日蔭温子、黄ゲッキン、岡本綾子。最高峰・日本女子オープンのタイトルをめぐる争いは、最終組の3人に絞られていた。海外のスタンダードに合わせて、初めて3日間から4日間大会へと延長されたのもこの年から。3日間の大会よりも、より実力が問われる長丁場。アメリカで4日間大会に慣れている日蔭と岡本がトーナメントをリードするのも、自然の成り行きに見えた。
日蔭はこの大会に、苦い思い出があった。4年前の1978年、広島・八本松で行われた日本女子オープン。日蔭は最終組の3組前でラウンドし、トータル2オーバーの208でホールアウトし、クラブハウスリーダーとなった。しかし後続の吉川なよ子にプレーオフへと持ち込まれ「最初のホールの3打目をミスして、4打目であっさり負けた」。
周囲からは「もったいない」と酷評され、プレーオフに苦手意識も生まれた。1980年5月のヤクルトミルミルで初優勝を飾ったものの、7月に行われた北海道女子オープンで清元登子に、9月のミヤギテレビ杯では蔡麗香にプレーオフ負け。通算0勝3敗という、プレーオフでは厳しい数字が残されていた。
翌1981年は未勝利のままシーズンが終了。「このままではいけない」と米ツアー挑戦を決断。1年が明けると、1月3日に渡米。クオリファイイングスクールをクリアして米ツアーへと駒を進めた。
この経験が、大いにプラス効果をもたらした。「コースは長いし、グリーンは大きい。米ツアー選手との飛距離の差も痛感しました。たまたま練習ラウンドの後半で(当時最強の選手のひとりで「ビッグ・ママ」と呼ばれた)ジョアン・カーナーが追い付いてきたので一緒に回ったら、私のドライバーショットを2番アイアンで超えて行きましたから」。
米ツアーで生き残るため日蔭が取り組んだのが、フェアウェイウッド(以下FW)の技術を磨くこと。「もともと、FWが好きだった。クラブを短く持てばボールを上げられるし、長めに持てば低いボールで攻められる。ライが悪い時には、ボールを潰していけばいい。パー3で3Wを使うことも珍しくなかったし、時にはドライバーを使うことさえありました。弾道の高さは調整できたので、あえてフェードをマスターしようとは思わなかった」。
持ち球のドローで「キャリーさえ気を付けていけば、ピンを刺していくこともできるようになった」頃、周囲から「ウッドはピンに寄せるクラブじゃないのに」と驚嘆されるようになる。
メンタル面も、アメリカでのツアー生活で鍛えられた。「日曜日に一人で移動して、マンデークオリファイに出ることもあって、1ストロークの重さを痛感しました」。マンデーに落ちれば、1週間の働き口がなくなる厳しい世界。予選に落ちれば、賞金はゼロ。「100ドルを崩せば、すぐになくなる」日常を経験しながら、鍛え上げられたメンタルが、徹底的にリスクを回避するコースマネジメントに表れるようになる。
「クロスバンカーは絶対に避ける。バンカーに入れてグリーンに乗せられずアプローチをするよりも、フェアウェイからなら5Wでグリーンに乗せられる。ピンが右に振ってあったら、グリーンの右には絶対に外さない。最悪でも足(ラン)が使える左サイドに外すような攻め方をするようになりました」。
日蔭には、師匠と呼べるプロがいない。武蔵CC豊岡C(埼玉県)でキャディをした後、プロを志し練習場勤務の道を選択。仕事の後、午後3時から4時間毎日打ち込む生活を続けた。「プロになるにはトラック3台分のボールを打てとか言いますが、確かに10代はボールを打ちました」という日蔭が、この間アドバイスを求めたのは「ハンディ3〜4の常連さんたち」だけだった。
それだけにゴルフ場で働きながらプロの師匠から指導を受けた選手たちが自在にこなす「上げて止めるアプローチの技術が私にはなかった」。使うクラブはもっぱら9IかPW。「上げるといってもPWで開く程度。だからピンに近いサイドには、絶対外せなかった」。
