明日、6月23日から始まる女子ツアー最高賞金総額3億円大会アースモンダミンカップ。開幕前から舞台となるカメリアヒルズCCを駆けずり回っているのが、今年初めてトーナメントディレクターを務める茂木宏美だ。
ツアー6勝を挙げ、2014年2月に長女和奏さんを出産。その後もプレーを続けていたが、2016年にシード権を失ったタイミングで第一線を退いた。次のステップの大きな一つが、このトーナメントディレクターだ。
現役選手として「やり切った」と言い切れたのは、2013年のワールドレディスサロンパスカップの優勝があったからだという。
メジャー(公式戦)優勝は茂木にとって明確な目標だった。
2004年リゾートトラストレディスでツアー初優勝を飾り、2008年までに通算4勝と順調だったが、2009年、2010年は優勝争いこそするものの未勝利。2010年10月に結婚したタイミングでもあり、オフになって改めて今後について考えた。出てきた答えが「メジャー(タイトル)を獲れるゴルフをしていこう」というものだった。
そのために何をするべきか。サポートしてくれるメンバーと相談した。「ブリヂストン(スポーツ)の中原(創一郎)さんに『茂木さんに足りないものはスピンコントロールです。アイアンだけじゃなくてフェアウェイウッドでもそれを追求しないとメジャーは獲れない』と言われたんです」。付き合いの長いプロ担当で、日頃から自分の希望も、クラブのプロとしての意見も率直にやり取りできる間柄だからこそ、出てきた言葉。「距離の出ない私に、11番ウッドを使うことを提案してくれたのも中原さんでした」と、信頼関係は深く、素直に耳を傾けた。
スピンコントロールができるようになって自分のゴルフスタイルを確立させ、メジャーで優勝する。そのための準備に心を砕いた。
フラットなライからならうまくスピンコントロールできるのに、傾斜があるとバランスが取れずにうまくいかない。これを解決するためにトレーナーと相談した。その結果「リアラインという変則の一本歯の下駄みたいなものを吐いてバランスをとるようにしました。打ち込みもそれを履いたまましたんです」。
最初はバランスをとるのが難しかったが、徐々に慣れてくる。シーズンが始まってからは、プレーする前にコースの駐車場などでリアラインを履いて自分のバランスをチェックするのが日課になった。「片足立ちしたり、スクワットをしたり。ジャンプや、入れ替え運動などのメニューをこなしていました」。
師匠の時任宏治プロの「傾斜は目で見るのではなく足で感じろ」という教えもあり、スポーツ用なのに足の裏だけ薄い特注ソックスを作ってもらっていたほど、茂木は足裏を大事にしていた。リアラインを常用することでさらに足の裏の感覚は鋭敏になり、足裏で傾斜が敏感にわかるようになった。
結果はすぐに出た。2011年ヨネックスレディスでツアー5勝目。窪田大輔さんと結婚後、最初の優勝だった。
2012年は優勝できなかったが、賞金ランキングは過去最高の14位。手ごたえを感じ「自分を信じてやっていこう」と迎えたのが2013年だった。
元スノーボーダーの夫は、マネージャーとして妻に帯同している。「2人の間で『技術的なことには一切口を出さない』という話し合いをしていました。そこには見えない戦があるということで。身体のことについても、トレーナーの栗田さんと夫が連携を取ってくれていたんです。私の体のどこが固いとか、現状を夫が栗田さんに伝えて指示を仰ぐような感じでした」。夫は、ゴルフの部分も体の部分も、立ち入りすぎず、必要なサポートをすることに徹していた。
こうして迎えた2013年5月。ワールドレディスサロンパスカップの舞台、茨城GC西コースは「フェアウェイキープさえできれば、ランも出るしイメージもいいので狙ってはいた大会でした。でも以前は6Iだと高さが足りなくて球が止まらず打ちのめされていたんです。代わりに11Wを使って高い球で上から落とすようにしました。その精度を上げることを考えて」と、重点的に練習した武器が11W。短く握ってコントロールする練習もして「自分の生命線」とまで思うようになったクラブだ。11Wのショットへの信頼性が高まると、プレーに迷いがなくなった。
初日は首位に3打差の12位タイ。「メジャーは果てしなく遠い戦いだから、自分の位置を考えないようにしよう。考えた瞬間にフェアウェイの幅が狭くなる。夢にコースが出てくるくらいいいイメージを」と心がけると、2日目は首位に4打差4位タイに浮上する。
3日目にはトータル5アンダーでプレーを終え、首位の森田理香子に2打差2位タイ。最終日、最終組で森田、佐伯三貴と激突する。
「正直、3日目の夕方からジワジワ(緊張が)きていました。自分自身にプレッシャーをかけちゃいけない、と思うのと同時に、ゴルフ人生でやらなきゃいけないポイントだ、という思いもありました」という正念場。それでも、夫がビックリするほど、普通に食事をしてぐっすり眠れるのが強みだった。
