「面白くなってきたなぁ」。優勝争いの大詰めでボギーを叩くピンチにも、中嶋千尋はギャラリーのような気持ちで試合を眺めていた。
今週、開催される『富士通レデイ―ス』。同じ東急セブンハンドレッドクラブ西コース(千葉県)を舞台に、今から20年前の2002年大会は最後まで激戦が続いていた。その主役が、初日に8アンダー・1ボギーで首位に立った中嶋だった。
2日目も3アンダーでプレーしたが、通算12アンダーまでスコアを伸ばした曽秀鳳(台湾)に首位の座を譲った。2打差で曽を追走しながら、通算7アンダーで追い上げを図る小野香子と3人の最終組は激しい優勝争いを繰り広げた。
■「大変だというより、面白くなってきた」と思っていた■
中嶋が主導権を握っていた。6番からの怒涛の4連続バーデイで通算14アンダー。一気に曽を抜き去り、単独首位でバックナインに突入していた。1バーディ・1ボギーで静かにプレーしている曽とは2打差、ジワジワと追い上げる小野との差は5打あった。
流れが変わったのはバックナインに入ってすぐだった。中嶋が11番をボギーにした直後、12番で曽がバーディ奪取。通算13アンダーで首位に並んだ。13番ボギーで再び1打ビハインドとなるが、小野も10番と13番を取って11アンダー。2打差に迫っていた。
静かにパーを重ねる中嶋。15番で曽、小野がボギーとしたことで、優勝が近づいたかに見えた。残り2ホールで曽と2打差、小野とは3打差。迎えた17番は、186ヤードのパー3。ティショットをグリーン左にはずした中嶋はボギーを叩いてしまう。小野はバーディ。パーの曽とともに1打差の11アンダーで中嶋に迫る。
「後からテレビの録画を見たら、解説の戸張(捷)さんが『いやぁ。中嶋は大変なことになったと思ってるでしょうね』って言ってたんです。確かにピンチだったけど、お客さんには面白くなったはず。私もギャラリー気分だったんです。『面白くなってきたなぁ』って。『こっからが勝負だな』とテンションも上がってきていました。キャディにも『面白くなってきたね』って言ったんですよ」と笑う。
勝負どころでのこの心模様は、中嶋千尋という人ならではかもしれない。
1988年『ダンロップレディース』で4人プレーオフを制して初優勝した後、米ツアーを経験し、一時はシード権を失いながらも戦い続けていたこともあった。体もボロボロになり「これが最後」と思い定めた98年のシーズンに、『健勝苑レディス・道後』で10年ぶりのツアー2勝目を挙げた。34歳になっていた。
■優勝争いは大好物■
これで生来のポジティブな気持ちを取り戻して、2002年の『東洋水産レディス北海道』でツアー3勝目。同じシーズンの終盤が、この『富士通レディース』だった。「優勝争いは大好物。ゴキゲンで18番に向かいました」と、勝負のかかる最終ホールに立ったときも、笑顔を見せていた。
第2打はグリーン左奥のラフ。左足下がりでツマ先下がりという複雑なライからのアプローチが残った。なかなか考えがまとまらない。最終的には「ロブショットしかない」と決断したが、イメージが出るまで何度も素振りを繰り返した。その甲斐あって「会心のショット」でしっかりと寄せてパーセーブ。1打差で優勝を決めた。
「本当に気持ちよかった」というツアー4勝目には、面白いおまけもついてきた。両親に優勝報告の電話をすると、父に言われた。「千尋、17番で面白くなったと思っただろう」と。誰もが追い詰められたと思ったシーンで、まったく逆にポジティブだった娘の心中を、見ていたかのように父は言い当てた。
いや、分かっていた。その父も今はない。「どうして分かったのか、もっと聞いとけばよかったと思いますね」。幼いころ「何をやってもビリだった」(中嶋)という娘を「千尋は大器晩成だな」と愛情いっぱいに育てた両親。「優勝するとかしないとかにこだわることなく、他の選手のこともいつも応援してくれていた」という。父の座右の銘は「愛情は平和の源」。そんな父の思い出にもつながる優勝でもあった。(文・清流舎 小川淳子)
