ホール。のちに、本人が録画を見ると、そのシーンが映ると放送席からの混乱が伝わってきたという。通常、ボールが行くはずのない場所にいる中嶋を、カメラが上から映していたからだ。
林も邪魔になり、グリーン方向に上げていくのは難しい。だが、本人は「アンプレヤブルかな、どうしようかなぁ、とのんびりした気分で降りて行った。(映像を見ると)普段はチャカチャカ速く動くのに、動きがゆっくりなのはゾーンに入っていたからかも」と振り返る。
絶体絶命。だが、辺りを見回すうちに光明を見出した。隣の14番のほうに打つ「逆走ルート」(中嶋)だ。3打目は14番側から、ホールとホールの間にあった石垣を超えるアプローチ。「(15番は)短いミドルなのに長くなっちゃった。プレーを見たいギャラリーが石垣の上にいて、サファリパークの猛獣になった感じがした」と笑う。
残り距離もはっきりしないまま、走って行って確認した見た目の感覚だけで打った3打目は、見事にグリーンを捕らえた。2.5メートルのパーパットは残念ながら入らなかったが、それでもボギーでしのいだ。
残り3ホールで首位転落。野呂が16番でボギーを叩いたことで、トータル8アンダーで再び首位を並走する。
勝負を決めたのは17番だった。「長いパットが入って」バーディ奪取。18番は2人ともパーで、中嶋が9年297日ぶりのツアー2勝目を飾った。
「つらい時期も応援して下さった方にお礼が言いたいという気持ちが勝因だと思います」。思いがかなえられた瞬間だった。周囲が涙を流して喜んでくれるのを見て、うれしくなって大泣きした。
米国時代を一緒に過ごした仲間でもある入江由香にも驚いた。「世界一の幸せ者」と書かれタスキとくす玉で祝ってくれたからだ。「(自分は)下り調子の人なんだし、優勝したのは大穴も大穴。使わない可能性のほうが高いのに。いつ用意してくれたんだろう?」と、首をかしげながらうれし涙が止まらなかった。
「いつもポジティブな私が、1回だけ『どうせダメだろう』と思った試合でした」という見事な復活劇。色紙に書いた通り、副賞をみな手にしたのは言うまでもない。
ここで復活した中嶋は翌年、シードを再び失うが、ツアーを去るどころか再度復活。2002年にはさらに2勝を挙げている。(取材/構成・小川淳子)