最終日の朝になると、意外にも落ち着いた気持ちになった。「なんでもかかってこい、という感じでした。そういえば今、考えると負けた試合の方がジタバタしてたかも」と振り返る。
アクセスのいいフラットなコースで、毎年、大勢のギャラリーが詰めかける。最終組には、毎ホールティからグリーンまでぎっしりのギャラリーが見守っている。8番で長いパーパットを入れた後、9番ではドライバーでティショットをすることを主張したところ、キャディが反論。「刻んでフェアウェイキープの方が絶対いいでしょう」という言葉に耳を傾けた。5Wでフェアウェイをとらえてのバーディ。これで、トータル8アンダー。2位に2打差の単独首位で茂木はバックナインに入った。
2011年全米女子オープン優勝のユ・ソヨンが追い上げていたが、とにかく自分のゴルフに徹した。難しい13番、14番を前に12番でバーディを獲れたことも気持ちを楽にした。セーフティーに難しいポイントを切り抜ける。
「あともうちょっとだから頑張れ、という声がたくさん聞こえて、みんなが伴走してくれているような気がしました」と、応援を味方につけた。
「18番はとにかく難しい。そこまでいかにリードできるか」とプレーしていると、16番でバーディが来た。2パットでいいと思った10メートルが入ってリーダーボードを見た時、優勝を少し意識した。
18番のティに立った時に重圧が襲った。「やっと念願メジャーに勝てるかもしれない、と思って気持ちがブレました」と苦笑するショットは、ラフにつかまった。だが、2位の佐伯とも3打差あったことで落ち着いてレイアップできた。
グリーンに上がるときには、取り囲むギャラリーをぐるりと見渡した。「この人たちに後押ししてもらったんだ。目に焼き付けておかなくちゃと思って360度見ました」と、堂々の2打差優勝。目標通りメジャータイトルを手にした。
「ホントにうれしかった。今でも辛いことがあるとこの時を思い出すくらい。みなさんが私の力を引き出してくれたんです。ギャラリーをぐるりと見まわしたあんな気持ちになれる舞台を、微力ながら作りたい」。今の仕事は、この優勝シーンからつながっている。
目標を明確に設定し、そこに向かって努力し、手に入れたメジャータイトル。その輝きには、直後に子供を授かるという最高のご褒美までついてきた。結果的に最後の優勝に成った2013年ワールドレディスサロンパスカップの記憶が、セカンドキャリアを生きる現在の茂木を作り上げ、支えているのは間違いない。(文・小川淳子)
ツアー6勝を挙げ、2014年2月に長女和奏さんを出産。その後もプレーを続けていたが、2016年にシード権を失ったタイミングで第一線を退いた。次のステップの大きな一つが、このトーナメントディレクターだ。
現役選手として「やり切った」と言い切れたのは、2013年のワールドレディスサロンパスカップの優勝があったからだという。
メジャー(公式戦)優勝は茂木にとって明確な目標だった。
2004年リゾートトラストレディスでツアー初優勝を飾り、2008年までに通算4勝と順調だったが、2009年、2010年は優勝争いこそするものの未勝利。2010年10月に結婚したタイミングでもあり、オフになって改めて今後について考えた。出てきた答えが「メジャー(タイトル)を獲れるゴルフをしていこう」というものだった。
そのために何をするべきか。サポートしてくれるメンバーと相談した。「ブリヂストン(スポーツ)の中原(創一郎)さんに『茂木さんに足りないものはスピンコントロールです。アイアンだけじゃなくてフェアウェイウッドでもそれを追求しないとメジャーは獲れない』と言われたんです」。付き合いの長いプロ担当で、日頃から自分の希望も、クラブのプロとしての意見も率直にやり取りできる間柄だからこそ、出てきた言葉。「距離の出ない私に、11番ウッドを使うことを提案してくれたのも中原さんでした」と、信頼関係は深く、素直に耳を傾けた。
スピンコントロールができるようになって自分のゴルフスタイルを確立させ、メジャーで優勝する。そのための準備に心を砕いた。
フラットなライからならうまくスピンコントロールできるのに、傾斜があるとバランスが取れずにうまくいかない。これを解決するためにトレーナーと相談した。その結果「リアラインという変則の一本歯の下駄みたいなものを吐いてバランスをとるようにしました。打ち込みもそれを履いたまましたんです」。
最初はバランスをとるのが難しかったが、徐々に慣れてくる。シーズンが始まってからは、プレーする前にコースの駐車場などでリアラインを履いて自分のバランスをチェックするのが日課になった。「片足立ちしたり、スクワットをしたり。ジャンプや、入れ替え運動などのメニューをこなしていました」。
