小田美岐が動揺の中で見たのは、8メートルも先にあるカップの向こう側にはねたボールが、そのまま吸い込まれる光景だった。最終日の1番グリーン。「『打っちゃった!』と思った長いパーパットが、入っちゃった。それで気持ちが落ち着いたんです」。
時は1991年8月25日。真夏の静岡、富士山麓周辺はきれいに晴れ上がって絶好のトーナメント観戦日和になった。その日、富士市にあるリバー富士カントリークラブでは、伊藤園レディスの最終日が行われていた。
お茶の大手メーカー・伊藤園が茶どころ静岡で開催して7年目。トーナメントはすっかり地元にも定着し、この日は1万6185人の大ギャラリーが詰めかけていた。それは最終日最終組に、スーパースターの岡本綾子がいることにも起因していた。米国人以外で初の米ツアー賞金女王となったのが87年。それからまだ4年しかたっておらず、岡本もまだ軸足をアメリカに置いていた頃だった。米ツアーがまだシーズン中のこの時期に、岡本のプレーを見られる機会は多くない。そんな事情もあって最終日最終組が回るホールごとに、何重もの人垣ができていた。
この年の大会を初日からリードしたのは、プロ10年目、32歳の小田だった。初日、いきなり66のベストスコアをたたき出すロケットスタートに成功した小田は、2日目も格上の岡本との直接対決になりながらも71にスコアをまとめ首位をキープ。3年ぶりとなる通算6勝目にも王手をかけていた。
小田はこの3年前、同じリバー富士で優勝を飾り年間3勝、賞金ランキング4位にも入る自己最高のシーズンを送った。それだけに2位の岡本につけた4打差はセーフティリードとみる向きもあったが、当の小田の心情は、88年当時とは全く違っていた。
実は小田、俗に言う「イップス病」にかかっていることを自覚していたからだ。「この頃はまさに、手が動かなくなりつつある時でした。もうこの先ないな、と思っていた頃でした」。
2002年の国内男子ツアーで賞金ランク2位に食い込んだ佐藤信人や05年のシニア賞金王・三好隆など、多くの選手がその苦しい経験を語っているイップス病。佐藤は「手に電気が走る」と表現し、三好は「ショートパットを打とうとする瞬間に、曲がるという意識が出て打てなくなる」症状に苦しめられたのは有名な話。
小田の場合も「最初はショートパットに始まり、アプローチも。もともとアプローチはこよなく好きだった私が、打てなくなった。フェアウェイの、芝が薄いところからもトップしたり。(そういう光景が)夢にも出てくる。もう、すごくつらくて、もはや気力が残っていなかった」。
多くの仲間から「原因があるはず」とアドバイスされたが、記憶がない。「思い当たるとすれば西海女子オープンで2年連続して80センチくらいの、入れればプレーオフのパットを外したこと。短い、横からのパットでしたね」。
三好の場合も30歳時、北海道・輪厚の14番で右50センチのフックラインで発症している。それから実に21年、イップスに悩まされ続けるが、50歳を過ぎてから長尺パターに巡り合い、シニア賞金王に輝いている。小田も「長尺パターに変えている人の多くが、イップスだったのは間違いないでしょう」。と語っている。
小田の場合は、実質的な引退をすでにこのとき考えていた。「1月25日に結婚も決まっていて、その後は森口(祐子)さんのようにママになって、子育てに専念するつもりでいました。もともと2つのことをできるタイプじゃないので。そんな気持ちになったので、気楽さから調子が良くなったのかもしれませんね」。
冒頭のシーンに戻ろう。8メートルのパーパットがいきなり決まった。これで緊張から解放された小田だが、3番で岡本がバーディを奪うのを目の当たりにしては、同組だけに自分のゴルフのみに集中することは難しい。「岡本さんの迫ってくる足音が聞こえて」4番でボギーを叩き、4つあった差は2打に詰まる。さらに6番で岡本がこの日2つ目のバーディ。ボギーを叩いた小田との差はなくなった。
トータル5アンダーで並びかけた岡本だが、コーライグリーンに今ひとつタッチを合わせきれず続く7番でボギー。その後もチャンスをことごとく外し続けた。「いつもは入る岡本さんのパットが、このコースのコーライグリーンに合っていない感じは、していました」。ショートゲームに課題はあっても、ショットが好調の小田にアプローチの機会が訪れない。
