ツアー通算7勝の原田香里が岡本綾子とのラウンドを強烈に記憶しているのは、1993年「JLPGA明治乳業カップ」年度最優秀女子プロ決定戦だという。前年まで千葉のオークヒルズCCで行われていた最終戦が、宮崎の青島GCに舞台を移した最初の年の試合だ。
その年のツアー優勝者など出場選手は限られており、集結したのは40人。現在、宮崎CCで行われているJLPGAツアーチャンピオンシップリコーカップの前身ともいえる大会は、3日間54ホールだが、シーズン最後の公式戦だった。
■優勝以上に岡本さんと回った印象が強く残っている■
原田は前年に初優勝を遂げ、この年9月の日本女子プロゴルフ選手権で初めての公式戦を制覇。勢いに乗る26歳の新鋭として乗り込んでいた。初日の首位は岡本綾子。8バーディー・3ボギーの5アンダー“67”でプレーして単独首位に立った。一方の原田は、5バーディー・2ボギーで岡本に2打差2位発進だった。
原田には、優勝以上に強い記憶がある。「岡本さんと一緒に回ったという印象が強く残っています」と話す。
80年代に米ツアーを中心にプレーし、87年に米国人以外で初めて米ツアーで賞金女王となった岡本が、日本でプレーする機会は多くなかった。岡本より15歳年下で、山口県出身の原田は、高校時代に広島CC八本松Cで行われた日米両ツアー共催の「松田ジャパンクラシック」(1994年)を両親と観戦している。このとき、初めて岡本をナマで見た。「大ファンだった母が『岡本さ〜ん』と声をかけると手を振ってくれたスパ―スターでした」と、原田はいう。
原田が89年にプロ転向した後も日本でのプレー機会が少ない岡本だった。それだけに2日目以降は優勝争いをしているにもかかわらず、原田の記憶は岡本とのプレーに終始している。
「ドキドキして緊張しました。飛ばし屋さんの岡本さんは右に大きな池がグリーンまで続くホールで、隣りのホールに打っていくルートを見つけてそこから攻めたんです。私には(池を避けた)左ルートしかないので、ティーショットを打った後は『じゃあ、原田。グリーンでね』って言われましたね」と、振り返って笑う。
岡本は、アドレスに入ってから集中するプレースタイル。米国でも日本でも、それ以外の時間は同伴競技者やキャディ、場合によってはロープの外にまで声をかけるほど、リラックスしてメリハリをつけながらプレーする。この試合でも、原田はいろいろと話しかけられた。
「『誰に習ってるの?』って聞かれて『父です』と答えると『ふ〜ん』と言われたりしました」と、雲の上の大先輩とのプレーを緊張しつつも楽しんだと明かす。
2日目、原田は3バーディー・1ボギーで通算5アンダーまでスコアを伸ばした。一方の岡本は、3バーディー・2ボギーで6アンダー。差は1打に縮まった。
海からの強風でタフなコンディションとなった最終日。優勝に最も近い位置にいるふたりも、例外ではなく苦しんだ。原田、岡本ともにフロントナインは3オーバー。バックナインは、16番までに1バーディー・2ボギーで1アンダーまでスコアを落とした岡本に対して、原田は10番ボギーの後、ガマンを重ね、16番でバーディーを取って2アンダーにして逆転。大詰めを迎えた。
17番はともにパー。勝負のかかった18番も岡本はボギーを叩いた。上からのパーパットを残していた原田も、これを外してボギー。それでも優勝が決まった。アテストする前に岡本から、「原田〜。もう『4』って書いちゃったじゃないの」と言われ「すいません」と応えたエピソードもある。
■岡本綾子から何かを盗みとりたかった■
優勝争いの中でも「技術的に何か盗みたい」という気持ちももちろんあった。「リキミのないキレイなスイング、柔らかいヒザの動き。マネしたいけどなかなかできない。アプローチもじっと見ていました」。いつもなら、試合中はずっと、眉間にしわを寄せるほど集中している原田が「確かにあのときは”怖い顔“してないですね。岡本さんとのプレーは楽しかったんですもん」と笑う、夢のような優勝争いだった。
この年、賞金ランキング6位と躍進した原田は、後に96年、98年と賞金女王争い(ともに結果は2位)をする選手に成長。メジャーのダイナ・ショア(現シェブロン選手権)にスポット参戦した際、練習ラウンドを一緒にプレーした岡本から、レッスンを受けたこともある。93年最終戦、岡本と共有した濃い時間の中での優勝争いは、原田のゴルフ人生に貴重な出来事として刻まれている。(文・清流舎 小川淳子)