師匠の時任宏治プロの「傾斜は目で見るのではなく足で感じろ」という教えもあり、スポーツ用なのに足の裏だけ薄い特注ソックスを作ってもらっていたほど、茂木は足裏を大事にしていた。リアラインを常用することでさらに足の裏の感覚は鋭敏になり、足裏で傾斜が敏感にわかるようになった。
結果はすぐに出た。2011年ヨネックスレディスでツアー5勝目。窪田大輔さんと結婚後、最初の優勝だった。
2012年は優勝できなかったが、賞金ランキングは過去最高の14位。手ごたえを感じ「自分を信じてやっていこう」と迎えたのが2013年だった。
元スノーボーダーの夫は、マネージャーとして妻に帯同している。「2人の間で『技術的なことには一切口を出さない』という話し合いをしていました。そこには見えない戦があるということで。身体のことについても、トレーナーの栗田さんと夫が連携を取ってくれていたんです。私の体のどこが固いとか、現状を夫が栗田さんに伝えて指示を仰ぐような感じでした」。夫は、ゴルフの部分も体の部分も、立ち入りすぎず、必要なサポートをすることに徹していた。
こうして迎えた2013年5月。ワールドレディスサロンパスカップの舞台、茨城GC西コースは「フェアウェイキープさえできれば、ランも出るしイメージもいいので狙ってはいた大会でした。でも以前は6Iだと高さが足りなくて球が止まらず打ちのめされていたんです。代わりに11Wを使って高い球で上から落とすようにしました。その精度を上げることを考えて」と、重点的に練習した武器が11W。短く握ってコントロールする練習もして「自分の生命線」とまで思うようになったクラブだ。11Wのショットへの信頼性が高まると、プレーに迷いがなくなった。
初日は首位に3打差の12位タイ。「メジャーは果てしなく遠い戦いだから、自分の位置を考えないようにしよう。考えた瞬間にフェアウェイの幅が狭くなる。夢にコースが出てくるくらいいいイメージを」と心がけると、2日目は首位に4打差4位タイに浮上する。
3日目にはトータル5アンダーでプレーを終え、首位の森田理香子に2打差2位タイ。最終日、最終組で森田、佐伯三貴と激突する。
「正直、3日目の夕方からジワジワ(緊張が)きていました。自分自身にプレッシャーをかけちゃいけない、と思うのと同時に、ゴルフ人生でやらなきゃいけないポイントだ、という思いもありました」という正念場。それでも、夫がビックリするほど、普通に食事をしてぐっすり眠れるのが強みだった。
最終日の朝になると、意外にも落ち着いた気持ちになった。「なんでもかかってこい、という感じでした。そういえば今、考えると負けた試合の方がジタバタしてたかも」と振り返る。
アクセスのいいフラットなコースで、毎年、大勢のギャラリーが詰めかける。最終組には、毎ホールティからグリーンまでぎっしりのギャラリーが見守っている。8番で長いパーパットを入れた後、9番ではドライバーでティショットをすることを主張したところ、キャディが反論。「刻んでフェアウェイキープの方が絶対いいでしょう」という言葉に耳を傾けた。5Wでフェアウェイをとらえてのバーディ。これで、トータル8アンダー。2位に2打差の単独首位で茂木はバックナインに入った。
2011年全米女子オープン優勝のユ・ソヨンが追い上げていたが、とにかく自分のゴルフに徹した。難しい13番、14番を前に12番でバーディを獲れたことも気持ちを楽にした。セーフティーに難しいポイントを切り抜ける。
「あともうちょっとだから頑張れ、という声がたくさん聞こえて、みんなが伴走してくれているような気がしました」と、応援を味方につけた。
「18番はとにかく難しい。そこまでいかにリードできるか」とプレーしていると、16番でバーディが来た。2パットでいいと思った10メートルが入ってリーダーボードを見た時、優勝を少し意識した。
18番のティに立った時に重圧が襲った。「やっと念願メジャーに勝てるかもしれない、と思って気持ちがブレました」と苦笑するショットは、ラフにつかまった。だが、2位の佐伯とも3打差あったことで落ち着いてレイアップできた。
グリーンに上がるときには、取り囲むギャラリーをぐるりと見渡した。「この人たちに後押ししてもらったんだ。目に焼き付けておかなくちゃと思って360度見ました」と、堂々の2打差優勝。目標通りメジャータイトルを手にした。
「ホントにうれしかった。今でも辛いことがあるとこの時を思い出すくらい。みなさんが私の力を引き出してくれたんです。ギャラリーをぐるりと見まわしたあんな気持ちになれる舞台を、微力ながら作りたい」。今の仕事は、この優勝シーンからつながっている。
目標を明確に設定し、そこに向かって努力し、手に入れたメジャータイトル。その輝きには、直後に子供を授かるという最高のご褒美までついてきた。結果的に最後の優勝に成った2013年ワールドレディスサロンパスカップの記憶が、セカンドキャリアを生きる現在の茂木を作り上げ、支えているのは間違いない。(文・小川淳子)