インに入ると10番で2オンした岡本に対し、3オンした小田が3メートルを決め、ともにバーディ。ショットの切れ味は両者引けを取らない。13番のパー4は小田が1.5メートルを決岡本が1メートルとともにバーディーチャンスにつけバーディ奪取。小田の1打リードが動かない。
上がり3ホールとなった16番。小田が8メートルのバーディを1発で沈め、ついに2打差のリードを奪う。「勝ちたい」と本音を語り続けた岡本の気合が空回りする格好になり、最終ホールも3メートルのバーディパットが決められない。小田が2打差を守り切り、ついに優勝を飾ることになる。
「岡本さんが最後のバーディパットを外すまで、勝てるとは思っていなかった。私がついていただけ。この時だけ神様が優勝をプレゼントしてくれたのだと、思いますね」と小田はしみじみとレギュラー最後の優勝となった6勝目を振り返った。
その後、小田は結婚したが子宝に恵まれることはなく、離婚も経験。「ツアーに置いてきたものを取りに戻って、(イップスが)何とかならないかと思って練習しましたが、結果的には『ああ、ダメなんだ』という結論でしたね。でもそうした経験も、私の人格を作っている一部分でもあるから後悔はしていない」と明るく語る。
そうした経験は解説者となった時、随所に生きた。「まじめな人ほど、ミスする自分が許せなくなる。すごく厚い壁にハネ返された人でないと、分からないこともある。それは人それぞれ、違うんだもん」。苦しんでいる選手の精神状態を自分事として解説できるのは、同じくイップスに苦しんだ佐藤信人とも通ずる部分だろう。
そしてその経験は、LPGAの理事職に復帰した今こそ、さらに生かされるに違いない。「若い子でも人気があって、ブイブイ言わせてる子には声をかけなくてもいい。でも背中が震えているような人には、なんとなく声をかけてあげたくなる。今はお先真っ暗でも、その先の人生のほうが長いから、と。それがちょっとでも(暗闇からぬけ出すための)ヒントになればと思っています」。
苦しんだからこそ、人の痛みが分かる。指導者としても解説者としても、円熟味を増していくのはむしろこれから。女子ゴルフ界の瀬戸内寂聴となるのは、このお方かもしれない。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)
時は1991年8月25日。真夏の静岡、富士山麓周辺はきれいに晴れ上がって絶好のトーナメント観戦日和になった。その日、富士市にあるリバー富士カントリークラブでは、伊藤園レディスの最終日が行われていた。
お茶の大手メーカー・伊藤園が茶どころ静岡で開催して7年目。トーナメントはすっかり地元にも定着し、この日は1万6185人の大ギャラリーが詰めかけていた。それは最終日最終組に、スーパースターの岡本綾子がいることにも起因していた。米国人以外で初の米ツアー賞金女王となったのが87年。それからまだ4年しかたっておらず、岡本もまだ軸足をアメリカに置いていた頃だった。米ツアーがまだシーズン中のこの時期に、岡本のプレーを見られる機会は多くない。そんな事情もあって最終日最終組が回るホールごとに、何重もの人垣ができていた。
この年の大会を初日からリードしたのは、プロ10年目、32歳の小田だった。初日、いきなり66のベストスコアをたたき出すロケットスタートに成功した小田は、2日目も格上の岡本との直接対決になりながらも71にスコアをまとめ首位をキープ。3年ぶりとなる通算6勝目にも王手をかけていた。
小田はこの3年前、同じリバー富士で優勝を飾り年間3勝、賞金ランキング4位にも入る自己最高のシーズンを送った。それだけに2位の岡本につけた4打差はセーフティリードとみる向きもあったが、当の小田の心情は、88年当時とは全く違っていた。
実は小田、俗に言う「イップス病」にかかっていることを自覚していたからだ。「この頃はまさに、手が動かなくなりつつある時でした。もうこの先ないな、と思っていた頃でした」。
2002年の国内男子ツアーで賞金ランク2位に食い込んだ佐藤信人や05年のシニア賞金王・三好隆など、多くの選手がその苦しい経験を語っているイップス病。佐藤は「手に電気が走る」と表現し、三好は「ショートパットを打とうとする瞬間に、曲がるという意識が出て打てなくなる」症状に苦しめられたのは有名な話。