「距離が長く、グリーンが大きい米ツアーのコース」で戦ううち、芝の上で思う存分練習できる環境で身に付けたフェアウェイウッドの技術と、ボギーを滅多に叩かないコースマネジメントが磨かれていく。ピンのY―BRADEから放たれる絶妙なタッチのパッティング。日蔭にしかできないゴルフが、厳しい日々を送るうちに確立されていった。
それが日本女子オープンの大舞台で生きる。最終日は、4アンダーで黄が単独首位、2打差の2位で日蔭、さらに2打遅れて3位に岡本という最終組。日蔭は「1番のセカンドは、いきなりディボット(跡)からのショット」という不運に見舞われながらも「ハーフトップしたんだけど、ラッキーにも7メートルに乗った。ギャラリーからも『ラッキー続きだから入れて入れて』なんて声がかかる中、バーディが取れたんです。それで最終組は、シーソーゲームになっていきましたね」。
黄を逆転し、1打差の単独首位で迎えた最終18番。御多分にもれず、日蔭にもアドレナリンの作用が出る。「届かないクラブで打ったつもりが、火事場のバカ力でグリーンオーバー」。だが、この後磨き上げたアプローチで、ピン下1メートルにピタリとつけた。「プレーオフにはしたくなかったし、ナショナルオープンだけに、何とか獲りたかった」。タイトルがかかるパットが心地よい音をたててカップに消えた。
日蔭はこの優勝で10年シードを獲得。思う存分、アメリカのツアーに挑戦できる体制を整えることができた。「『せっかく日本で稼いだお金を、何でアメリカに行って使っちゃうの?』なんて言う人もいましたけど、厳しいところで戦って来たから、その分稼げる。行ける時に行けたから、1987年に日本で6勝もできて、賞金女王争いもできた(結果は2位)わけですから。それが投資というものです」。
1982年の日本女子オープンからちょうど10年後の1992年の名神八日市。日蔭は2度目の日本女子オープンを制することになる。「若い人にも、海外には行ける時に行っておいた方がいいと言いたいですね」。崩した100ドルがあっという間になくなる経験をした日蔭の言葉。それが今の若いゴルファーたちにも、届いてほしい。(文・小川朗)
日蔭はこの大会に、苦い思い出があった。4年前の1978年、広島・八本松で行われた日本女子オープン。日蔭は最終組の3組前でラウンドし、トータル2オーバーの208でホールアウトし、クラブハウスリーダーとなった。しかし後続の吉川なよ子にプレーオフへと持ち込まれ「最初のホールの3打目をミスして、4打目であっさり負けた」。
周囲からは「もったいない」と酷評され、プレーオフに苦手意識も生まれた。1980年5月のヤクルトミルミルで初優勝を飾ったものの、7月に行われた北海道女子オープンで清元登子に、9月のミヤギテレビ杯では蔡麗香にプレーオフ負け。通算0勝3敗という、プレーオフでは厳しい数字が残されていた。
翌1981年は未勝利のままシーズンが終了。「このままではいけない」と米ツアー挑戦を決断。1年が明けると、1月3日に渡米。クオリファイイングスクールをクリアして米ツアーへと駒を進めた。
この経験が、大いにプラス効果をもたらした。「コースは長いし、グリーンは大きい。米ツアー選手との飛距離の差も痛感しました。たまたま練習ラウンドの後半で(当時最強の選手のひとりで「ビッグ・ママ」と呼ばれた)ジョアン・カーナーが追い付いてきたので一緒に回ったら、私のドライバーショットを2番アイアンで超えて行きましたから」。
米ツアーで生き残るため日蔭が取り組んだのが、フェアウェイウッド(以下FW)の技術を磨くこと。「もともと、FWが好きだった。クラブを短く持てばボールを上げられるし、長めに持てば低いボールで攻められる。ライが悪い時には、ボールを潰していけばいい。パー3で3Wを使うことも珍しくなかったし、時にはドライバーを使うことさえありました。弾道の高さは調整できたので、あえてフェードをマスターしようとは思わなかった」。