その年のツアー優勝者など出場選手は限られており、集結したのは40人。現在、宮崎CCで行われているJLPGAツアーチャンピオンシップリコーカップの前身ともいえる大会は、3日間54ホールだが、シーズン最後の公式戦だった。
■優勝以上に岡本さんと回った印象が強く残っている■
原田は前年に初優勝を遂げ、この年9月の日本女子プロゴルフ選手権で初めての公式戦を制覇。勢いに乗る26歳の新鋭として乗り込んでいた。初日の首位は岡本綾子。8バーディー・3ボギーの5アンダー“67”でプレーして単独首位に立った。一方の原田は、5バーディー・2ボギーで岡本に2打差2位発進だった。
原田には、優勝以上に強い記憶がある。「岡本さんと一緒に回ったという印象が強く残っています」と話す。
80年代に米ツアーを中心にプレーし、87年に米国人以外で初めて米ツアーで賞金女王となった岡本が、日本でプレーする機会は多くなかった。岡本より15歳年下で、山口県出身の原田は、高校時代に広島CC八本松Cで行われた日米両ツアー共催の「松田ジャパンクラシック」(1994年)を両親と観戦している。このとき、初めて岡本をナマで見た。「大ファンだった母が『岡本さ〜ん』と声をかけると手を振ってくれたスパ―スターでした」と、原田はいう。
原田が89年にプロ転向した後も日本でのプレー機会が少ない岡本だった。それだけに2日目以降は優勝争いをしているにもかかわらず、原田の記憶は岡本とのプレーに終始している。
「ドキドキして緊張しました。飛ばし屋さんの岡本さんは右に大きな池がグリーンまで続くホールで、隣りのホールに打っていくルートを見つけてそこから攻めたんです。私には(池を避けた)左ルートしかないので、ティーショットを打った後は『じゃあ、原田。グリーンでね』って言われましたね」と、振り返って笑う。
岡本は、アドレスに入ってから集中するプレースタイル。米国でも日本でも、それ以外の時間は同伴競技者やキャディ、場合によってはロープの外にまで声をかけるほど、リラックスしてメリハリをつけながらプレーする。この試合でも、原田はいろいろと話しかけられた。
「『誰に習ってるの?』って聞かれて『父です』と答えると『ふ〜ん』と言われたりしました」と、雲の上の大先輩とのプレーを緊張しつつも楽しんだと明かす。
2日目、原田は3バーディー・1ボギーで通算5アンダーまでスコアを伸ばした。一方の岡本は、3バーディー・2ボギーで6アンダー。差は1打に縮まった。
海からの強風でタフなコンディションとなった最終日。優勝に最も近い位置にいるふたりも、例外ではなく苦しんだ。原田、岡本ともにフロントナインは3オーバー。バックナインは、16番までに1バーディー・2ボギーで1アンダーまでスコアを落とした岡本に対して、原田は10番ボギーの後、ガマンを重ね、16番でバーディーを取って2アンダーにして逆転。大詰めを迎えた。
17番はともにパー。勝負のかかった18番も岡本はボギーを叩いた。上からのパーパットを残していた原田も、これを外してボギー。それでも優勝が決まった。アテストする前に岡本から、「原田〜。もう『4』って書いちゃったじゃないの」と言われ「すいません」と応えたエピソードもある。
■岡本綾子から何かを盗みとりたかった■
優勝争いの中でも「技術的に何か盗みたい」という気持ちももちろんあった。「リキミのないキレイなスイング、柔らかいヒザの動き。マネしたいけどなかなかできない。アプローチもじっと見ていました」。いつもなら、試合中はずっと、眉間にしわを寄せるほど集中している原田が「確かにあのときは”怖い顔“してないですね。岡本さんとのプレーは楽しかったんですもん」と笑う、夢のような優勝争いだった。
この年、賞金ランキング6位と躍進した原田は、後に96年、98年と賞金女王争い(ともに結果は2位)をする選手に成長。メジャーのダイナ・ショア(現シェブロン選手権)にスポット参戦した際、練習ラウンドを一緒にプレーした岡本から、レッスンを受けたこともある。93年最終戦、岡本と共有した濃い時間の中での優勝争いは、原田のゴルフ人生に貴重な出来事として刻まれている。(文・清流舎 小川淳子)