今週、開催される『富士通レデイ―ス』。同じ東急セブンハンドレッドクラブ西コース(千葉県)を舞台に、今から20年前の2002年大会は最後まで激戦が続いていた。その主役が、初日に8アンダー・1ボギーで首位に立った中嶋だった。
2日目も3アンダーでプレーしたが、通算12アンダーまでスコアを伸ばした曽秀鳳(台湾)に首位の座を譲った。2打差で曽を追走しながら、通算7アンダーで追い上げを図る小野香子と3人の最終組は激しい優勝争いを繰り広げた。
■「大変だというより、面白くなってきた」と思っていた■
中嶋が主導権を握っていた。6番からの怒涛の4連続バーデイで通算14アンダー。一気に曽を抜き去り、単独首位でバックナインに突入していた。1バーディ・1ボギーで静かにプレーしている曽とは2打差、ジワジワと追い上げる小野との差は5打あった。
流れが変わったのはバックナインに入ってすぐだった。中嶋が11番をボギーにした直後、12番で曽がバーディ奪取。通算13アンダーで首位に並んだ。13番ボギーで再び1打ビハインドとなるが、小野も10番と13番を取って11アンダー。2打差に迫っていた。
静かにパーを重ねる中嶋。15番で曽、小野がボギーとしたことで、優勝が近づいたかに見えた。残り2ホールで曽と2打差、小野とは3打差。迎えた17番は、186ヤードのパー3。ティショットをグリーン左にはずした中嶋はボギーを叩いてしまう。小野はバーディ。パーの曽とともに1打差の11アンダーで中嶋に迫る。
「後からテレビの録画を見たら、解説の戸張(捷)さんが『いやぁ。中嶋は大変なことになったと思ってるでしょうね』って言ってたんです。確かにピンチだったけど、お客さんには面白くなったはず。私もギャラリー気分だったんです。『面白くなってきたなぁ』って。『こっからが勝負だな』とテンションも上がってきていました。キャディにも『面白くなってきたね』って言ったんですよ」と笑う。
勝負どころでのこの心模様は、中嶋千尋という人ならではかもしれない。
1988年『ダンロップレディース』で4人プレーオフを制して初優勝した後、米ツアーを経験し、一時はシード権を失いながらも戦い続けていたこともあった。体もボロボロになり「これが最後」と思い定めた98年のシーズンに、『健勝苑レディス・道後』で10年ぶりのツアー2勝目を挙げた。34歳になっていた。
■優勝争いは大好物■
これで生来のポジティブな気持ちを取り戻して、2002年の『東洋水産レディス北海道』でツアー3勝目。同じシーズンの終盤が、この『富士通レディース』だった。「優勝争いは大好物。ゴキゲンで18番に向かいました」と、勝負のかかる最終ホールに立ったときも、笑顔を見せていた。
第2打はグリーン左奥のラフ。左足下がりでツマ先下がりという複雑なライからのアプローチが残った。なかなか考えがまとまらない。最終的には「ロブショットしかない」と決断したが、イメージが出るまで何度も素振りを繰り返した。その甲斐あって「会心のショット」でしっかりと寄せてパーセーブ。1打差で優勝を決めた。
「本当に気持ちよかった」というツアー4勝目には、面白いおまけもついてきた。両親に優勝報告の電話をすると、父に言われた。「千尋、17番で面白くなったと思っただろう」と。誰もが追い詰められたと思ったシーンで、まったく逆にポジティブだった娘の心中を、見ていたかのように父は言い当てた。
いや、分かっていた。その父も今はない。「どうして分かったのか、もっと聞いとけばよかったと思いますね」。幼いころ「何をやってもビリだった」(中嶋)という娘を「千尋は大器晩成だな」と愛情いっぱいに育てた両親。「優勝するとかしないとかにこだわることなく、他の選手のこともいつも応援してくれていた」という。父の座右の銘は「愛情は平和の源」。そんな父の思い出にもつながる優勝でもあった。(文・清流舎 小川淳子)