持ち球のドローで「キャリーさえ気を付けていけば、ピンを刺していくこともできるようになった」頃、周囲から「ウッドはピンに寄せるクラブじゃないのに」と驚嘆されるようになる。
メンタル面も、アメリカでのツアー生活で鍛えられた。「日曜日に一人で移動して、マンデークオリファイに出ることもあって、1ストロークの重さを痛感しました」。マンデーに落ちれば、1週間の働き口がなくなる厳しい世界。予選に落ちれば、賞金はゼロ。「100ドルを崩せば、すぐになくなる」日常を経験しながら、鍛え上げられたメンタルが、徹底的にリスクを回避するコースマネジメントに表れるようになる。
「クロスバンカーは絶対に避ける。バンカーに入れてグリーンに乗せられずアプローチをするよりも、フェアウェイからなら5Wでグリーンに乗せられる。ピンが右に振ってあったら、グリーンの右には絶対に外さない。最悪でも足(ラン)が使える左サイドに外すような攻め方をするようになりました」。
日蔭には、師匠と呼べるプロがいない。武蔵CC豊岡C(埼玉県)でキャディをした後、プロを志し練習場勤務の道を選択。仕事の後、午後3時から4時間毎日打ち込む生活を続けた。「プロになるにはトラック3台分のボールを打てとか言いますが、確かに10代はボールを打ちました」という日蔭が、この間アドバイスを求めたのは「ハンディ3〜4の常連さんたち」だけだった。
それだけにゴルフ場で働きながらプロの師匠から指導を受けた選手たちが自在にこなす「上げて止めるアプローチの技術が私にはなかった」。使うクラブはもっぱら9IかPW。「上げるといってもPWで開く程度。だからピンに近いサイドには、絶対外せなかった」。
「距離が長く、グリーンが大きい米ツアーのコース」で戦ううち、芝の上で思う存分練習できる環境で身に付けたフェアウェイウッドの技術と、ボギーを滅多に叩かないコースマネジメントが磨かれていく。ピンのY―BRADEから放たれる絶妙なタッチのパッティング。日蔭にしかできないゴルフが、厳しい日々を送るうちに確立されていった。
それが日本女子オープンの大舞台で生きる。最終日は、4アンダーで黄が単独首位、2打差の2位で日蔭、さらに2打遅れて3位に岡本という最終組。日蔭は「1番のセカンドは、いきなりディボット(跡)からのショット」という不運に見舞われながらも「ハーフトップしたんだけど、ラッキーにも7メートルに乗った。ギャラリーからも『ラッキー続きだから入れて入れて』なんて声がかかる中、バーディが取れたんです。それで最終組は、シーソーゲームになっていきましたね」。
黄を逆転し、1打差の単独首位で迎えた最終18番。御多分にもれず、日蔭にもアドレナリンの作用が出る。「届かないクラブで打ったつもりが、火事場のバカ力でグリーンオーバー」。だが、この後磨き上げたアプローチで、ピン下1メートルにピタリとつけた。「プレーオフにはしたくなかったし、ナショナルオープンだけに、何とか獲りたかった」。タイトルがかかるパットが心地よい音をたててカップに消えた。
日蔭はこの優勝で10年シードを獲得。思う存分、アメリカのツアーに挑戦できる体制を整えることができた。「『せっかく日本で稼いだお金を、何でアメリカに行って使っちゃうの?』なんて言う人もいましたけど、厳しいところで戦って来たから、その分稼げる。行ける時に行けたから、1987年に日本で6勝もできて、賞金女王争いもできた(結果は2位)わけですから。それが投資というものです」。
1982年の日本女子オープンからちょうど10年後の1992年の名神八日市。日蔭は2度目の日本女子オープンを制することになる。「若い人にも、海外には行ける時に行っておいた方がいいと言いたいですね」。崩した100ドルがあっという間になくなる経験をした日蔭の言葉。それが今の若いゴルファーたちにも、届いてほしい。(文・小川朗)