小田の場合も「最初はショートパットに始まり、アプローチも。もともとアプローチはこよなく好きだった私が、打てなくなった。フェアウェイの、芝が薄いところからもトップしたり。(そういう光景が)夢にも出てくる。もう、すごくつらくて、もはや気力が残っていなかった」。
多くの仲間から「原因があるはず」とアドバイスされたが、記憶がない。「思い当たるとすれば西海女子オープンで2年連続して80センチくらいの、入れればプレーオフのパットを外したこと。短い、横からのパットでしたね」。
三好の場合も30歳時、北海道・輪厚の14番で右50センチのフックラインで発症している。それから実に21年、イップスに悩まされ続けるが、50歳を過ぎてから長尺パターに巡り合い、シニア賞金王に輝いている。小田も「長尺パターに変えている人の多くが、イップスだったのは間違いないでしょう」。と語っている。
小田の場合は、実質的な引退をすでにこのとき考えていた。「1月25日に結婚も決まっていて、その後は森口(祐子)さんのようにママになって、子育てに専念するつもりでいました。もともと2つのことをできるタイプじゃないので。そんな気持ちになったので、気楽さから調子が良くなったのかもしれませんね」。
冒頭のシーンに戻ろう。8メートルのパーパットがいきなり決まった。これで緊張から解放された小田だが、3番で岡本がバーディを奪うのを目の当たりにしては、同組だけに自分のゴルフのみに集中することは難しい。「岡本さんの迫ってくる足音が聞こえて」4番でボギーを叩き、4つあった差は2打に詰まる。さらに6番で岡本がこの日2つ目のバーディ。ボギーを叩いた小田との差はなくなった。
トータル5アンダーで並びかけた岡本だが、コーライグリーンに今ひとつタッチを合わせきれず続く7番でボギー。その後もチャンスをことごとく外し続けた。「いつもは入る岡本さんのパットが、このコースのコーライグリーンに合っていない感じは、していました」。ショートゲームに課題はあっても、ショットが好調の小田にアプローチの機会が訪れない。
インに入ると10番で2オンした岡本に対し、3オンした小田が3メートルを決め、ともにバーディ。ショットの切れ味は両者引けを取らない。13番のパー4は小田が1.5メートルを決岡本が1メートルとともにバーディーチャンスにつけバーディ奪取。小田の1打リードが動かない。
上がり3ホールとなった16番。小田が8メートルのバーディを1発で沈め、ついに2打差のリードを奪う。「勝ちたい」と本音を語り続けた岡本の気合が空回りする格好になり、最終ホールも3メートルのバーディパットが決められない。小田が2打差を守り切り、ついに優勝を飾ることになる。
「岡本さんが最後のバーディパットを外すまで、勝てるとは思っていなかった。私がついていただけ。この時だけ神様が優勝をプレゼントしてくれたのだと、思いますね」と小田はしみじみとレギュラー最後の優勝となった6勝目を振り返った。
その後、小田は結婚したが子宝に恵まれることはなく、離婚も経験。「ツアーに置いてきたものを取りに戻って、(イップスが)何とかならないかと思って練習しましたが、結果的には『ああ、ダメなんだ』という結論でしたね。でもそうした経験も、私の人格を作っている一部分でもあるから後悔はしていない」と明るく語る。
そうした経験は解説者となった時、随所に生きた。「まじめな人ほど、ミスする自分が許せなくなる。すごく厚い壁にハネ返された人でないと、分からないこともある。それは人それぞれ、違うんだもん」。苦しんでいる選手の精神状態を自分事として解説できるのは、同じくイップスに苦しんだ佐藤信人とも通ずる部分だろう。
そしてその経験は、LPGAの理事職に復帰した今こそ、さらに生かされるに違いない。「若い子でも人気があって、ブイブイ言わせてる子には声をかけなくてもいい。でも背中が震えているような人には、なんとなく声をかけてあげたくなる。今はお先真っ暗でも、その先の人生のほうが長いから、と。それがちょっとでも(暗闇からぬけ出すための)ヒントになればと思っています」。
苦しんだからこそ、人の痛みが分かる。指導者としても解説者としても、円熟味を増していくのはむしろこれから。女子ゴルフ界の瀬戸内寂聴となるのは、このお方かもしれない。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川 朗)